学歴(学校歴)大好きな人たち
「学歴社会」とは、本来近代化に伴って身分制社会から本人の業績に応じて社会階層移動が可能になった「開かれた社会」を指していた(業績主義)。
そして、今日人びとの間において学歴といえば、タテ(教育歴)の学歴ではなくヨコの学歴(学校歴)を指すことが一般的となった。
学歴を非常に重視する人も少なくなく、専門のインターネット配信動画番組も存在している。そこでは、それぞれの大学は入学試験の難易度を示す指標の一つである偏差値により大学の序列化がなされている。
そうした人びとの世界に於いて、各大学各学部に於いてどの学問領域を専攻するか、ということよりも「どの大学に入学したか」ということが最重視される。人によっては「入試方式」にまでこだわりが見られる。
つまり、大学受験の過程でどの程度の学力まで獲得し、なおかつ入学試験を突破できたかどうかが関心課題なのである。
昔出会った日本で最も難関とされる大学入試を突破した学生ことを思い出す。彼から語られる話は自分が今の大学に至るまでどの小学校、中学校、高等学校を卒業したか、出身校の偏差値、同級生の出身校とその偏差値といったことが延々と続いて、呆気に取られたというかその勢いにたじろいたというか、ただ聞いているほかなかった。よく観察していると彼はこちらの反応などどうでもよい様子だった。ただ、初めて会う人間に一方的に細かく自分の学校歴を説明することでイキイキと輝き、自らの存在意識を再認識している様が儀式的な行いに見え、そこに口を挟むのは彼にとってなんだか神聖な神事に侵入するかのようなもののように思えたのだった。
医学部医学科に在籍している彼からは先端医学研究についての興味深い話や医学や薬学、工学の進歩に伴う生命倫理の諸問題についての情報は得られなかった。しばらくたわいのない会話をしてすこし打ち解けてから、「臨床医になるの?」と訊いてみた。
「いや、臨床は向いてないと思う・・病理かな・・」と学校歴について語っていた頃に見せた表情とはまったく違う表情を見せてぼそっと彼はそう答えたので、やっぱり、と心の中で納得した。
確かに入学するに当たり難易度の高い大学の入学試験を突破することはすごいことだといえる。でもそれって、ただスタート地点に立っただけのことであり、その後専攻する学問領域でどこまで学びを深められ、どのような業績を修められるか。そして学士学位やその他資格を取得できるのかというかということは置き去りにされているように思う。
何より問題なのは、偏差値による序列がその人の評価にまでつながってしまってきていることだ。「Fラン大学」ということばはその象徴だろう。これではどの大学に在籍しているか/中退・卒業したかといった属性による評価であり、業績主義から属性主義への逆行に他ならない。
その人の属性のみに着眼し、評価するのはおよそ知的な態度とはいえない。そもそも学問は人類文明の発展と世界の平和に寄与するためのものであり、大学はそれを深める知の現場であることを考えれば、大学を他者を見下したりするための要素として利用することは己の知性の無さを世に知らしめているようなものだ。
何を学び、何ができるようになるかということが重視される本来の姿が主流となることを願って。
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