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既婚ゲイの動悸

ある密やかな目的のために、木曜日(7/16)から土曜日(7/18)までの三日間を静岡で過ごした。仕事は休んだ。妻には「出張に行ってくる」と言って家を出た。前日の水曜日は午後から会社を休んで、コツコツと「出張」の準備をした。あれを持って、これも持って——、身の回りの準備は簡単なのだけれども、持っていく本と聴く音楽を選ぶのには、いつも時間がかかる。

その時々の目的に適っていて、雰囲気を盛り上げるような、そして、僕の今の——敢えて「今」と書いてみよう——感情を波立たせるような本と音楽を選ぶ。今回のような、特定の目的を持って、ひとりで数日家を空けるような外出のときは特に悩む。今回は安吾の「堕落論続堕落論」、岡本かの子の「老妓抄」そしてもう一冊、これら計三冊を携えた。もう一冊の内容とその意図については、追って別の機会に書きたいと思う。

安吾と老妓抄は朗読で「読む」ことにした。新潮社から、安吾も岡本も朗読CDがリリースされている。特に名古屋章の「堕落論・続堕落論」が絶品で、何度も聴いている。安吾の文章は字面で読むとリズムがとても悪い。パッと見も(文字列としても見ても)綺麗ではない。句読点の打ち方が下手で、なかなか流れない。文法的にも怪しいところがあるし、ゴツゴツとしたリズムの悪さは、個性的なもの・独特な雰囲気が反映されたものではなくて、単に彼は、文章を書くことが下手であったからなのではないか——。昔からこう感じていた。学生時代から安吾は悪文積ん読コーナーに置いてある。いやしかし、それにしても、この朗読は本当に巧い。きっと色々と赤ペンを入れて、読み上げる原稿を敲いたのだろう。

「出張」の目的は次の三つ:
 (1)ホテルに閉じ籠って徹底的に独りになる
 (2)男(と女性)とセックスをする
 (3)学生時代からの友人と「逢う」
このうち(3)については「続・既婚ゲイの自死」というタイトルで後日書きたいと思う。(1)がメインで外に出た。もう家には居たくない。妻は小癪だ。しつこい。一言一言が癪にさわる。要領がいいだけで「がさつ」で、それを見ているだけでもイライラする。とにかく僕は、独りになりたかった。だから、それから逃げた。都合よく姿を晦ました(くらました)。

新幹線の中では「老妓抄」を聴いていたが、いつの間にか寝てしまっていた。ホテルには14時過ぎに入った。間取りもベッドも広い部屋を選んだ。着くとすぐに遮光カーテンを閉め切って真っ暗にした。朗読の続きを聴いたり、音楽を聴いたり、考えごとをした。デスクで動画を見てダラダラしたりノートに向かって書き物をした。すこし寝た。

16時——、友人と会う時間になった。(注:この友人は(3)の友人とは異なる。(3)の友人は女性である。)その彼からLINEがあった。セキュリティーが厳しいので、ロビーまで迎えに行った。「お久しぶり。2年振りなのかな」。会うなり彼は、こう言って頬を赤らめた。エレベーターの中で彼は、僕と距離を置いて隅に立っていた。「ますます可愛くなったねー」なんて言うと、頬を赤らめたまま隅で俯いて、かわいいバックで下半身を隠しながら、足をモジモジさせていた。

彼は「たかひこ」という名前で、数年前に出張で静岡に行った際、そこで遊んだ時に知り合った。僕と同い年である。小柄で、礼儀正しくて、側(はた)からは明らかに「そう」だと判るような所作が、本当に綺麗で繊細で、そして声がかわいい。もちろん顔も可愛い。ハーフのような顔立ちだ。数年前のあのとき、僕たちはお互いを気に入ってしまった。それから半年後、金沢で落ち合って、一泊だけの旅行をしたことがあった。雑貨屋さん巡りをしたり、散歩をしたり、ベタだけどそんな風にして過ごした。翌日、駅で別れた後、こんなLINEのメッセージをもらった。「はやく、ゆういち君のお嫁さんにしてください。待っています」。僕が既読にしたまま数年が経った。

