グラレコ、グラファシを何のためにやってますか?

あなたは、何のためにグラフィッカーをやっているのでしようか?

私は、なんと答えたらいいのかなぁと思い、モヤモヤすることがあったので、書くことで消化してみたいと思います。

そもそも、なぜ依頼されたのか?

依頼する側は、話し合いや会議を具体的に見える化して、場を円滑に進めたり有意義になるように、グラレコやグラファシを依頼したのだと思います。

ですので、会議や話し合いありきで、グラレコやグラファシは後からついてくるものだと思っています。

会議の目的とグラファシの目的

会議や話し合いの前に、グラフィッカーと主催者が目的を共有するのは大切なことです。会議の目的を聞けば、どんな風なグラフィックが求められているかベテランの人は分かるのだと思います。(私は経験が浅く、イメージできないですが…。)

また、グラファシの場合、ファシリテーションの部分で場作りに影響を与えて、より良い場にすることは、みんなが目指していると思います。ただ、グラファシが場をコントロールできると思うのは、違うと思っています。

グラレコをした後に、あなたのお陰で分かりやすくなった、話の流れが見えて理解できた、より良い着地ができた、など意見をもらうことがあります。そのフィードバックはとても嬉しいものです。

そのためにグラレコがあるのだから、そう感じてもらわないと残念だ、と思う気持ちは分かります。でも、何かしらの要因で自分のやったことが評価される感想が聞かれなかったら、役立ててもらえていないのではないか?何のためにグラフィックを書いたのかと残念に思い、疑心暗鬼になるのは違うと思います。

グラレコをすることで自分を認めてもらうことが目的になっている可能性があります。また、グラファシをするから場作りが素晴らしいものになる、というのも違うと思っています。

認めてもらいたい、という気持ち

自分の技術を認めてもらうためにグラレラコをやっているなら、そのグラフィッカーは場に良い影響を与えず、極端に言えば、いない方がいい人になってしまいます。

場を盛り上げたり、場を仕切ったりする役目の人は他にいるのに、自分のグラフィックファシリテーションが、あれもこれも全部カバーできて一番素晴らしい、と言われたいのなら、それはただの目立ちたがりやです。きつい言い方をすれば、あなたのグラフィックのために会議や話し合いがあるわけではないのです。

私も承認欲求が強かった

私自身、私の方がもっとうまくできる、私もあれくらいできる。と思ってグラフィッカーを始めました。ホントに痛い人間です。

2年くらい前から、自己流でホワイトボードにぶっつけ本番で書くことを続けて、その度に自分のグラフィックの至らない部分を見ては凹み続けることを繰り返して来ました。

しまいには後から見返すのが嫌で、スマホの不調を理由に画像には残さないようにしたりしていました。

もっと認められたいと思う人を見ていて、私の中にも認められたい思いがあって、今もそう思っているし、まだそのフェーズにいるんだなぁと、自分のことを振り返るきっかけが持てて良かったと思っています。

情報の共有は自分から提案する

ファシグラを通じてどんな場を作るのかを共有することは大事です。でも主催者から共有されない時は、相手が気づいていないだけかもしれません。相手が共有することに気づいていないなら、「目的を共有したいです。」と、こちらから声をかけ、提案するしかないです。

主催者側が共有してくれない、と相手を責める前に、「今回は、どんな場にしたいですか?会議の目的は分かったんですが、グラファシには何を求めますか?どんな場をグラファシを通じて作りたいですか?」と質問をすることが、グラフィックファシリテーターのできることだと思います。

議事録と場づくりの違い?

私には、グラフィックの何をもって、「議事録的」とか「場作り」の違いをいうのか分かりません。これは経験不足からくるのか、そういった場に出くわしたことがないからなのか、グラフィックファシリテーションと議事録を分かっていないだけなのか、分かりませんが、モヤモヤとした疑問が残るところです。

場を作ると場にコミットすれば、グラフィッカーも場作りに参加している事になります。逆に場作りに参加しないとグラファシがコミットすれば、場作りには参加しないグラファシが存在するだけです。でも、場作りにコミットしたグラファシがいるから、素晴らしい場になるとはかぎりません。議事録的なグラレコだから、素晴らしい場ではないというのも違うと思っています。

グラレコで書かれる言葉は、一旦グラフィッカーの中を通る

グラレコと聞くと、その場にいて、発言もせず黙々と書くだけと思っているかもしれません。

でも、グラフィックは、グラフィッカーという人間の中を一旦通って書かれます。感情や感覚などのフィルターを通って書かれるものは、すでに場に影響を与えています。

私の場合、コーチングの勉強会で書くことがほとんどなので、その時に何が語られているかを、透明になって聴くことを意識しています。それでも自分の中を通るとき、私個人の思いや意見が乗っかることがあるので、それを書きたくなった時は、素直にこう書きたいけれどもどうかと発言したり、その場にいる人に、語られていることと書かれていることが違ったら教えてくださいと、声をかけています。

グラフィッカーの中を通るということは、書くときには意識していた方がいいと思っています。

場に貢献するという考え方

グラレコで、ただ書いているだけで、場づくりに参加が出来ていない、と思うのは、違うのではないかなぁと思っめいます。

どんな形でも、その場にいることは、すでに場に影響を与えているのですから。それに気づけば、あとは場に貢献する事だけを考えて、依頼された場に立てばいいのだと思っています。

グラフィッカーあるある、なのかも

自分の意見だけをつらつらと書きましたが、これってグラフィッカーあるあるなのかもしれないなぁ。承認欲求が強いと、グラフィッカーをするのは、じわじわとしんどくなるのではないかな?と思います。

あと、グラレコとグラファシを並べて語っても意味がないという意見もあると思います。私も書いていて、ありゃ?と思うこともありましたがグラフィックを軸に考えるだけの事かなと思って、並べて考えてみました。

自分が何のためにグラフィッカーをしているのか。なぜグラフィッカーをしたいと思ったのか。グラフィックだけではなく、ファシリテーションも加えていくのはなぜか。やってみてどう思っているのか。自分にインタビューしてノートにグラフィックしてみるのもいいかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました。 感謝です。小さなサポートでもしてただけるとうれしいです。