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【読書】「偶然」に身を曝す──東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』【基礎教養部】


本記事は「ジェイラボ 基礎教養部」の活動の一環です。
簡潔な書評(800字書評)は以下のリンクからご覧ください。



1. はじめに

この記事で扱う『弱いつながり 検索ワードを探す旅』という本は、僕が書店でぶらぶらと冷やかしをしていたときに偶然見つけたものです。以前から東浩紀さんの著書を読みたいとは思っていたのですが、ここでたまたま目に留まった書籍が「偶然(=弱いつながり)」をテーマにした本書であったことは、今振り返ると、なかなか面白い巡り合わせであったなと感じる次第です。

さて、本記事は、上記書籍の内容紹介と、その内容を通じて僕自身が考えたこと──特に、コミュニティ「ジェイラボ」の理念と関わること──の言語化を目的としています。前者については、800字書評で行ったメタ的な内容解説を踏まえつつ、本書の構成や各章のテーマなどについて短く説明できればと思います。この書籍は、著者本人が意図的にそうしたと述べているように、自己啓発的な「実践」の部分を多く含みます。一方で、僕はあくまで東氏の「哲学」に注目しながら読み進めたので、一般的な読み方とは異なるかもしれません。ただ、これも一つの見方として、本書を読む際の参考となれば幸いです。

後者については内容の都合上、ジェイラボメンバーを読者として想定していますが、ジェイラボを知らない方は読んでも無駄であるかというとそうではありません。むしろ、一般の方だからこそ得られるものもあると思っています。そもそも、そのような「偶然の出会い」も大切にしていこうというのが本書の主張です。ネットという世界を旅する「観光客」として、旅先をぶらぶらと散策するように、気軽に読んでいただければと思います。

2. 本書の概要

この本の主題に関わる論は、第1章から第7章にかけて展開されます。ここで、導入の第0章も含め、各章のタイトルを引用してみたいと思います。

0 はじめに──強いネットと弱いリアル
1 旅に出る──台湾/インド
2 観光客になる──福島
3 モノに触れる──アウシュヴィッツ
4 欲望を作る──チェルノブイリ
5 憐れみを感じる──韓国
6 コピーを怖れない──バンコク
7 老いに抵抗する──東京

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』目次より

0章はあくまで本書の導入ですが、内容としては非常に重要です。なぜなら、ネットは「自由に」情報を検索できるという、一見当たり前に思える感覚に対して疑問を投げかけているからです。より正確には、ネットはリアルのように「ノイズ(=ランダム要素)」のある自然な空間ではない、と言えば良いでしょうか。私たちは「自由に」検索しているように見えて、実はアルゴリズム(統計)によって予測された「枠組み」、言い換えれば「Google が提示する選択肢」の中に雁字搦めにされているということです。このような問題に対応する、つまりネットを利用しつつもそれに囚われないためのものとして、「旅」や「弱いつながり」という概念が導入されますが、こうした議論を追うだけでも、ネットに対する見方、立場というものがかなり変わるのではないでしょうか。

1, 2章は、タイトル通り「旅」「観光客」に関する論なので、ここでは少し置いておきます。ただ、書評でも触れた通り、これらの言葉、特に「観光客」は、哲学的な意味合いも含む表現です。このことを意識した上で、「旅」と「弱いつながり」はどのように結びついているのか、その旅が「観光の旅」であるとはどういうことを意味するのか、といった視点で、本書全体を読んでみると良いかもしれません。

そのほかの章を無理矢理分類するとすれば、3, 4, 5, 7章は「モノ」について、6章は「記号(=コピー可能なもの)」について扱っているということになるでしょうか。「モノ」というのは「言葉で制御できないもの、言葉の外部にあるもの」と言い換えることができます。身体性、一回性とも言えるでしょうが、このあたりが「弱いつながり(=偶然性)」と関連しているところです。ただ、6章のみが他の章と少し異なり、「モノ」から切り離された「コピー可能なもの」、いわば「強いつながり」の重要性をテーマとしているところは注目に値します。この本の基本姿勢は、あくまでも二種類の「つながり」の可能性を拡張することであり、弱いつながりの方が優れていることを主張する、すなわち、両者の優劣関係の逆転を試みるといったことではありません。この章があること自体が、本書の根本的な問題意識に対する、東氏の向き合い方の表れと言っても良いのではないでしょうか。

また、7章は「旅の終着点」としてのまとめの役割も果たしています。実際、本書の導入(第0章)として取り上げられているのは「ネット vs リアル」の話であり、ここではもう一度その話題に帰ってきます。各章の最後にある国名は、東氏が章ごとのテーマを語る上で重要となる経験をした、もしくはそれを象徴する場所を表していますが、こうしてみると本書の構成自体も一種の「旅」となっていますね。この本を読了したら、旅の振り返りとして目次を見直してみましょう。

