舞台 「となり街の知らない踊り子」 観劇レビュー 2022/11/05
公演タイトル:「となり街の知らない踊り子」
劇場:東京芸術劇場 シアターイースト
作・演出・振付:山本卓卓
振付・出演:北尾亘
公演期間:11/4〜11/6(東京)
上演時間:約100分
作品キーワード:コンテンポラリーダンス、ダンス、一人芝居、モダン、社会問題、考えさせられる
個人満足度:★★★★★☆☆☆☆☆
毎年秋に東京・豊島区池袋エリアを中心に開催される「東京芸術祭」。
今年の「東京芸術祭2022」での「芸劇オータムセレクション」では、演劇ユニット「範宙遊泳」の主宰である今年の岸田國士戯曲賞も受賞された山本卓卓さんが2015年に書き下ろした演劇とダンスの融合作品である「となり街の知らない踊り子」を約6年ぶりに再演。出演はダンスカンパニーである「Baobab」の主宰の北尾亘さんによる一人ダンスパフォーマンスとなっている。
この「となり街の知らない踊り子」は、2017年にシドニーで、2020年にニューヨークでも上演されており、海を渡った演劇作品である。
今作の概要としては、北尾さんが男の子や青年、ストリッパー、老人、犬、女性、そして集団殺人犯といった様々な役を一人で演じ、コンテンポラリーダンスをしながら抽象劇的に進行していく。
舞台後方には巨大な一枚のパネルが設置されていて、そこにプロジェクターで文字や映像を投影させながら、場面を上手く転換させてシーンが展開されていく。
今作でテーマとして描いているのは、映画「ジョーカー」にも通じるような、社会全体に蔓延る誰も手を差し伸べてくれない孤独と、それによる生きづらさと貧しさ。
勿論、出演者は北尾さんのみなのであるが、プロジェクターによる演出や彼のダンスパフォーマンスによって、そこには他にも人がいるように見えるし、北尾さんが誰かと対話しているようにも見えて非常に印象的な演出だった。
老若男女様々な人々がそれぞれに生きづらさを抱えていて、そういった演出が、それをある種ストレートにダンスパフォーマスとして突きつけてくるあたりに、今作のインパクトを感じた。特にプロジェクターによって映し出される文字たちが、社会で孤立してしまった人たちや死を切望する人たちの叫びをストレート過ぎるほど表していて、個人的にはかなりキツイ描写に感じた。
色鮮やかな映像や小道具が、Z世代たちの間で重要視される多様性と重なり非常にモダンだった点が、山本卓卓さんの演出らしく、海外でも上演され評判を得られたポイントだったのではないかと感じた。
北尾さんのダンスパフォーマンスの迫力が素晴らしすぎて、上演時間100分間一人でずっとダンスパフォーマンスをされていて、彼の体力の凄まじさと存在感に圧倒された。
コンテンポラリー的な体の動かし方も、どこか岡田利規さんの「未練の幽霊の怪物」で拝見した身体表現に近く、誰かを演じているのに終始体の動きが止まらない感じが印象に残った。
山本さんのいつものテイストである社会問題をテーマに扱っていて、かなりストレートな描写もあるので苦手な人は一定数いると思うし、自分も多少苦手気味だったが、芸術作品としては非常に見応えのある舞台なので、コンテンポラリーダンス好きの方には是非とも観て欲しい。
【鑑賞動機】
2021年12月に観劇した範宙遊泳の「心の声など聞こえるか」は、個人的にはあまり好みではなかったが、今作は初演時から評判が良かったと聞いているので、観劇する価値はあるだろうと思い、チケットを取ることにした。
また、ダンスカンパニー「Baobab」の公演は拝見したことがないが、北尾さんのパフォーマンスは噂を聞いていたし、舞台「スラムドッグ$ミリオネア」のあのパルクールを含めた素晴らしい振付をされていたと聞いているので、どんなダンスをする方なのか観てみたかったから。
それと、かなり個人的な理由だが、最近ダンスパフォーマンスの演劇を暫く観ていなかったので、久しぶりに観たくなったというのも観劇の決めて。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等あるがご容赦頂きたい。
ダンスパフォーマンスの北尾亘さんが登場して、客席まで降りてきて準備運動する所から始まる。客席を見渡しながら準備運動を終えると、ステージ上に昇って上演がスタートする。
場所は動物園のようらしく、北尾さんは5歳くらいの男の子になる。そしてプロジェクターによって投影された文字によって母親と会話する。そして、その男の子は誤って老人を押して倒してしまう。男の子はどうやら悪びれる様子もないようだった。
