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私が熟成兄弟を興すまで(藤原佑太)

先日、お会いさせて頂いた岩井慶太郎さん(BBQ研究家)のnote記事に触発されました。


個人の原体験を共有することは非常に意味があると感じました。本記事は熟成兄弟ではなく、藤原佑太としての記事です。私を構成している人生の3大経験は、「イジメ、アメリカ留学、バンコク駐在」です。どのように熟成兄弟を興すようになったのか?を綴ります。先ずは、私という人間を知ってもらう必要がありますので、時系列順でご紹介します。


①中学1年生のときのイジメ実体験


教師と闘う、正義感の強い小学生
ある日、低学年の生徒(2つ年下の弟の友達)が、コメカミ部分の髪の毛を教師に引っ張られているところを目撃しました。

既に小学生ながら、担任教師から、このコメカミ教師に注意してもらうように私が頼んでも、絶対に担任教師が動かないことは、理解していました。学校の先生というものが、無力だと考えていた私は、事情を話し、コメカミ教師と、私の対談の場を設けてもらいました。

コメカミ教師曰く、生徒が嘘をついたから体罰をしたとのことでした。私は、仮に嘘をついたとしても、体罰の度が過ぎていると主張しました。その場は、コメカミ教師が形式上で非を認めた形で終わりました。私は、コメカミ教師は、絶対反省してないなと感じながらも、コメカミ教師が体罰を与えた生徒に謝罪することを約束してもらい、話し合いの場は幕を閉じました。

ほっとけない症候群
コミュニケーションが得意ではないクラスの友達も自分の誕生日会に呼んでいました。誘われた方は「ええから、ほっといてくれよ」と思っていたかもしれませんが、クラスの輪に入れない友達をほっとけない性格でした。

遠足のグループ決めとかでも、最後に何人か余るじゃないですか?

余りそうな雰囲気を察すると、仲のいい友達グループを自ら離脱して、彼らとグループを組んでいました。親はそのようなエピソードを担任の先生から聞かされて、とても誇らしげでした。

突然イジメられるようになった中学1年生
中1のクラス分けで、小学校のときに仲が良かった友達とはバラバラになりました。

イジメられた期間は半年ぐらいだったと思います。

体に傷が残るような重度のイジメではありませんでしたが、手を強く握られたり、複数人に軽く蹴られることもありました。何がきっかけだったかは分かりません。いつのまにかそのような状態になっていました。私は自尊心が強いので、当時、真剣に悩みました。相手を待ち伏せして、金属バットで後頭部を思いっきり殴りつけるかどうかを。私がもう少し馬鹿なら彼らを殺しに行っていたと思います。実際に、何回もシミュレーションしました。人生を無駄にできないと思い耐え忍ぶことを選びましたが、解決策は全く見つかりませんでした。 強くなるために家で筋トレを始めました。筋トレは本当にハードです。そのハードさゆえに、筋トレ中は普段の悩みを完全に忘れることが出来るのでイジメ対策としてお勧めです。

筋トレすると強くなった気になります。

これが心の奥で支えとなっていた気がします。まぁ、翌日からまた攻撃されて痛いのは変わらないのですが笑 ずっと続けていたサッカー中も全ての邪念をフィールドの外に置くことができました。サッカーとサッカーを通じて知り合った友達には本当に救われました。感謝しても感謝しきれないです。当時一番ツラかったのは、小学生のときに仲の良かった友達にイジメられているところを目撃されることでした。あと、親には絶対にバレたくないと考えていました。

一度、反撃して主犯格の胸倉を掴んだことがあります。単純に自分の間合いに相手がいたので反射的に動きました。イメトレしていましたが、いざそのときが来ると、結局は馬鹿になれず、やりすぎた場合の相手の身体を心配する始末でした。

自分にはケンカは向いていないとつくづく痛感しました。

ちなみに小学校のときはサッカー以外に、極真空手とラグビーも習っていました。胸倉を掴んでからはイジメも減り、中2のクラス変えで主犯格と別のクラスになりました。中2からは仲の良かった友達と同じクラスになり、小学校のときのような無敵時代を取り戻します。

中学1年のイジメ経験のおかげで、弱いものイジメされる人間の気持ちが痛いほど理解できるようになりました。その場の空気に流されて、弱いものイジメをするような人間にならないことを心掛けるようになりました。

人生の転機となる気付き

イジメ経験で理解したことは、大きく3点あります。

1、 理不尽なことは存在するということ
2、 苦難を乗り越えると、怖いものが減り(強くなり)、人にやさしくなる
3、 ある集団のトップがその集団の雰囲気やルールを支配するということ