3. 「理念」とは何か

以上では短くざっくりとした内容を紹介しましたが、僕が読んでいて最も気になった箇所は上で触れたものではありません。僕の興味を引いたのは、7章の終盤で少しだけ触れられる「家族」についての話です。これはそのまま、ジェイラボの理念に関わるものでもあります。

ところで、人と人をつなぐコミュニティにおける「理念」とはそもそも何でしょう。この言葉の類義語はたくさんあります。主義、思想、信念、信条……挙げればキリがないと思いますが、これらと「理念」という表現の差異、この言葉のみが表す独特の意味合いというものは一体何なのでしょうか。

正直に告白すると、僕自身はまだ、このニュアンスの違いというものを具に説明できるというわけではありません。それを受け入れた上で、次に引用する本書の記述を足がかりとしながら、できる限りの言語化を試みてみたいと思います。

本来は、そのような視点〔注:当事者以外の視点のこと〕こそが「理念」と呼ばれるものです。理念は、よい意味でも悪い意味でも、個別の利害からあるていど離れているからこそ、理念になりえます。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』文庫版あとがきより

この一節は、「当事者」という言葉について筆者が語る文脈の中で出てきたものですが、コミュニティの「理念」にも通ずる考えでもあります。そして、ここで決定的に重要なのは「利害」という単語です。

人が「利害」の関わる物事を考える上で目標にするのは、当然、自己にとっての「利」の最大化です。そして、現代、特にネット上における「利」とは「数」のことです。データ(数えられるもの)という点では「お金」と言い換えてもさして変わらないでしょう。あるいは、「お金」を生み出すための「時間」「能力」、さらにはそれらを得るプロセスの効率化、ということも「利」に入るでしょうか。ともかく、利害というものが関わると、必然的に人は、この一連の「数」の最大化戦略を考えることになります。

この極端な例が、YouTuberをはじめとする「広告収入で稼ぐ」タイプの職業です。実際、YouTuberの収入源は「再生回数」「登録者数」「企業案件の数」など、全て「数」に直結しており、さらにその規模は100や200といったものではなく、再生回数であれば何百万何千万、あるいはそれ以上という数字になります。彼らにとって、基本的にはこのような「数」こそが自身の評価(これはつまるところ他者からの評価でもある)の全てであり、それらをより増やすための行動戦略を取ります。

もちろん、これも一つの生き方であり、「数に対する欲求」が満たされているため、ある意味では幸せと言えるでしょう。しかし、それが人間の全てか、と問われれば、僕はノーと答えます。「数」によって失われるものもあるのです。そのうち最も大きなものは──適切な表現かはわかりませんが──おそらく「自分自身」です。

お金を代表とする「数」は、あくまでも大衆からウケるようなコンテンツを作ることに成功「した」という「過去」に対する報酬です。それは(普通の文脈では)決して「未来」を担保するようなものではありません。しかし、そうであるように見えてしまうのは、「成功」を決めるシステム自体がそのように(=ある程度の予測性を保証するように)設計されているからです。言い方を変えれば、「数」というのは、その人の未来の可能性を、システムが決定した「成功」の定義に沿ったものになるように狭めるためのツールです。つまり、ここでの「数」とは、東氏の言葉でいう「強い絆」であり、これに囚われてしまった者は、「与えられた入力を、ただ出力するだけの機械になって」(本書16ページより引用)しまうのです。これが、自分自身が失われる、という表現の意味するところです。

僕自身、このことはある程度自分の経験を通して理解しています。僕は昔YouTubeをやっていて、ほんの少しだけ収入も得ていた(無論、学生の小遣い程度です)のですが、そんな弱小チャンネルでも、「視聴者」が何を求めているのかということを過度に意識するようになります。他の動画シリーズよりも伸びる(注目が集まる)ものがあれば、必然的にその関連動画を作成することに重きを置くようになりますし、受けのいい動画のスタイルがわかれば、それに類似したコンテンツを作るようになります。これは正直どうしようもありません。それが人間の「数に対する憧れ」や「他者の視線に対する自意識過剰」というものだと思います。

しかし、このような「強い絆」に囚われると、自分自身の新たな価値、可能性を発見する機会を失います。新しいことにチャレンジするとしても、それはどうしても「数」が前提されたものになってしまいます。自分自身の未来は開かれたものではなく、他者が決めたルールに沿った「システム」に束縛されたものになってしまいます。グーグル検索で同じような検索ワードばかりを打ち込んだり、ツイッターやYahoo!ニュースのトレンドをみんな横並びで調べ続けたりするのと同じように、自分自身の未知の可能性を、過去や他者に自分から束縛されにいくことで閉ざしてしまいます。

長くなりましたが、「利害」が絡むとはすなわち「数」という「強い絆」に束縛されることです。そして、人間同士が集まり、深くつながるコミュニティの「理念」とは本来、個別の利害からある程度離れたものでなければなりません。では、そのような「理念」は一体何をその基礎として据えるべきか。