一ヶ月前頃、彼のことを思い出して久しぶりにLINEをしてみた。
「数年前に静岡のxxで会って、そのあと金沢へ旅行に行った「ゆういち」なんだけど、覚えている?」すると返信があった。「ゆういち君、本当にお久しぶり。もちろん覚えているよ!」。予定を聞いた。木曜日の夕方から数時間なら空いているらしい。すぐ会うことになった。会うまで頻繁にやり取りをした。まるで遠距離恋愛中のカップルが、会う・会える直前に文字だけのやり取りで盛り上がるように。

部屋の扉を開けた。うす暗い。開けっ放しにしていたPCの明かりだけが部屋を照らしている。「どうぞ、どうぞー。入りぃー(関西弁)」なんて言いながら招き入れて、扉を閉めた。彼は部屋の奥にある椅子にバッグをゆっくりと置いた。その様子を懐かしげに眺めていた。「たかひこー、本当に久しぶりだなー」と呟きながら近くと、「ずっと待っていたよ」と言ってしがみ付くように抱きつかれた。懐かしい匂いがした。何かが下半身に当たっている。たかひこ君は勃起していた。「あら笑」なんて揶揄い(からかい)ながら、うなじをクンクンしてみると、「ゆういち君のことを見た瞬間に勃っちゃったの。隠してた笑」なんておっしゃる。あら。

その後は早かった。僕は彼を思い切り突き飛ばし、壁に凭れさせた。着ていたものを脱ぎながら、お互いに唇と舌を奪い合う。彼の勢いがすごい。僕はそれを払いのけ、うなじと耳に舌を這わせた。パンツを脱いで露わになっている、たかひこ君の中心からは、ものすごい量の涎が出ていて、その先からポタポタと床に垂れていた。ベッドで挿れた。挿れたまま動かずにいた。ぴったりと張り付いた状態で、お互い耳元で色々な話をした。旅行の後のこと、返信をせずに申し訳なかったこと、お互いの最近のこと。結婚のことは隠した。時々ゆっくり動かしたり、下半身に力を入れてもっと僕の中心を膨らませてみた。どうやらずっと「当たっている」ようで、お腹には大量の涎が溜まっていた。

もっと、と懇願されて浴室で突いた。浴室を蒸し暑くして、後ろから突きまくった。突く、滑りを良くするドロドロを僕の中心に塗りたくる、また突く。この繰り返しだった。汗が凄い。膝がガクガクする。疲れるけど気持ちいい。彼は体と声を痙攣させて、突かれたまま「例の匂い」のあれを撒き散らした。それも二回も。僕はまだだったので、ドロドロを思いっきり僕の中心に塗りたくって、また突いて腰を振った。彼の中心はまだ直立だった。僕の絶頂とともに、彼は「吹いて」しまった。

幸福な終わり方だった。ベッドに戻ったとき耳元でそう言われた。
とても恥ずかしくなった。僕はまた勃起してしまった。不意に触られて僕が驚いたので、二人で大笑いしてしまった。そのあと下着に着替えて、彼が帰る時間のギリギリまで、ベッドでケラケラ笑いながら話をしていた。たかひこの声、何かすごかったなー的な。

——ついに、時間が来た。彼が着替えなくてはならない時間になってしまった。一緒に食事にでも行きたかったけれども、予定があるから仕方がない。専門学校の夜間部で服飾の勉強をしているとのことで、今から行かなくてはならないらしい。すごいな、と思った。我に返りそうなくらい。仕事を休んで、こんなことをしている僕とは大違いだ。

着替えた彼を入り口まで送っていった。肩を寄せて「ホテルの外まで送っていこか(関西弁)」なんてふざけて言ってみたら、笑って断られた。辛くなるからいい——。いきなり唇を奪われた。不意を突かれた。舌が絡まる、再び盛り上がりそうだったけれど、その直前で止めたのは彼だった。それも上目遣いの笑顔で(僕は実に呆れるほど愚かな男だ)。僕が彼から体を離そうとしたとき、耳元で冷静な声でこう囁かれた。