世の中には理屈だけでは解決できないことがあることを知りました。現実世界を生きる上では非常に大切な教訓を学びました。理不尽なイジメはなくなりません。でも、イジメで自殺する人は限りなくゼロに近づけることは出来ると思います。

そして、イジメによる自殺は、完全に他殺だと思います。

忍耐力と勇気をイジメ体験で勝ち取ったと思います。イジメに感謝してるなんて口が裂けても言えないですが、精神面の強さは怪物クラスになりました。あの経験に比べれば、その後の人生の苦難なんていうのは、茶番レベルです。僕は自分が所属するグループでイジメを起こさせないためには、僕自身が力を身に着けることが必要だと感じました。

力のある人間が、そのグループの雰囲気をコントロールするからです。

力というのは、場面場面で変わります。僕にとってはサッカーや笑いが大きな武器となりましたが、社会人の世界では役職、営業実績だったりします。どのチームにもサッカーが下手なやつがいるものです。そしてイジメが存在します。高校のときも、大学のときも、友人から「藤原がいない他のチームだと、アイツは絶対イジメられていたと思う」と言われたことは私の誇りです。

高校は畝傍高校(奈良の公立高校では2番)というところでした。文句の付け所がない、非常に恵まれた高校生活でした。1年浪人し、大阪大学の基礎工学部に入学します。合格したとき、これで人生勝った!と歓喜しますが、人生は一筋縄にはいきません。大阪で1人暮らしを始めますが、そこで自分の人生と向き合うことになります。

私が導き出した人生の目標は、地元のサッカーチームに芝生のグランドを提供するということでした。

②アメリカに惨敗

大学生になった私は、初めて将来の自分に関して自問自答します。歴史小説に嵌り、司馬遼太郎の坂の上の雲には特に大きな影響を受けました。明治の偉人のように日本に貢献する人間に憧れました。一方で、なりたい職業や入りたい会社については全く思いつきませんでした。

すると「なぜ授業に出て単位を取るのか?」となります。

大学受験は勝負事として捉えていたので、勝つ(受かる)という明確な目標がありました。当時の私は仕事に関する答えを見つけられませんでした。考えても答えが出ないので、将来つきたい仕事は一旦保留にして、将来成し遂げたいことを考えました。サッカーでゴールを決めたときのように、達成したときに全身を震わせるほどの喜べる志とは何か。

地元のサッカーチームに芝生のグランドを提供しようと決意

前述の通り、苦難の時期に助けられたサッカーと友達には感謝しきれないほど感謝しています。私なりの恩返しとして、仲間をもつ場所をこどもたちに提供しようと考えました。私は小学校のときに、なんとなく勉強で一番にはなれないと感じました。

大阪大学合格は努力で達成できましたが、所詮は勉強量(死ぬ気でやるかやらないか)で対応できるレベルです。一言付け加えさせてもらうと、自分のもてる力を、精一杯出し切って勝ち得た大阪大学合格でしたので、自分に確固たる自信を持てたことは非常に重要な経験です。

私よりも才能のある子供たちが私のように悩んだとき、勇気や元気のようなものを得られる面白い場所と時間を提供することで、私は間接的に日本に貢献できると考えました。理系を選んだのも、理系こそが世界を前進させると考えたゆえです。これは向き不向きがありましたね笑

当時、芝生でプレーする機会は非常に稀で、芝生でのプレーに憧れていました。芝生グランドを提供するために高給取りを目指す。高級取りと言えば、起業するか外資系金融会社だ。

起業ネタは思いつかない。

それなら、外資系金融会社に入る可能性をあげるためにアメリカの大学で勉強しよう。本当に稚拙な考えでしたが、決めた後は突き進むのみです。

死ぬほどサボる自分と死ぬほど頑張る自分

アメリカ留学を決意したのが、大学に入って3ヵ月が経過した頃でした。理系でしたので、大学院に行くのが一般的です。何を考えたのか、社会人になるまであと6年あるなと。

よし、大学3回生までは日本で遊ぼう。それから留学して3年で海外の大学を卒業すればちょうど6年、完璧やな(ニヤリ)。

無敵生活の始まりです。体育会サッカー部に所属していたので、ある程度の制限はありましたが、授業にはほとんど出席しないので、時間がめちゃくちゃありました。本当にやりたいことだけに時間を使う夢のような期間でした。サッカー、麻雀、読書、合コン、彼女、バイト、旅行。こんな生活を2年ほど満喫しました。

経験者が断言します。

人間は遊びだけの生活だと、遊びの喜びを感じなくなります。

私は1年半ぐらいで喜びを感じなくなりました。知らず知らずのうちに、マグマのようなエネルギーが蓄積されていきました。

I’m YUTA from NARA !!!