それこそが「弱いつながり(弱い絆)」であり、「一回性の偶然」です。

偶然は「利の最大化」の対極に位置するものです。統計を用いたマーケティングによる最適化は偶然ではありません。「目的のためなら手段を選ばない」という人の考えの中に「偶然」という2文字はありません。効率を求める人生にとって「偶然」というものは排除すべき事象であり、それは不確実な未来をシミュレーションによって塗りつぶすことを意味します。

しかし、利害の関わらない純粋な人間関係、ただ純粋に他者と「無償の愛」を交わしあうようなコミュニティを作り出すには、「利害」の侵略から逃れられる唯一の地である「偶然性」が必要不可欠です。そして、これから主題とするジェイラボの理念と深い関わりを持つ「家族」という言葉が出てくるのは、まさにこの「偶然」という2文字からなのです。

4. 弱いつながりと〈カゾク〉

少し長いですが、『弱いつながり』における東氏の言葉の引用から始めたいと思います。

他方で弱い絆は偶然性の世界です。人生は偶然でできています。それを象徴するのが子どもです。この本でもいくどか触れたように、ぼくには小学生のひとり娘がいます。それなりにかわいくて、ぼくとしては大満足なのですが、彼女が「この娘」であることは偶然でしかありません。彼女はぼくが三四歳の時に生まれましたが、二〇代に作っていたら、それは当然別の子供だったはずです。いや、それどころか、子どもは基本的に精子と卵子の偶然の組み合わせでしかないので、もしいまタイムマシンで時間を遡り、同じ日のまったく同じ時間に同じ妻と同じ行為を繰り返すことができたとしても、生まれてくる子どもは遺伝子的に別人になってしまう可能性が高いのです。そして、もし娘がいまの娘ではなく、まったく違った人間だったら、いまのぼくの生活はまったく異なったものになっていたことでしょう。
人生のほとんどは、かくも危うい偶然のうえに成立しています。親子関係は、人間関係のなかでもっとも強いものですが、しかしそれは序文の分類で言えば「弱い絆」の最たるものなのです

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』pp.130-131、強調はゆーろっぷによる

偶然でやってきたたったひとりの「この娘」を愛すること。その「弱さ」こそが強い絆よりも強いものなのだと気づいたとき、ぼくは、ネットで情報を収集し続ける批評家であることをやめて、旅に出るようになったのでした。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』p.132、強調はゆーろっぷによる

少し哲学的になりますが、「偶然」と分類される事象の中で最も本質的なものは、「私がこの私である」ということでしょう。東氏が言うように、遺伝子的にも「私」という人間は偶然の産物ですし、そもそも「なぜ私(の意識)が存在するのか」といった問いに明確な答えが与えられていない、たとえ答えを出したとしてもそれは暫定的であることを免れない以上、「私が私である」ということは全くの偶然なのです。

本来、この本質的「偶然」に最も近いものが、従来の、つまり血縁的な意味での家族です。東氏は「その『弱さ』こそが強い絆よりも強いものなのだ」と表現していますが、これは、本来であれば家族こそが「利害」の関わらぬ「愛」を交換する場なのだということを意味します。

しかし、現代においては、家族というコミュニティにすら利害が関わってくるようになりました。「親ガチャ」なんて言葉も出てくるくらいです。親の年収や学歴、あるいは子供の学力(成績)をはじめとした「数」が、本来は「無償の愛」で必要十分だったはずの親と子の関係性の間に入り込んでくるようになりました。

ジェイラボはその意味で、「弱いつながり」を基礎とした新しい「家族」の在り方を追求するコミュニティであると、僕には感じられます。ここではそのような新しいコミュニティを、杉田俊介氏による本書の解説に倣って、〈カゾク〉と表記することにします。

〈カゾク〉において最も重要なのは「理念」であり、すなわちそれは本質的に「私が私である」ということと同値です。これは、固有名詞的な「私」に囚われることを意味しません。偶然とは私という「身体性」の言い換えであり、それこそが「私が私である」ということです。ゆえに、極論すれば、〈カゾク〉にとって「身体」以外はどうでもいい。名前も、経歴も、それ以外の「数」的な属性も、そこに本質的価値はない。ただ、「身体=顔」だけがある。それが、新しい〈カゾク〉の究極的到達点なのでしょう。

そこは、他者との偶然の出会いを楽しみながら、ただ「ギブ」を交わす空間です。「ギブアンドテイク」という「利害」はありません。ただ、与える。ジェイラボも、明確な対価を設定していません。それはきっと、偶然という「弱いつながり」を享受しながら、人間的かつ動物的な無償の「愛」を自由に交換する場であることを意味しています。

このような〈カゾク〉が、「利害」で塗りつぶされた現代において実現可能なのかは僕には分かりません。しかし少なくとも、私たちがまだ見ぬ〈カゾク〉の形があること、そして、ジェイラボがそれを目指す場であることだけは、確実に言えるのではないかと思います。

皆さんとの「弱いつながり」に感謝し、ジェイラボという場が〈カゾク〉となることを夢見て。

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