動物園なので、北尾さんはフラミンゴなど様々な動物を演じてダンスパフォーマンスをする。
北尾さんは青年になって、スマホでSNSを眺めている。「母さんがうざい」というフォロワーからのコメントに傷ついてそのアカウントをブロックする。その男性は恋人と一緒にいたが、恋人は家を出ていく。どうせ自分のことを愛したいのではなく、セックスがしたかっただけなのでしょうと。
ストリップショーに行こうとした男性は、今日はストリップ劇場が臨時休業であったようで残念がる。
北尾さんはそこから女装姿に着替えて、そしてストリップショーを踊りだす。どんどん服を脱いでいき裸になっていく。パフォーマンスをし続ける。
その後、先ほど家を出ていった女性は、永井区で何者かに刺殺されたことが映像によって告げられる。
北尾さんが演じる男性は、線路から落ちた人を助けようと努めていた。誰か他に助けを求めても、誰も見向きもしてくれない。映像には、「なんで自分が助けなければいけないの」のような、まるで他人事のような冷たい声が映し出されていた。
北尾さんが演じる男性は、力いっぱい線路から人を助け出すように、床に開けられた小さい穴から色鮮やかな布が連なった小道具を引っ張り上げていた。線路に落とされたのは一人ではなく複数人いたようだった。
メディアは事件のことをよく知る、北尾さん演じる男性に取材が来る。メディアは男性の都合の良い言葉だけを切り取って、浅い内容になってしまったコメントだけが放送される。
プロジェクターには、助けを求める人が死んでしまっても、時間がすぎればただのしゃっくりみたいなものだ的な文章が映し出される。とある事件が起こったと言う。永井の図書館に30人ほどの人たちが、とあるテロリストによって監禁され、無差別に殺されるという事件である。
その事件から5年が経つ。5年前というと昔だと言う10代の「マキ」という女の子が台詞だけ映像に映し出されて登場する。30歳になる北尾さん演じる男性をおじさんと言う。おじさんという言葉に憤りを感じ、50歳の人はどうなるんだとマキに聞くと、「ミイラっしょ」と答える。マキだって30歳や50歳になるんだよと言うと、マキは20歳になったら死ぬから良いんだと言う。
マキから「おじさん、何かスポーツやってたでしょ?」と聞かれる。やってないと答えると、しつこく追及してくる。
マキはつぶやく。やりたいようにすることを我慢することが大人になるということだって言うけれど、そんなことは出来ないとマキは言う。そしてそのまま、風俗店で北尾さんの役とマキはセックスすることになる。明日になったら、きっとすれ違ってもお互い分からない間柄になってしまうのは嫌だから。
だから、その男性とマキとの間に産まれた子供を育てる。お父さんは北尾さんが演じていた男性、マキはお母さん。しかし、現実ではそういう訳にはいかず、北尾さん演じる男性とマキは結婚しなかったので、自分はこの世に存在しない人間となった。男性とマキが結婚していたら、存在していたであろう人間だった。
北尾さんは、今度は女装姿でコンテンポラリーダンスをしながら演じる。
その後、時次郎という老人になって、田舎で犬の散歩をする。犬が勢いよく走り始めて、慌ててそれに振り回される老人。
北尾さんがフードを被ってやってくる。手にはナイフのようなものを持っている。客席に向かって、今から監禁して殺してやる的な内容をつぶやく。
北尾さんは音楽に合わせて、盛大にパフォーマンスを行う。背後のパネルの丸い窓からは水族館のように魚たちが沢山泳いでいる。
ダンスパフォーマンスが終わると上演は終了する。
不条理劇のように、ストーリーはなんの脈絡もなくメチャクチャに進んでいくのだが、図書館で監禁されて30人が犠牲になった事件が何度も登場したり、そしてストーリー全体には、しっかりと共通しているテーマはあって、物語的ではないが内容がしっかり統一感が取れていて見入ってしまう不思議な内容だった。
SNSを扱ったり、多様性を扱ったり、社会問題を反映していたりと、非常にモダンな事象を取り扱っている点に、山本さんの作品らしさがしっかりと感じられた。「心の声など聞こえるか」は、脚本全体的にしっくりこなかった印象だったが、今作に関しては物語としてまとまっていなくても提示されるテーマと、そこから作品で訴えかけてくるメッセージ性が伝わってきて心打たれた。