不安は色々ありましたが、アメリカに飛び立ちました。大阪大学を辞めることよりも当時付き合っていた彼女のことが気がかりでした。留学するからには死に物狂いで勉強する気概でしたから、彼女との時間はほとんど取れなくなります。

留学すれば恐らくフラれるだろうという覚悟はありました。もし留学しなかったら、「あのとき留学しとけば良かった」と愚痴をこぼすかもしれない自分を想像しました。そんなカッコ悪い男は、後々フラれると考えました。チャレンジしない後悔は取り返しがつきません。それだけは避けないと何のために生きているのか分からなくなります。

ある意味で一番の悩みでしたが、闘う自分でいることを優先しました。そういう姿勢を貫いて闘い続けることでしか得れない自信や勇気がないと、かっこよくて面白い人間になれないと考えていました。

「大学卒業するまで待ってくれ、結婚しよう」とは言えませんでした。自分ひとりの人生なら自分で責任が取れますが、パートナーの人生を背負い込む自信がありませんでした。

予想は的中し、一時帰国したときにフラれましたが、誠意を感じました。私の誠意は、生まれ変わってもこれ以上勉強できないと断言できるほど、留学中に勉強したことです。本当に精神的にピンチのときも彼女は心の支えでしたので、彼女には死ぬほど感謝しています。遠回りしてるけど、あのときの自分を貫けていることは私の誇りです。当時から豪語していた、芝生のグランド。達成した暁には、人目を憚らずに号泣すると思います笑

あと、最寄り駅まで見送ってくれた不安そうな母親の顔は鮮明に記憶しています。

言い忘れましたが、私は英語とカラオケ(音真似とリズムが壊滅的)が非常に苦手です。

リスニングとスピーキング能力はゼロ状態でアメリカに行きました。

語学学校経由でコミュニティカレッジ(短期大学)に入り、四年制大学(カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校)に編入し卒業しました。ギリギリでしたが、無事に3年でアメリカの四年制大学を卒業することが出来ました。

英語力ゼロからのスタートでした。

死ぬ気で勝ち取った大阪大学を捨てたわけですから、死に物狂いで勉強することを誓いました。日本語を遮断して渡米後1年半は毎日(土日も関係なく)15~18時間勉強しました。

日本人とつるまないために、日本人に話かけられると、聞かれてもないのに「I’m YUTA from Nara」と答えるようにしていました。もちろん、日本人の友達は自然と出来なくなりました。日本語を遮断すると、寝てるときの夢の中の会話は全て英語になりました。

経験者が語ります。日本語欲が向かう最大の矛先は、日本語での会話ではありません。それは、活字なのです。区切りのタイミングで日本語の小説を買いました。本当に本に穴が空くらい活字を読み込みました。

それぐらい、活字への飢えは凄まじかった。

1年半はホストマザーと二人暮らしでした。このホストマザーがベジタリアンのせいで、夕食は全て豆料理という地獄のような追い打ちでした。

豆生活もネタになると思いました。

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これが夕飯です。

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もはや料理としては成立しません。

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メニューのPizza Beanを見て

よし、ピザが食べれる!テンション爆上げでした。

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いや、ピザちゃうやん。。。

名詞が二つ続くと、後ろの名詞が重要だそうです。

Pizza Beanはピザ風の豆です。

ある日、ホストマザーからの置手紙を発見しました。

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要約すると、

レタス取って食べていいよ!また生えるから大丈夫!

レタス?どこにあるんや???

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正気か?

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FUCK !!!

