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教員の自己犠牲は「愛」と呼べるか【愛 2】

こんにちは、今週からぼちぼちと分散登校が始まって、6月から通常営業に戻っていくそうですが、果たしてそんなにうまくいくかなと思っているやうたです。また、休校に入ることを前提に行動しないといけないですね。

さて、今日は以前にも一度記事にした「愛」(苫野一徳)から、「自己犠牲」について考えようと思っています。

教員は「自己犠牲」を求められる職業だと思います。その状態がいいのか、悪いのかはさておき、実際に過労死ラインを超えて働いている教員の方は多いですよね。僕も年間を通してずっとというわけではありませんが、いくつかの月では残業100時間とか余裕で超えます。(特に夏の甲子園予選の時期は地獄)

学校現場で怖いのは、それが当たり前になっていること。「子どものためならなんでもしよう」「なんで子どものためなのにしないの」「愛情がないからできないんだ」という声がすごく多い

自分を犠牲にして、あるいは家庭を犠牲にして、教育活動を行う。ある意味立派なことだと思います。そういう先生を尊敬もします。
が、「自己犠牲をしない」=「愛情がない」と捉える風潮はいいのでしょうか?

筆者は言います。

「自己犠牲的献身」は、その行為だけを見るならば、愛がなくても可能なものだ。しかしわたしたちは、それを限りなく立派な行いと言うことはあっても、「愛」ゆえの行為と呼ぶことはない。

前回の記事で取り上げましたが、「愛」とは「あなたがいないと僕の存在する意味は十分ではないけど、あなたはあなたとして存在しているから、僕と一緒ではない」という認識のもとに成り立ちます。この感覚、特に「私とあなたは違う」という認識があっての「自己犠牲的献身」は、間違いなく「愛」です

でも、教員の自己犠牲は「使命感」や「義務感」から来ているので、「自己犠牲」を押し付けがちです。「こんだけしてあげてるんだから、お前も頑張れよ」という思考に陥ります。これは、「愛」ゆえではなく、エゴの押し付けです。

本質的な「愛情をもって接する」ということは、とても難しいことですが、そこを目指して教員をし続けたいものですね。

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