「ゆういち君、実は結婚していたりして。左手の薬指に跡がついているし、無意識に触っている。本当は僕をお嫁さんにして欲しかったのに」。

彼は、瞳を潤ませて「できるならば、また会いたいです。ゆういち君からの連絡を待っています。僕からも連絡します。さようなら」と言った。僕の肩から肘までを、まるで撫でるように触ったあと、彼は出ていった。踵を返し、扉から出て歩き始めた彼の横顔は、とても引き締まって見えた。僕は扉に凭れながら、エレベーターホールに行くまでの彼の後ろ姿を見守っていた。彼は一度も振り返らなかった。

彼の背中が消えたことを確認して、僕は部屋の扉を閉めた。すぐにシャワーを浴びた。ベッドの上にあるベトベトのバスタオルは脱衣室に投げ込んだ。そしてベッドに倒れこんだ。結局easyな関係なのだ。最後のあれも、別れの場を盛り上げるだけの一言に違いない。こう自分に言い聞かせた。自分に強く言い聞かせるほど、彼の雰囲気には、切迫としたものがあった。

まだ19時だった。音楽が聴きたくなった。土臭い、けれども旋律美を伴う音楽を。轟音の濁流に飲み込まれたかった。ピアノの強烈な連打とか、オーケストラの絶叫とか、とにかく今の僕を打ちのめしてくれるような、音楽が聴きたかった。とにかく僕を打ちのめしてほしい。

僕はハチャトゥリアンのこれを聴いた。0:56から始まる美しい主題2:16から再現される主題、そして6:12からのクライマックス——、僕はちょうどこの箇所で、この記事のトップ画像のように、喉元を思い切り刺されて死にたいと思った。絶叫と絶頂の音の塊の中で、それにかき消されるように絶叫しながら、死にたい。そう思った。聴き終えた後は、まるで絶えたようにそのままでいた。そのあとも思い浮かぶロシア音楽をいくつか聴いてみた。どれも美しくて、土臭くて、心地よく刺された気がした。——いつの間にか寝ていた。

僕の薬指はなぜか、いつも浮腫んでいて、ずっと痺れている(姿勢の問題だろうと思いたい)。そして「左手の指輪」は、普段はなかなか抜けない。石けんやオイルを使っても抜けない。けれどもこういう時は、いとも簡単に抜ける。石けんでチョイチョイと手を洗って、指輪を引っ張ると、スルッと抜ける。ただその瞬間に大きな動悸に襲われる。それが半端ではない。心臓の音が聞こえるようだし、抜いた後も、薬指そのものがまるで心臓のように、収縮して動いているようにも見える。「もののけ姫」にもアシタカの右腕が、何かのきっかけで(それらは痣に関係している)バクバクと自律的に動くシーンがあるけれども、あれに似ている。

前回の記事で書いた痣——、この濃く、混じり気のある「何か」が原因となってできた(透明な)痣を眺める。僕の一通りの、ありきたりな不純は大いに認める。それ以上に、何かどす黒く呪いのような不純さ、ときどきそれが、生き物のように大きく大きく脈動する。それに苦しみ、僕の何かを侵しはじめる。

 仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途な姿を見たいと思う。私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。
「何も急いだり、焦ったりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆で心残りないものを射止めて欲しい」と(老妓は)云った。
                      岡本かの子「老妓抄」より

右利きの彼は、僕の左肩から左肘を包むよう撫でて帰っていった。左肩から手先に視線を動かす。手のひらが赤い。彼が指を食い込ませた跡もある。手のひらからは、例の左指が生えていた。指が震えている。確かに薬指には指輪の跡があった。

つくづく僕は(アシタカと違って)最悪なSeinだと思う。
けれども僕は、こんな僕でも、確かに「混り気のない没頭した一途な姿」を見て「素直に死にたい」と思った。それも「身近に見て」。「混り気のない没頭した一途な姿」は、とても美しいものだから。

いっぽうで、こんな文章を書いている僕は、不貞かつ不逞——、つまり醜悪の極みである。

「既婚ゲイの自死」に続く。





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