詳細な考察は、考察パートでしっかり触れていきたいと思う。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
山本卓卓さんらしい、非常にモダンで色鮮やかな世界観と、プロジェクターによる文字と映像のインパクトによって多くが語られる素晴らしい舞台美術だった。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番でみていく。
まずは舞台装置から。
ステージ上には、一枚の巨大なパネルが後方に用意されており、そこにプロジェクターで映像が投影されて基本的にはシーンが進んでいく。その巨大なパネルには中央に丸い穴が空いており、そこにプロジェクターが投影されることによって、「臨時休業」という文字を丸の中央に、その上に非常口マークが映し出されることで、そこがストリップショーの入り口であると表現したり、魚が泳ぐ映像を投影することによって、まるで潜水艦から覗いているような演出を表現していて面白かった。
ステージ両側には大きな脚立がそれぞれ置いてあって、かなりステージが準備段階のむき出し状態を表現していて、それがまた良かった。
次に映像について。今まで観劇してきた舞台作品の中で、こんなにも映像に頼った芝居はあっただろうかと思わせるくらい、映像による比重が大きいものだった。
まずは、文字がデカデカと投影されるインパクトが凄まじかった。改めて映像としての文字のインパクトの強さを感じられた上、文章の内容も非常に現代口語的で刺さるものが多かった。だからこそ、普段の日常生活をしていて多々目にする耳にする言葉も多かったから、ハッとさせられて心に強く衝撃が走ったのだと思う。
例えば、永井区で女性が何者かに殺されたという事実を文章で追うことによって、まるで新聞やネットニュースの活字によって、事件を知る普段の我々の日常で起きるインパクトのそれと同じものを劇中で体感し、衝撃を受ける感じが非常にユニークで山本さん演出らしかった。
また、かなり今の社会問題を反映するような直接的な表現も文字として多く表現されていたから刺激が強かったのもある。人の死がしゃっくりのようだみたいな文章はまさにそれだった。
それと、なんと言っても少女「マキ」による台詞は非常に素晴らしかった。Z世代の少女がまさに発しそうな台詞ばかりで色々刺さった。その映像に投影されていた言葉には、Z世代の彼女の価値観や考え方も反映されていたし、喋り口調もらしかったし、非常に完璧でよく考えられたものだった。今作のシーンの中で一番見入っていた。
また、劇の序盤に戻ってしまうが、SNSでフォロワーをブロックするシーンで、いかに普段何気なく投稿している内容が、他者にとって文字として起こされるとインパクトがあって傷つけるものなのかも伝わってきて、非常に考えさせられた。そこを演出にしてしまう山本さんは素晴らしかった。
文字という点以外での映像演出についても素晴らしかった。例えば、ストリップショーを北尾さん自身がパフォーマンスする時の、あのハートマークが次第に増えていく映像はなんともキュートであった。あの感じもどこかモダンで西洋的なのが印象に残る。素敵だった。
北尾さんが取材されて、昼間の外の天気の良い中で、メディアに対して取材を受けるような映像が流れていたのも印象に残っている。本当にメディアは都合の良い部分しかオンエアしてくれない。あの映像のドキュメンタリーっぽさが好きだった。
次に舞台照明について。
舞台照明に関しては、特に大きく変化することはなかった認識だが、ストリップショーで北尾さんが裸でパフォーマンスをするシーンといったダンスシーンでは若干雰囲気を変えるために変化していた印象だった。
特に、舞台終盤のテロリスト登場シーンでは、客席が監禁された被害者であると見立てて客席明かりも点いた状態で上演されていたので、ステージと観客が一体となった舞台だった。その一体になったシーンが、監禁のシーンなので恐怖であるが。
ラストのテロリストによるロック音楽に合わせたダンスパフォーマンスの照明も格好良かった。とても眩しくて素晴らしい照明効果だった。
次に舞台音響について。
舞台音響も全体的にモダンな感じに見えた。海外で上演されても受けるような現代的なアメリカらしい音楽が多かった印象だった。
ラストのダンスパフォーマンスの音楽もロック音楽で格好良かった。
最後にその他演出について。