 将来、この豆地獄の生活はネタになると確信していたので写真、動画、日記を記録していました。


精神状態は常にギリギリ

自分で選択した道とはいえ、本当にギリギリの精神状態でした。正直、1回だけ心が折れかけました。3ヵ月程度18時間勉強を続けても、全然学校の授業が聞き取れないのです。

アメリカ時代、2度ほど奇跡を体験したのですが、このときが最初の奇跡体験でした。もうアカンと心が折れた日の授業で、英語の授業が聞き取れるようになったのです。

授業中、嬉し涙を懸命に我慢したのを覚えています。

途中で諦めると、昨日頑張った自分に申し訳ない。明日の自分にバトンを繋ぐためだけに、今日の自分よ頑張ってくれ、と言い聞かせていました。キツイ時期は笑いにかなり助けられました。トイレの鏡の前で変顔をしては、まだまだ大丈夫、と自分を鼓舞していました。

私の最大のミスは、いつのまにか英語を勉強することを目標にしていたことです。英語力ゼロで留学するもんじゃないです。ただし、人生が2回あってもこれ以上は勉強できないと断言できるほど勉強したので一片の悔いなし。TOEFL ibt(試験時間が5時間程度のかなりハードな英語検定試験)のスコアは1年で24点から89点(120点満点)まで上がりました。


外資系金融会社を目指したアメリカ留学

就活は惨敗でした。外資系金融、コンサル等は全滅。日系メーカーの1社以外は全滅しました。新卒はポテンシャル採用だと想定していたので、自分が落とされるはずがないと高をくくっていました。これだけ闘ってきた自分が他の就活生に負けることなど微塵も考えていませんでした。

この話をすると、なぜ大手ベンチャーを受けなかったのかよく聞かれます。お堅い日系大手企業と相性が良いはずがありません。本当に何も考えていませんでした笑

死ぬほど頑張ったおかげで最低限の英語も話せるようになりましたし、大阪大学合格以上の自信も身に付けました。若いうちの苦労は買ってでもしろと言いますが、私の場合は断トツでアメリカ留学です。

ただ、1点だけ心残りはありました。それはアメリカという雰囲気に負けたことです。金髪美女と戯れるアメリカ人を見て、絶望的敗北感に打ちひしがれトボトボと帰宅していました(笑)

英語力がないのもそうですが、要するに私に自信や武器がなかったのです。アメリカという国の雰囲気に対して、いつか対等に勝負できるようになることを誓い、日本に帰国しました。浪人した大学受験もそうでしたが、最初から思うような結果が出ない人生だとつくづく思います。就職した会社でバンコク駐在を経験し、帰国後に和牛の輸出事業をサポートすることで、長期乾燥熟成された乳牛に出会います。

そこから一気に、事業を興すことに舵を切っていきます。

③やっと見つけた

依然としてやりたいことが見つけられずに、会社に就職します。当時、たまたまネットで見つけた記事の「将来に事業を興すならセールスから始めることを強くお勧めする」という言葉を信じて、営業職として社会人をスタートします。日本国内で温度管理資材(主なユーザーは定温物流会社)の営業を経験しました。

3年間バンコクに駐在もしました。自分の部署では海外駐在者は初めてのことでした。全て新規からでした。今から考えると、商品もほとんど持たずに新天地に担当者1人で放り込むのはかなり無謀な戦略だと思います笑

バンコク駐在の営業成績は散々たるものでした。

タウンページに掲載されている日系企業、日本人会への参加、趣味のサッカーを活かしてサッカーで出会った人、etc…出来る限り会社訪問しましたが結果は全くダメでした。バンコクでは8時~17時で仕事を終えれることもそうですが、日本にいるときよりも頭で考える時間が多かったのが幸いでした。

この時期に、後に熟成兄弟の相方となる波多野さんに出会い、試行錯誤(過去記事参照)します。

ビジネスモデルを意識して、スモールトライを繰り返し行うことで、ビジネスの面白さに本格的にのめり込みました。

北海道で体験したBBQ

バンコクから帰国後、日本で2年間働きました。日本では、雪室や氷温熟成に携わる仕事もしました。兎に角、気になる会社に新規でアポを取って話を聞きにいっては現場確認していました。

ひょんなことがきっかけで和牛をアメリカに輸出する事業を手伝うことになります。このときにアメリカの長期乾燥熟成肉と出会いました。

あるとき、仕入れ先を探す中で、北海道の生産者さんを訪問したとき、生産者さんと一緒に農場で、BBQをしました。大自然の中で、育て方のこだわりだったり、ここに至るまでの試行錯誤のお話を聞きながら。とても豊かな時間でした。

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そこで、牛肉のもつパワーを感じました。ぼんやりとでしたが。私は、起業アイデアを考えているとき、下記1点を体現できる事業がいいと考えていました。
 
 勇気や元気が得られる、面白い場所と時間を提供する事業

熟成肉の事業はピッタリでした。珍しい熟成肉を目的にみんなが集まってBBQをして、楽しくて豊かな時間を過ごす。私自身、いまだに解明も言語化もできていませんが、おいしい塊肉ってなんかいいんですよね。みんなでワイワイするのも良いのですが、元気がないときや落ち込んだときに、私たちのお肉を食べてもらうことが何かのきっかけになると本当に嬉しいです。この思いは中学でのイジメ経験が大きく影響しています。

