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友情

もう10年以上前に仕事で知り合いになった女性とずいぶん久しぶりに電話でお話しする機会があった。互いに以前の部署からは異動して離れていたから電話やメールを交わすことはなくなっていたけれど、決して彼女のことを忘れたことはなかった。



当時、彼女の会社とは初めて共同で事業をスタートすることになっていて、それぞれの会社のビジネスコードの違いをすり合わせることから始める必要があった。ぼくたちはどちらも下っ端だったから、そんな些末なことも含めて自ずと仕事上の連絡を取り合うことも多かった。デスクからかける電話の回数は増えていったけれど、電話や電子メールで仕事以外の会話をすることはなかった。だから初めて業務外の話題を交わしたのは、互いの会社のチーム同士の飲み会の場だったと思う。チームとはいっても管理職を合わせて各社三人くらいのこじんまりとしたものだったから、カジュアルな店でのコンパクトな飲み会だったし、ゆっくりと会話することができた。


同業といえば同業なので、似たような悩みを共有できたりするのは新鮮だったし、(ここにいない)上司の悪口を言ったりするのはとても楽しかった。けれどそれよりも音楽や読書の興味の方向が一緒だったので、他の参加者そっちのけで会話に熱が入った。お開きの後、もう少し話したいな、と思ったので思い切って周りに聞こえないように誘ってみた。同じ会社の人達にどんないいわけをしたのか、それともしなかったのかは聞かなかったけど、彼女は待ち合わせた場所に来てくれた。

結局僕たちは夜通し、ストーンローゼスの2枚のアルバムの違いについて二時間議論し、ライドの曲のイントロがやたら長いことについて一時間半語りあい、キース・ジャレットのケルンコンサートがどれだけ素晴らしいかについて何粒かの涙を流し、村上春樹の小説に何故エロが必要なのかについて二時間討議した後で始発電車を二人して待つことになった。そのとき僕に下心がなかったかと言えば、大いにあったし、もう少し違う展開だったらその時そういうこともあったかもしれないけど、そうはならなかった。少なくともその晩について言えばエッチなことをするよりもずっと刺激的で感情的な一夜だった。


でも僕たちは次の日からはまた仕事のやりとりをするだけの関係に戻った。まるで何事もなかったかのように。僕たちは事業の費用負担についてのメールを送ったり、作業分担について電話で確かめあったりしながら、仕事に道筋をつけ、各所に根回しをし、地道に事業のディテールを形づくり、互いの信頼を少しずつ積み上げていった。


三ヶ月後にようやく共同事業はスタートできることとなった。プロジェクトの打ち上げと事業スタートのためにささやかなパーティが催されて、久しぶりに彼女と顔を合わせることとなった。役員やら部長連中まで参集範囲が広がったので前回の小さな飲み会よりは人も多くて、彼女はだいぶ離れた席に座っていた。そしてどちらも下っ端だからあちこちにお酌して回る。事業の下ごしらえから仕上げまで彼女と僕で作り上げてきたという自負はあるけれど、賞賛されるのは役員様だけで僕たちは自分で自分を労うしかない。そんなものだ。所詮下っ端は到底こんな場でゆっくり話などできないのだけど、テーブルからテーブルへお酌して回るうちに、顔を上げたらちょうど彼女も我が社の部長にお酌した後で、鉢合わせた。


 ---後で会おうよ---

 ---うん---


パーティでの会話はこれだけだった。この後の遅い時間に待ち合わせをして、二人だけで会って、まっすぐホテルに向かった。それは僕にとって今までの人生において間違いなく一番パッションにあふれ、間違いなく一番ロマンティックなセックスだった。一度目は互いに性急すぎたが、二度目から後はゆっくりと時間をかけ、二人で優しく作り上げるようにして、幾度も高みを目指した。セックスは無味な事務手続きとは違う。全身の皮膚を通して伝わる体温に安らぎを覚え、時に予想もしない反応に驚きながら、深くつながりあい、また離れ、また絡まりあった。こうするために生まれてきたのかと思えるほど深く満ち足りた気持ちの中で、僕たちはその時、魂の中にある何かを交換しあった。確かに僕は彼女にそれを渡し、彼女はそれを受け取った。


この夜の後、もう僕たちが逢うことはなかった。事業のスタート期はまだ打ち合わせることもいくつかあったけど、実務部隊の手に渡ってしまえば僕たちが話すことは原則的にはなくなる。僕はまた違う複数のミッションを抱え、多忙な毎日に埋もれていったし、僕からも彼女からも連絡を取り合うことはなかった。あの夜の体験を無闇な逢瀬で壊したくなかったのかもしれないし、僕はこの先も逢い続けることは何か違うと感じていた。きっと彼女もそうだったからこの後何も起こらなかったのだろう。あの夜が人生の中で、とても印象深く忘れられない夜だと思ってはいたけれど、もう逢わないという一点で、僕たちは何も言わずとも一致していた。


そして十年が経って彼女からの電話があった。十年はあの濃密な数ヶ月を中和するのに必要な時間だった。内容はここでは省略するけど、僕は彼女が連絡をくれたことをとても嬉しく思っているし、彼女も僕と話ができて嬉しいと言ってくれた。何ひとつ連絡を取り合っていなくても、互いに思いや経験を共有する大切な友人だ。


あの夜彼女に渡し二人で交換しあったものは、友情だったのだと僕は信じている。これを友情でないと言うのなら何を友情と言えば良いのか、僕は知らない。

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