色鮮やかな布が連なった小道具が非常に印象的だった。北尾さんが線路から人を助け出すときに、床にある穴からその布を取り出す演出があるのだが、それが非常に身体表現も相まってパフォーマンスとしても演出としても見応えがあった。そこから引き上げられた大小様々、そしていろんな色の布が、その線路に落ちていた多様性のある人々を表しているように思えて意味深だった。もし北尾さんの男性の役が見逃して助けなかったら、彼らは死んでいただろう。多様性のある皆個性を持つ彼らが失われていったのだろうと考えると、無関心ではいられなくなる。
ステージの天井から色鮮やかな衣装が落ちてくる演出も圧巻だった。特にラストのダンスパフォーマンスで顕著だったかなと思うが、その色鮮やかさが個性であるようにも思えて、多様性であるようにも思えて素敵だった。
劇の一番最初で、北尾さんが客席で準備体操に入るのも面白かった。まるで客席もステージの一部であるが如く、割と私の客席の近くで準備運動をされていた。開演前に足元に荷物を置かないようアナウンスがあったが、それは北尾さん自身が客席を自由自在に動き回るからだったようだ。客席まで使って上演される点も、ダンスという自由なパフォーマンスらしさを上手く物語っているように思える。
そしてなんと言っても、Z世代の女の子と北尾さんが会話する演出が素晴らしかった。個人的に一番好きな演出だった。映像に台詞が投影されているだけなのに、そこには少女が存在しているかのようで、こんなにも存在しない相手と会話が成立するものなのかと感じた。映像でお金を差し出す演出も好きだった。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
100分間、北尾亘さんが一人でずっとコンテンポラリーダンス、演技、ダンスパフォーマンスをほぼ休まず演じられていて、素晴らしかった。
北尾亘さんの、身体表現、演技、ダンスパフォーマンスについて踏まえながら感想を書いていく。
まずは、ダンスカンパニー「Baobab」の主宰ということで、身体表現を駆使した演技がほとんどだった。
客席に降りてきてからの準備体操から始まるのだが、無言でしずかに体を動かし始める北尾さんはどこか迫力がある。遠くの客席を見渡しながら、「これからやってやるぞ!」という意気込みを感じられるような百獣の王のようなとても野性的で逞しい印象を感じた。
そして序盤はコンテンポラリーダンスを駆使して、子供やストリッパー、普通の男性など様々な人物を演じていく。体を常に揺らしながら、北尾さんが発する台詞というよりは体の動きに見入っていた。
ストリッパーや、舞台後半でスカートを履いて女装をされていても分かるように、北尾さんは女性役を演じられても非常に色っぽくセクシーに感じられた。ストリッパーとして音楽に合わせて踊るシーンは、途中から服を脱いでパンツ一枚の状態になるのだが、シアターイーストという広々としたステージで、一人で裸でエモーショナルに踊り続ける北尾さんに目が釘付けになる。あそこまで感情的にセクシーに踊るというのは、なかなか羞恥心を捨てないと難しいんじゃないかと感じる。素晴らしかった。
線路から人を救出するシーンで、地面からカラフルな布を引っ張り出す身体表現があったが、あそこまでエアーで人を引っ張り上げるような演技が出来る点が素晴らしい。本当にそこには人が落ちて助けられているように感じられるし、あそこまで力いっぱい引っ張っている感じを演技で出せるって素晴らしかった。見応えがあった。
北尾さんの演技という点では、20人以上の老若男女、そして動物までも演じ分けていた点にあるかなと思うが、勿論フラミンゴだったり、四足の犬になったりする身体表現も素晴らしかったのだが、なんと言っても女性役を演じ切っていたり、かと思えば30歳くらいのクールな男性を演じていたりと、それぞれで魅力が詰まっていて好きだった。
女装役の北尾さんは、一番印象に残ったのが後半の、両手の平を広げて円を描くように動かしながら、口をすぼめて体をくねらせる身体表現が凄く女々しくて良かったのだが、ビジュアルとしては凄く男らしいのに、身体表現一つによってあそこまで女性らしくなれるんだとびっくりした。
それとは真逆に、マキという10代の女性と話すクールな男性の北尾さんもどことなく好きだった。30歳とかになると、たしかに若い人たちからはおじさん扱いされてしまう年齢かもしれないが、だからこそ冷静でクールでいられる感じが良かった。10代の女性に質問攻めにされて、挙句の果てにかなりストレートで答えづらい言葉をかけられ、返す言葉がなくなるあたりが見ていて辛かったけれど凄くシチュエーションとして印象に残ったし、好きだった。
