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僕の先生は子供達

もう、フィリピンを出国して1年が経とうとしている。って事は一年子供達に会っていない事になる。

昨年の3月、休暇+半分仕事でポルトガルに。コロナは話題にはなっていたし、ロックダウンって単語も耳にはしていたが、流石に一週間で何かとアクションの遅いフィリピン政府が動きだすとは思わず出国。

それが自分の人生を大きく変える判断になったが、その時はそんな事を知る由もない。

そもそも、なぜ海外で生活していたのか?正直、日本で生活する理由が思い当たらなかったのが一つあるかもしれない。

最初の投稿にも書いたが自分の中での日本人アイデンティティは40%。

基本、日本では外国人扱いをされる。慣れていたとはいえ、小さいな傷も長年おっていると痛みが増すのかもしれない。日本での生活の後半はそんな思いをしても、いなす事ができなくなっていた。

海外に行って外国人扱いされる分には外国人であることは間違いないのでそれほど傷つかない。それも海外で生活を始めた理由の一つかもしれない。

フィリピンと僕と子供達

海外移住にあったて第一候補はフィリピンだった。2006年から日本で
フィリピンの児童養護施設を支援する団体に入り活動を行なって、年に一回団体で彼らを訪問。

初訪問をした2007年の時かな、勝手に自分の中でミッションを設けたことを覚えている。誰に言われたわけでもなくて、なんだろうな、自分の中の変な使命感ともいったらいいのかな。どんなミッションかって言ったら、他のメンバーよりは英語ができることもあり、”僕は子供達やスタッフと話し、彼らの情報をできるだけメンバーに共有する”だったと思う。

それもあって初訪問は他の初訪問者が小さい子供達と遊ぶなか、僕は会話ができる中高生、スタッフと時間を過ごす事が多かった。
小さいことも遊ぶのもすぎだが、2日間とはいえ彼らと仲良くなると別れが辛いのも見当がついたのあえて避けていたのかもしれない。
結果として、小さい子供達は別れの時に泣いていて初訪問の他のメンバーも泣いている人が多かった。

僕?

他にもれず、人知れず泣いていたかも知れない。笑
中高生に別れ際に泣かれるとね。小さい子達の涙よりダメージ大きくてね、、、。

思い過ごし?

2007年初訪問、2008年は怪我をして訪問断念したものの、2009年から2019年までは毎年団体の仲間たちとその施設を訪問している。昨年2020年は団体のとって20周年で大事な年だったが結果としてコロナの影響で訪問を断念。

今年ももしかしたら、、、。

2011年8月の訪問の時の話し、1人の男のと仲良くなった。当時12歳かな。
思春期ど真ん中って感じで、他の子供達が僕たちが準備した企画で遊んでる時は遠目にそれをみていて。
子供達が僕らのために歌を歌ったり、ダンスを披露してくれている時には隣に座り、いろいろと話してくれる。

二日間、ずっとそんな感じ。

帰国してからもなんでか彼の事が気がかりだった。そうこうしているうちに
上司に有給が余ってる年内に使うようにリマインドされ、思い切って子供達にクリスマスに会いにいくことを決める。

フィリピンではクリスマスは一大イベント、モールでは9月中旬からツリーが飾り付けられている。

施設にいる子供達もクリスマス休暇中は家に帰るともたちが多い。基本は孤児ではなく貧困が理由で預けられている子供が多いので、どちらかの両親か兄弟、叔父叔母が迎えにくるので普段は100人ぐらいいる子供達もクリスマスの時期は15人ぐらいになる。

日本の団体と施設の経営者からもOKが出たので、クリスマス+正月の合わせて14日あまりを現地施設で過ごすことにした。気がかりだった彼もクリスマスは施設で過ごすのは知っていたので、久しぶりの再会を楽しみに現地へ。

クリスマス前に現地入り、普段団体で訪問する時と違う空気感が意外とここちい。お客様感覚ではない、身内の家に年末訪問した感じ。
到着時はまた30人ぐらい子供がいた、クリスマスが近くにつれ身内が迎えにきて1人、また1人と子供が減っていく。そして身内が迎えにきた時の子供の笑顔がとても印象的だった。
また、誰も迎えにくることはない子供達が毎日その笑顔をみていると思うと、、、。

きっと身内と過ごした子供達は年明けに戻ってきた時にいろいろと経験したことを話すのだろう、でも施設に残ってる子供は特に目新しいことはなく日常を過ごす。
”いつもの事さ”と気がかりだった彼は笑顔で言った。心が痛い。

僕はただたんにクリスマスを過ごすだけのためにきたわけではない!若かりし頃は教員希望だった事もあり、残ってることもたちに勉強を教えようと思っていた。もちろん、黒板を前に教えたところで集中して勉強しないのは100も承知。今回はお菓子作りをしながらお勉強する準備をしてきていた。

HOUSEが出しているシャービックを日本から大量に持ってきていた。それを使って、みんな足りない材料を買いに行ったり一箱分の材料と作り方を説明。

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子供20人 大人20人分を作るには何箱使うか?
5箱つく場合は牛乳はなんリットル必要?

みたな感じで計算しながら作り、クリスマスヂディナーのデザートとして食べた。少しでも普段とは違うことを経験させらたのかもしれない。

そうこうしていると気がつけば帰国前日。ドイツから来ていたボランティアに今回くる事になったきっかけを何気なく話していた。

8月に来た時に彼が1人であまり他の子供とつるんでいなかったから、なんとなく気になってね。でも、今回訪問中にみんなとバスケしたり、お菓子作りも率先して手伝ってくれたし、僕の思い過ごしだった事がわかって安心したよ。
えっRくんの事?彼、Steveがくる前はほとんど見かけなかったよ。いつも部屋にこもって行って率先して外で遊ぶタイプではないから、他のボランティアのメンバーを驚いていたんだよ。

だって。

嬉しような悲しような、、、、、、。

帰りの飛行機は本当に辛かった。彼らと過ごすことばかり考えていて、別れのことなんで微塵もよぎらなかったから。二週間あれだけ密に過ごせば辛いよね。

その年から僕は毎年年末年始は子供達と過ごした。彼らのためとかではなく、自分のためにが正しいと思う。
彼らから過ごすことで、自分が変わったし変わっていってるのがわかる。
今回の件も当時彼は僕を心配させないように他のこともが笑顔で帰っていくのをみて”いつもの事さ”と笑ってくれた。

僕だったら笑えたかな?

簡単に弱音を吐いてはいけない、今の自分が置かれた環境をいかに楽しむか。そんなことをいつも彼らから学んでいるように思う。

今Rくんも成人し、社会人として頑張っている。初任給で彼同様に身寄りがないDくんにスニーカと洋服を買って渡す素敵青年になった。

もちろん、彼も施設を出るまでは紆余曲折ありました。笑

彼らの成長をみていると負けられないと思う。年齢を言い訳にしてして学びをやめるつもりはないし。自分よりも若い人から学ぶ事が無いなんて思っていない。

次に彼らと会う時にさらに成長した自分でいたい。そして、その日が早くくることを切に願う。

現状維持は退化、今年のテーマ

最後も読んでいただき、ありがとうございます。


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