山家屋

私がこれまで集めてきた史料や古美術品を紹介します。また博物館で写真撮影がOKだった資料…

山家屋

私がこれまで集めてきた史料や古美術品を紹介します。また博物館で写真撮影がOKだった資料でこれはと思ったものを私目線で紹介します。掲載しました資料について、博物館などへの貸出や書籍への掲載を希望される場合はメール(yuasa69@gmail.com)にてお問い合わせください。

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最近の記事

皇國二十四功 鳥居強右衛門勝高

明治28年に作製された浮世絵。 画工は月岡芳年(1839-1892)。日本史の中で忠功の誉れが高い人物を24名を描いたものです。その中の1枚に鳥居強右衛門が描かれています。 武田軍に囲まれた長篠城から脱出して岡崎まで走り抜けた強右衛門ですが、城を脱出するときの様子を描いたものです。 上部には戯作者の柳亭種彦が強右衛門の略歴を記しています。

    • 茶祖明恵上人像 森山香浦画

      明恵は鎌倉初期、華厳宗の高僧。紀伊国の豪族湯浅氏の一族で、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山した。後鳥羽上皇を始め、公家の九条兼実、九条道家、西園寺公経、武家の条泰時、安達景盛、婦人では建礼門院など多くの人びとからの尊崇を集めていた。 臨済宗の祖栄西が請来した茶の種子を栂尾に蒔き、茶の普及のきっかけを作ったとされ、茶祖と崇められている。 作者の森山香浦(1881~1958)は旧佐倉藩士の森山春温の三男として生まれる。はじめは村越如蘭に手ほ

      • 岩瀬忠震筆「躑躅崎」

        幕末の外交官、岩瀬忠震が記した書です。 忠震は嘉永2年(1849)11月18日、甲府徽典館の学頭を命ぜられ、翌3年1月22日に甲府へ向けて旅立っている。翌4年2月28日に江戸に戻るまでの、およそ13か月間、忠震は甲府で過ごしている。冠防印に嘉永4年を意味する「嘉永辛亥」とある。 忠震は戦国時代に武田家の居館があった躑躅ケ崎を訪ね、詠んだものであろう。 設楽原にその源流を置く忠震が甲府を勤務地としたとき、故郷設楽原で決戦を行った武田家の居館である躑躅ケ崎を訪ねたいという気持ちを

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        • 六十余州名所図会 三河 鳳来寺山巌

          三河国設楽郡にある霊峰鳳来寺山の描いた浮世絵です。画工は歌川広重(安藤広重)です。日本全国の名所を浮世絵で連作したもので70枚の内の一枚です。 三河国からは鳳来寺山の風景が採用されています。本シリーズは嘉永6年から安政3年までにわたって作られますが、本作は嘉永6年8月の作です。 鳳来寺山の麓門谷から続く石段とたなびく雲が鳳来寺山の険しさを表すとともに仁王門のほか塔頭も描かれており、鳳来寺山の特徴をよく捉えている。

        皇國二十四功 鳥居強右衛門勝高

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        • 浮世絵
          3本
        • 日本画
          10本
        • 筆跡
          2本
        • 火縄銃
          2本
        • 油絵
          1本

        記事

          火縄銃 高倉甚六作

          播州姫路の鉄炮鍛冶である高倉甚六によって製作された火縄銃です。残念ながら所々の部品が欠けており、製作年代は分かりませんが、高倉甚六は江戸初期に活躍した鉄炮鍛冶ともいわれていますので、銘をそのまま信用すれば比較的古い時代に製作されたものとも推定することができます。 全長は853㎜で比較的短く馬上筒に類する火縄銃です。

          火縄銃 高倉甚六作

          浮世絵 大日本名将鑑 武田信玄

          451年前、三方原の戦いで徳川家康を打ち破った甲斐国の武田信玄が三河国設楽郡の野田城を取り囲みました。野田城は徳川家康の国衆菅沼定盈が400名の兵を率いて籠もっていました。一方武田軍は20,000の兵を率いていたと伝えられています。 徳川家康は三方原の戦いの直後で野田城を救えるような状況ではありませんでした。しかし、野田城を見捨てることは出来ず、野田城の近くの旗頭山ままで陣を動かしますが、あまりの大軍に酒井忠次の進言を受け入れ、兵を引きます。 菅沼定盈もなかなかの武将で、兵の

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          浮世絵 大日本名将鑑 武田信玄

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          富士山 湯浅邦三郎画

          私の祖父、湯浅邦三郎が描いた富士山です。中学校の美術教師でしたが、その傍らで創元会や新槐樹社、現代美術協会に所属し、昭和期の地域画壇の興隆にも力を尽くしました。 富士山には特別な思い入れがあったようで、同じ画家である甥に「人生の理想は孤高の富士」とよく語っていたようです。邦三郎は富士山を題材にした作品をいくつか遺しており、本作品もそのうちの一つです。 1957(昭和32年)6月 油彩/板  220㎜×272㎜

          富士山 湯浅邦三郎画

          徳川家康二十一将図

          徳川家康を支えた家臣たちを描いた武将図。通常は16人を描いたものが多いが、本資料は21人と多くの家臣を描いています。その分、他の武将図には描かれていない家臣が描かれています。 本図の筆者は銘に藤原光亮とありますが、如何なる人物か詳細は全く分かりません。

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          徳川家康二十一将図

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          徳川家康二十将図

          徳川家康を中心とした武将図の多くは16人の武将を描いたものが多いが本図は20人の武将を描いています。 16人の武将たちは概ね固定されていますが、本図にはあまり知られていない武将も描かれています。家康を支える武将は非常にたくさんおり、そうした人物の顕彰の意味合いもあったとも考えられます。

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          徳川家康二十将図

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          徳川家康十六神将図 その2

          こちらの資料は徳川家康とその家臣をまるで軍議を行っているような様子で描かれた十六神将図です。 中央上部に家康を配し、その背後には大きな松が描かれています。松は松平に通じ、こうした絵では家康を表すものとしてよく描かれます。

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          徳川家康十六神将図 その2

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          徳川家康十六神将図

          徳川家康を支えた武将を16人挙げて、描いた武将図です。徳川家康はその死後、東照大権現となり、それを支える四天王の4人と十二神将軍の12人を合わせて十六神将となったとも伝えられています。 十六神将図の他に20人に武将を描いたものや16人が円陣を組んだものなど、さまざまな構図があります。 16人の武将たち 武家の礼装である直垂に烏帽子姿で描かれています。名前は記されていませんが、袖に描かれた家紋から個人の特定ができます。それぞれ家康の家臣としていわゆる多くの武功を挙げた武将た

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          徳川家康十六神将図

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          本多忠勝像(三村霊楓画)

          本多忠勝像(三村霊楓画)

          鳳来寺山(藤井達吉画)

          鳳来寺山(藤井達吉画)

          湯浅倉平書(一行詩)

          湯浅倉平書(一行詩)

          川中島の戦い図

          川中島の戦い図

          豊臣秀吉像(松本楓湖画)

          豊臣秀吉像(松本楓湖画)