こんな感じで、老若男女、そして動物まで一度に演じてしまう北尾さんの演技の幅広さは素晴らしかった。
ラストのダンスパフォーマンスについては、テロリスト役の北尾さんのあの狂気さと怖さが光るパフォーマンスだったように思える。体を大きく広げて全身を使って踊る姿は、どこか自分という存在を目一杯アピールするかのような、そんなパフォーマンスに見えた。テロリストが犯行に及んだのも、自分の存在に気づいて欲しかったから。社会の中で孤独で誰も声をかけてくれない世の中に、自分の存在をアピールしたかったから。
照明効果もあり、あのラストの圧巻なパフォーマンスは非常に印象的で、ラストに相応しきものだった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
範宙遊泳の山本卓卓さんの脚本は、どこか今の現代社会をモダンに取り入れて、現実が直面する問題に対して真っ向からぶつかって問題提起する点に非常に魅力を感じている。個人的にはちょっと苦手なテイストなのだが、間違いなく舞台芸術という分野において、新たな風を吹かせているという点で先進的な劇作家だと今作を観劇していても痛感した。今年の岸田國士戯曲賞を受賞しただけある方だと思った。
ここでは、この「となり街の知らない踊り子」について脚本と演出の両軸で思ったこと、感じたことを考察していこうと思う。
今作はシドニーやニューヨークでも上演されるといった、かなりインターナショナルな芸術作品として多くの人に影響を与えている。それだけ、今作で主張されるメッセージ性には世界中で起こっている共通した問題をテーマにしたグローバルな舞台芸術と言って良い。
演出が非常にモダンであるというのもそうなのだが、SNSによって人々の言動が文字化したことによって生じる人々の生き辛さを色濃く再現している。プロジェクターにデカデカと文字が投影されることによって、SNSでの何気ない人々の言葉によって、どれだけのインパクトを与えてしまうものなのかを痛感させられる。
昨今では、事件や事故といった悲しいニュースが、テレビやラジオだけではなくネットニュースとして文字で飛び込んでくることも多くなった。「事件」「殺害」「犯行」「死亡」という文字の与えるインパクトが、映像でデカデカと投影されることによって、いかに胸にぐさっと突き刺さるものなのかを改めて教えられる。
そういった点でも、現代人が抱える悩みをプロジェクターという演出によって効果的に描いている点が素晴らしい。
北尾さんが老若男女や動物までもを一人の役者として一度に演じることによって、そこには多様性の享受を感じられる。皆同じ人間であり、そこに分け隔てなく区別されることのないという思想が反映されていて、特に人種差別が未だに色濃く残るアメリカにおいては、そのメッセージ性が非常に刺さりやすかったのではないかと憶測ではあるが思った。
そして、社会から孤独になった人たち。昨今では、無差別的な犯行が相次いでいる。映画「ジョーカー」に代表されるように、貧しくて誰からも相手にされなくて孤独な人。自分の存在価値を見いだせなくなった人たちが、社会に自分の存在価値を見出そうと犯行を起こす。俺を見てくれ!といわんばかりに。
ラストシーンのフードを被ったテロリストがまさにそうだった。自分を見て欲しかった。だから精一杯パフォーマンスをしていた。それを北尾亘さんという、様々な老若男女を演じてきた人が演じることによって、そういったテロリストも私たちと同じ世界線にいて、もしかしたら自分の置かれた立場や状況によっては、そうなり得ることを表現しているのかもしれない。
そんな今の現代社会が抱える社会問題を、かなりストレートな形でこうやって脚本としてしたため、それを北尾亘さん一人であそこまで堂々と上演出来るというのは大変な勇気と覚悟と熱量を感じさせてくれる。自分だったら絶対にそんな勇気と覚悟と熱量を持つことは出来ない。
今作を観劇して、多くの観客は何を思うのだろうか。個人的には非常にどストレート過ぎるテーマで好きにはなれなかったが、間違いなく舞台芸術としては素晴らしいものだと思うし、一生心に刻まれた舞台だったと感じた。
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