売上高や生産量で、アメリカに勝つことはできませんが、日本でしか体験できない場所で、アメリカ人も驚くような長期乾燥熟成肉を作っていく想いがあります。

アメリカ、再び

8年間お世話になった会社を退職後、すぐにアメリカのシェフを訪問しました。長期乾燥熟成の技術を学ぶためです。

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渡米するのは、留学以来です。うまく言葉に言い表せないのですが、2回目のアメリカには、すごくジーンとくるものがありました。完膚なきまでに叩きのめされたアメリカに、アメリカ人とビジネスの話でカムバックすることになろうとは。留学時代の私には想像すらできませんでした。あのときほど英語が話せてよかったと思うことはありません。

かなり遠回りをしましたが、学生時代の心残りを拾いにきたという感じです(すいません、カッコつけすぎました笑)。

空き時間で母校に寄りました。天国に一番近いと言われる我が母校、UCSB

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ちなみに、これは学生寮です(笑)

家系は牛の馬喰&実家のステーキ率は異常

着手はしませんでしたが、実は花の事業も考えていました。花にも不思議な力があると考えているからです。ただ、私自身に花のエピソードや原体験がないので、除外しました。

祖母に会って精肉事業開始を伝えたとき、曾祖父が牛の馬喰(ばくろう)で家族を養っていたことを知りました。

馬喰・・・牛や馬の仲買商人。産地の農家から牛馬を買い取り、それを広く売りさばいたり、交換したりする。

初耳で驚きました。まさか、そんな繋がりがあったとは笑。そして、私の実家では、家族が集まるときや、兄弟の誰かが帰省するときの夕食はステーキと決まっています。精肉店で塊肉を買って母がカットして焼きます。

これが本当に美味しい。

外食よりも実家のステーキの方が断然美味しいのです。自宅ステーキ文化のきっかけは、祖父が奈良に来るたびに毎回塊肉を買っていたことだと記憶しています。おいしいし楽しいから皆が集まるときにステーキを食べるようになり、実家の自宅ステーキ文化は根付きました。誰よりも自宅でステーキを食べた私が断言します。

自宅ステーキはいいですよ、とにかくテンションが上がります。

Finally, I found it !!!

大阪大学時代、下宿先のベッドで考えていたとき、私にはやりたい仕事を見つけることが出来ませんでした。

あれから14年、やっと見つけました。

これから始まる精肉事業でお肉を売るのは大前提ですが、チャレンジしたいことはいくつかあります。

そのうちの一つは、お肉を買いに来て、その場でBBQやキャンプファイヤーができる施設の運営です。私は富士山が大好きですので、富士山が見える絶景ポイントに熟成拠点を作り、拠点を構えるのが次の大きな目標です。

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私個人として、事業を通して貢献したいことの一つに「イジメで自殺する人を限りなくゼロに近づける」というものがあります。残酷ですが、イジメはなくならないと思います。でも、自殺する人は限りなくゼロに減らせると信じています。世の中にはイジメ以外にも色々な苦難が訪れます。

そんなときに、「勇気や元気のようなものを得られる面白い場所と時間を提供する事業」を通して、きっかけを掴んでもらえれば事業冥利につきます。もちろん、ワイワイ楽しんだり、日ごろの自分へのご褒美であったり、お祝い事に熟成兄弟のお肉を楽しんでもらえることも事業冥利です。

将来、静岡に熟成拠点を作る予定です。是非足を運んでみてください。熟成兄弟が富士山と長期乾燥熟成乳牛と一緒にお待ちしております。

最後に

これにて、『私が熟成兄弟を興すまで』が完結しました。小さい頃から、とにかく目立ちたがりで、面白さを大切に考えて生きてきました。

目立ちたい、面白いと言われたい、モテたい、おいしいものを食べたい、という欲が原動力でした。むしろ、欲がないとここまで行動できなかったと思います。私は自分が拘った領域では勝ち負けが全てだと考えています。

特にビジネスの世界では、勝たないとやりたいことを実現できないからです。

熟成兄弟の事業で結果を出し、勇気や元気のようなものを得られる面白い場所と時間を提供していきます。

どうぞ宜しくお願いします。

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熟成兄弟!
熟成兄弟による熟成肉開発ストーリー