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2つ目の自分(9)>トラウマとリハビリと留年と彷徨いながら混沌の恋愛と出会いをつらつらと

2つ目の自分(8)>できない、ない、ない、ない、ない、ない、なにもなかった時間を綴る、から続きます。


春からは、一学年下に留年してスタートした。

学年が変わって幾分か、楽になったのだろうか。以前の同級生も、当たり前に近くの教室で授業を受けるし、お昼に一緒になることもあり、よく話をした。だけど新しい学年の、新しい友達ができた。これでだいぶん息がつけるようになったのだろうか、彼らは今の私しか知らない。天然ボケと取られるうっかりしたミスの連発や、忘れっぽさ、言葉の出てこないところ。なんっかずれてるペース。まあそれも私で、その私で、関われるようになった。それが、嬉しかったな。

まだまだ自分自身を受容するには、長いながーい時間を過ごしたんだけど。


復学してからもずっとリハビリに通っていた。だけど留年を決めた一年目の冬だったかな、もう同じ病院に通えなくなった。

外見になんの変化もなくて、側から見たらのんびりしてる奴だな、程度にしか見えない私。その中身は、誰と話しても自分の思いを伝えきらない、ドロドロの孤独を過ごしてたわたし。唯一その思いを聞いてくれる場所だったのが、リハビリだ。毎日の悔しさを、言葉に変換できないなりに、精一杯伝えた、つもりだったよ。返ってきたのは、「誰でもあるよ」リハビリの先生に、さらっと流された、その瞬間。

クラクラと脳味噌が歪む。

これは、比喩じゃない。

本当に目の前が、揺らいだ。脳みその細胞がその瞬間、捻り潰されたんじゃないかってくらいに。これは10年経っても消えないトラウマとなった。伝えきれず、分かってもらえない恐怖が体に染みつく。後に両親だけに見せる、癇癪に現れることになる。

それは私を慰めたり、安心させるために言ったのだろう、今なら分かる。だとしても、とても軽い、簡単な言葉だ。そんなこと、毎日会う誰にでも、言われてきていたんだよ。誰にも分かってもらえない高次脳機能障害の理解のなさから、さらにさらに重い、色褪せたピントの合わない世界に沈んでいった。


当時高次脳機能障害は、見えない障害と言われた。体が健康なだけに、自分でも簡単に起こる、ちょっとしたミスに翻弄される。元々天然入ってるねと、よくおとぼけをして笑い合ったりもしていただけに、何が私自身で、何が後遺症で、私は怠けているのかなどど、尚更分からない。だけどちょっとしたミスだって、意識し、気を張っていても、できない。その「意識」し、「気を張る」ことにだって、健康な自分がいないとできないんだ気づいたのも、もっとずっと後の話。

人間の脳や身体の機能は本当に奥深い。



どうも記憶力が落ちているらしい、忘れるなら書き留めておきたいと、わたしが最初に始めたのが、当時流行り始めていたYahooブログだった。生活の全てがリハビリだと、お世話になった看護婦さんが言っていたことを覚えていた。興味のあることは、なんでも始めた。

そこですぐ、同じ後遺症のお姉さんとやりとりするようになる。何度も投稿し合った。わたしがブログに書き留めていたのは、どんなに毎日うまくいかないか、分かってもらえないか、悔しくて悔しくて、叫びのようなもの。そこではじめて、「分かる、同じだよ」って言ってもらったんだ。どんなに救われたか。

初めて大阪に遊びにきてくれたとき。10歳も歳上だったので、いろいろと教わることも多い。後遺症どうこうの前に、電車でどかっと足を開いて座る小娘。正してもらったのは、やけに覚えている。当時の勝気な性格で気が合ったのか、その後も東京と大阪で、行き来し合った。本当にこの時の偶然とも言える出会いは、ありがたい。雛が親鳥を見つけたように、この時信じられるのは、東京のお姉さん、のみだった。どんなに救われたか。


自分で自分のことが分からず、周りのペースにも合わせられない。一人で電車に乗って、時空のない虚無な旅に出ることもあった。特急に乗ってガタゴトと、知らない町を目指す。知らない駅に着いて、知らない道を、携帯の地図を頼りに歩く。

もちろんそんなのも、迷って、迷いながら。電車を間違えても、乗り直しながら、スマートに失敗もせずできたことなんて、ないけれど。迷うのが不安になると、来た道を写真に移して、記憶代わりにもした。その時の初めてのデジカメは、療養中に母が買ってくれたもの。

そうやって少しずつ、新しい私と暮らす術を身につけていった。


岡山で全国の高次脳機能障害者の集まりがあると知り、個人で参加したこともある。

そこで出会った、島根の子。その後も大阪と島根でよく連絡を取り合った。同じ高次脳機能障害の男の子だ。

それがきっかけで、島根に遊びに行くようにもなった。はじめは自分と同じ障害って、どんな感じなのか、知りたかったんだ。自分を知りたい思いが強くて。それからは高次脳機能障害モノ同士、楽しく恋愛した。

彼のお母さんにとてもお世話になったことを、いまだによく覚えている。当時、一人で暮らして大阪から遊びに来れるとは言え、彼の家でトイレの蛇口を閉め忘れてほったらかしちゃうような、おとぼけを繰り返していたから。彼から障害を知りたいといいながら、私もまだ変わった自分を学び直している最中だった。周りとペースが合わないことも多く、危なっかしかっただろう。


同じ頃、大阪で高次脳機能障害のリハビリ病院に通い始めたことで同じ境遇の友達もできた。その反面、大学に通うことで、こことの違いに戸惑った。どうしてこんなにも見える世界が違うのか。同じ人間なのに・・・

とは言え、方や療養を経て、リハビリのまっ最中だ。若者が生き生きとしている大学とは、訳が違う。今なら分かる。だけどわたしだってキラキラしたかった。後遺症が残り、リハビリしているけど、大学でだって、病院でだって、キラキラしたかった。

この悔しさが原点だ。この自我のおかげで、今がある。これからがある。わたしはわたしを、諦められなかった。




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ここまで読んでくださり、ありがとうございました☺︎

二十歳意識不明、高次脳機能障害。

赤ちゃんから成長し直し。大学を卒業して、デンマーク留学、日本巡回写真展、アートセラピスト、6年間の遠距離恋愛の後渡米、国際結婚、100/8000人でサンフランシスコ一等地アパートご褒美の当選

泥臭くクリエイティブに生きるストーリー

続きます。



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