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恋人は一人って誰が決めたの?というか、恋人ってなに?

突然のタイトルに驚かれた方もいるかもですが、これは決して恋人を否定したい、一対一の関係性を否定したい、というわけではなく、あくまで私、kureの日々思うことの一つとして読んでいただけたら嬉しいです。

唐突に言います。

恋人って何なのか、正直いまだによくわからないです。
こんなこと言ったら、中二病まだ引きずってるみたいだなって思うのですが、私にはわからないのです。

あとよく、わからないということを否定されることがあるのですが、わからないを否定するのもわからないのです。考えに考えた結果わからないのならば、それは間違いでも何でもない。と私は思います。
(早速脱線してしまいました)

そもそも私は、カテゴライズが苦手です。恋人、配偶者、結婚、家族、友達に仕事仲間…どれがどれでと割り振るのが難しいのです。感覚での話なのですが、人を箱に入れている感じがして、その枠にきっちりはめなきゃいけない感じがするのです。

だから今は、同じような気持ちでいる人たちと交流や関係を深めています。
カテゴライズが苦手で、でも人を求めている、つながりを求めている人たち。それは意外と多かったです。
マッチングアプリってすごいね(この話はおいおい詳しく)

というか、そもそも誰が、一人としか愛し合ってはいけないって決めたんだろうって思うんです。国?宗教?えらいひと?
それって私が決めたことじゃない。
(何度も言いますが、一対一の関係性の考え方を否定しているわけではありません)

例えば20歳で結婚して、人生100年時代といわれるならば、残り80年、同じ人をずっと愛せる自信はあっても、目移りしない自信はありません。
だったら離婚すればいいんだろうけど、そういうことでもない気がします。
(あと、結婚した人をバツイチとかいうのやめたほうがいい。めっちゃ自分たちのために頑張ったんだからマルイチ。何なら💮イチだと思う)

好きな人が好きになった人なんだから、相手のことを悪用しようってことじゃない限り、よくないですか?と私は思うのです。
むしろそれを隠してコソコソするほうが真摯ではないなって。
誰にも渡さない!という愛情は、私には向いてないのです。
それはまるで、人をもののように扱っているように感じてしまいます。

深く深く付き合っていくほどに、コミュニケーションは必要になってくるし、お互いの別の相手についてお話しすることも増えていきます。
でも、それでも嫉妬という感覚よりも、相手を深く知ることができる喜び…みたいな、安心感があります。

これを世の中ではポリアモリーという言葉でカテゴライズするようです。
そして、一対一の関係性をモノガミーとも言います。
ひねくれ者のわたしは、その言葉も嫌います。
だって、モノガミーの中にだったいろんな形があるように、ポリアモリーの中にだっていろんな形があると思うから。
そもそもそこを二分化することで何かいいことがありますか?

ただ私は恋人という定義が分からない、そして一対一でないといけないという考え方がわからないということに、最近気づいた、ということなのです。
気づいてからの世界は気づく前の世界とは一変しました。
わからないということが罪という、私自身が私に科したものから解放されたからだと思います。

もし、同じ気持ちを少しでも抱いている方は是非お話ししてみたいし、全く共感しなかったとしても、話したい人がいたら声をかけてほしいです。

この話を人にするようになってから、ヤリ〇ンとかアバ〇レとか言われることも増えました。もともとそんなの気にしてないからいいんですが、決してそういうことではない、ということも併せて理解していただけたら嬉しいです。

と、ここ数年ずっと感じてたこと、考えていたことの一つを言葉にしてみました。もしよかったら感想などおきき出来たらうれしいです。

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