見出し画像

『希死』と『生き抜こうとする力』

希死念慮という言葉があるそうです。言葉の通り、死にたいという考えが頭によぎるという意味でしょうか。そして同時に人間には「生き抜こう」との途轍もなく偉大な力もあります。

宮本輝の「青が散る」の小説にて、登場人物がテニスしているときに、突如、希死の願望が表れて、自身を病気だと自認するシーンがあったと記憶します。人は誰しも「仕事辞めよう」とか、「学校やめようとか」、「ここではない何処かへ行こう」、そして「希死」の感情があり、それが命の状態によって、多かれ少なかれ表にでる場合があるのかもしれません。※転職、転校、転居の選択肢は無論ありです。

中島らもさんが記した、印刷会社の営業マン(もはやブラック企業なんて概念など通用しない世界観の会社)の過酷な日常において、「自殺するのは、朝一しかない、夜には死ぬ気力さえないくらいにくたくたになっている」との逸話があります。らもさん曰く、死ぬには、それはそれで活力がいるようです。やっかいな状態だとも思いますが、そのような途方もない仕事をしながらも、それを第三者のシニカルな目線で、なんとも言えないユーモアに変換した中島らもさんのエッセーにどれだけの人が救われたでしょうか。少なくとも私は、中島らもさんの本を読んでなかったら、過労死がでるような職場での過酷な営業の仕事は乗り切れなかったと思います。

論を待たず、人は死んではいけないとして、医療関連の専門家や心理学者がこのことを研究し、予防するように努めてくださっています。

そして、そのアドバイスにて、実際、環境を変えて、転職したり、引っ越ししたりして、良い状態になる場合も多く、また守るものがあれば、人は死のうとしないとして、ペットの飼育を勧める場合もあるようです。

しかし、それですべてが解決する訳ではないようです。

欧州で、心理学の学者が、患者のカウンセリングをしている中で、共鳴をしたのか、学問の限界なのか、学者自体が希死念慮の状態に陥るケースも往々にしてみてきました。

西洋医学であれ、漢方であれ、その薬に効果があるのかどうかも正確にはよくわかりません。無論、美味しいもの食べれて、よく寝れて、よく運動できれば、人は心身ともに健康なんでしょうけど。

私は、『希死』も『生きる力』も人の命に備わっていて、そのどちらか一方が顕れることがあるのだと思っています。どちらから一方が多く顕れるのがその人の命の傾向性なんでしょうか。

宮本輝の言葉を借りれば、人それぞれ命の癖というようなものがあり、その癖が突如でてくる。これは性格とか、境遇とかでは整理がつかないものかもしれません。命に宿された宿命のようなものです。悪い方にでれば、宿命で、それを転じて良い方向にでれば、使命でしょうか。

しかし、そもそも人の感情や生命の傾向性を合理的に説明することは、不可能だとドストエフスキー「 罪と罰」を読めばよく理解できます。老婆を殺すことに、自分を罰するために酒を飲むことを小説の中でこれでもかと語って、それが説明できることではないと証明した作家がドストエフスキーだったのだと思います。

そもそも人間の命の傾向が合理的に説明できるならば、もはや文学の存在理由すらありません。

世の中には、依存症という言葉もあります。依存しなければ、希死するとするのであれば、一定のバランスを取って、依存するべきです。

例えば、広島カープや阪神タイガースが好きで、キチガイのように好き(カプキチとは、カープキチガイの略らしい、トラキチも同じか)として、生きれるのであれば何ら問題ありません。

しかし、世の中、野球に依存できない人も多くいます。(昨今、野球のルールしらない人も多いし)

アルコールに依存するのは、なかなかに怖いし、美食に依存すると、だいぶと太るかもしれません。ゲーム依存とかもあります。廃人にならないのであれば、依存すべきです。ただし、過度に依存するということが問題で、バランス取れているのであれば、依存ではなく趣味や生きがい、そしてライフワークの範疇です。

過度な依存は、自分だけではなく周りの他者含めて破綻に導く場合もあり注意が必要です。※依存症の人を無理にその依存から引き離すことは自棄に陥る危険性があると言われています。

私が思っている希死を回避し、生き抜く力の状態を強くする方法は、ふたつです。(ひとつとも言えるのですが)

画像1

一つは、生きる力が強い人とつながることです。特になんも難しいこと考えてなくて、やたらめったに「生きる力」だけ強い人がいます。もう、こちらが真剣に悩んでるのがあほ(馬鹿)らしくなるくらい「生きる力」が強い人とつながることです。命が状態とすれば、その人につられて、自身も生き抜こうとする方向に引き寄せられます。

逆に「希死」の状態のときに、死神のように「希死」に連なることを同調する人との接触は避けるべきです。10のうち、1つや2つだけ真っ当なことや優しい言葉を言いながら死を同調する人につながるとより「希死」の命の状態が顕れるからです。あたかも死ぬことが美しくカッコイイとおもわせて。泥臭く生きる価値をしたり顔で否定したりします。一皮剥けば、無知で迷いの中でも踠きのエネルギーが畝ってるような状態の生命かも知れません。

しかし、どの人が「生きる力」に連なれる人なのか、判別することも難しい。情報が多く、直接的なコミュケーションが少ないこの時代は、良い友人を持つことが困難なのかもしれません。そうですね。もしかしたら、良い友人を持てばすべてが解決するもので、自身が良い友人になることも最良かもしれません。これができれば、生き抜く力に弛みすらなくなるものかと思います。但し、弱った状態の時に友人であれ、人に逢う気力もない場合も往々にしてあります。

もうひとつの解決方法は、空を見渡せる場所で、空の眺めることです。

「心は画師の如し」との言葉あるそうです。雲や空も巧なる絵師です。世界中の絵画も大空には敵わないでしょう。いや、むしろ自然の美しさをとどめようとしたものが絵画かもしれません。

大空を眺めていると一瞬でも同じ表情はしていません。雲を含めて青の加減も常に変化している。人の心も同じように一瞬でも同じ状態ではなく、常に変化している。それならば、良い変化にならない訳はない。空は静寂のようで、静かとの漢字は、文字通り、争い闘っているからこそ静寂なのでしょうか。人間の心の内も絶えず戦いにながら静寂を保っているとして、自然の本質は生きる力が溢れています。

自然は厳しい条件の中で常に変化し、生き抜こうとしている。その状態に連なることは、生き抜く力が強い人と連なることと同じと考えます。

トルストイの「戦争と平和」に記されている通り、人間は誰しも大空の偉大さに気づくべきでそれは自身にもあることに気づくべきだと。


空を眺めることにより、心はたくみなる絵師のように、自在にさまざまな世界を描き出せるのであれば、みなに生きる力があらわれることを期しつつ。