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東京の東証一部上場企業を1か月で退職し、地方の若者に起業家育成しています。-初めましてで僕と話す人に読んでほしい記事を書いてみた-

不特定多数の人に見れもらえる場所で文章を書くの、久しぶりだなぁ。
あ、はじめまして。藤野悠生と申します。

仕事柄、高校生とか大学生と初めましてをすることが多いです。初めましての人と話すときに絶対発生するイベントありますよね。そう、自己紹介。

別に自己紹介が嫌いなわけじゃないんですけどね、、、自己紹介に時間使うのもったいないし、5分とか10分で僕のことを知ってもらえる、プレゼンできる自信が正直ありません。

なので、この記事を読んでもらえると、僕の人となりがわかる、というのをゴールに今から文章を書いてみようと思います。

小学校

冤罪を受けた。いつだったかな~、小3とかそのへんだった気がする。僕と友達2人、3人組でよくスマブラやカードゲームをして遊んでいたんだ。

そしたらある日、ドラゴンボールのデータカードダスっていうカードが、いつの間にか俺が盗んだことになっていたんだ。忘れもしない、やつの名は限界突破、、、


こいつが限界突破だ。忘れもしない。

親も最初は「ゆうきくんのこと、信じてるから」と言って、味方になってくれていたが、時間がたつにつれて僕に対しての不信感が溜まっていくのを子供ながらに感じた。最終的には「頼むから謝ってくれ、、、」と言われた。

世間体を気にしてそうだった。「親も人間なんだなぁ」とか、「人間って醜い生き物なんだなぁ」とか、「子供の発言権って弱いんだなぁ」とか、いろんなことを感じた。それからの僕は人に期待しなくなった。

中学校

人に期待しなくなり、子供の発言権って弱いんだなと思った僕は、理想の息子になろうと思った。中学の先生からも、親からも自慢されるような、そんなやつだ。結果はどうだったか?大成功だ。我ながらうまくいった。

生徒会に先生から推薦されるし、部活ではバスケ部のキャプテンを務めた。学力も校内トップ5%にはいた。

野球部やサッカー部の陽キャ、ヤンキーから卓球部などの文化部まで幅広く仲が良かった。親も先生も特に不満がなさそうだった。

ただ、僕自身は偽りの自分を演じることにだんだん疲れていた。

高校

理想の息子を演じることに疲れた僕は、無気力になっていた。中学バスケ部だったし、なんとなく流れでまたバスケ部に入った。でも、なんとなく。僕自身の熱量はゼロ。

勉強もやらなくなった。やる目的がなくなったからね。でも、中学の時頑張ったから、僕が入った高校の偏差値は68あった。周りはみんな京大・阪大・神大を目指していた。

親からは「医者になれ」とよく言われた。僕が医者になる気がない、医者になるほどの学力はつかないと思ったタイミングからは「公務員になれ」と戦略を変えてきた。

多分、とにかく僕の将来が心配だったんだろう。別に裕福な家庭じゃないのに、「うちはお金ないから」が口癖のくせに、塾とか、教育にはお金を惜しまなかった。親自身が学歴コンプだったのもあると思う。

でも、僕自身は勉強する目的がなかった。なんとなく勉強して受かるほど大学受験は甘くなく、受験失敗。現役で行ける大学はなかった。

自宅浪人

自称進学校だったから、周りは国公立や関関同立に入り、インスタ映えするようなキャンパスライフを送っていた。

別に大学に行く目的はなかったが、キャンパスライフを楽しんでいる周りがうらやましいのと、働きたくないという一心で親に「浪人させてください」と土下座した。

親は「お金ないから自宅浪人だったらいいよ」と言ってきた。
(ちなみに2個下の弟には予備校に行かせている。なんでやねん。)

今でも思い出したくない、地獄のような日々が始まった。お気づきだろうか?勉強する目的がないのに勉強するために1年時間をとったのだ。なんという矛盾。

親からは「浪人してるんだから、もちろんいい大学いくよね?」というプレッシャーを感じるから、顔を合わせたくなかった。

朝すぐ家を出て、図書館に行き、勉強する日々。一番つらかったのは、友達がいなかったこと。1日で言葉を発するタイミングがコンビニの店員に対して「袋いらないです」のみ。そんな生活だった。

定期的に会ってくれる中学と高校の友達がいた。ドトールで他愛もない話をするだけなのに、涙が止まらなかったことを覚えている。

このとき、僕は

  • 人は人に生きる希望を与えることができるということ

  • コーヒータイムのようなささやかなものでも、生きる希望になりうるということ

  • 人は、未来に希望がないと生きた心地がしないということ

を学んだ。

結局、学歴を最もコスパよく取れるところにしようと思い、広島大学の夜間主コースになんとか受かり、地獄の自宅浪人が幕を閉じた。

(余談だが、夜間主ってのは18:00から授業があるコース。社会人が学問を学びなおせるようにという目的で生まれているんだが、なんと普通のコースよりも偏差値が10ほど低いのに、国公立卒業を主張できる。)

大学(1-2年)

なんとか大学に入り、地元の神戸から出て、広島で一人暮らしを始めた。
親の目を気にせず、すべてを自分で決めれることが楽しすぎた。

いつ家に帰ろうが、いつ風呂に入ろうが、いつバイトに行こうが自由。すべては自分の責任だ。

幼少のころから、歌うことが好きだった。実は高校のころからやりたかった音楽活動。(実は高校に軽音部がなくて諦めていた。)時間ができた今しかない!と思い、歌い手活動を始めた。

自分の歌を録音し、動画と合わせて、ニコニコ動画とYouTubeにアップし続けた。Twitterで宣伝もしまくった。

過去の作品。マジで24時間歌のことしか考えていなかった。

傍から見たら、頭がおかしかったと思う。授業中に腹式呼吸の練習しているし、炊飯器買うお金我慢して音源の編集代に充てているし、夏休みとか毎日一人でカラオケに5時間以上いるし、、、

でも、好きなことしてるだけなので、何もきつくなかった。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。結果、大学2年の5月にやりたいことリストの「ライブする」が達成された。


頑張って歌ってるな、、、

そして、なぜかお金が稼げてしまった。
ライブのチケットのノルマを超えたからだ。

この時、僕は衝撃の事実に気づいたんだ。

中学、高校、浪人までの僕

中学、高校、浪人の僕は親や先生、学校や社会などに求められることにひたすら合わせて、自分のやれることをやってきた。それで周りの人に喜んでもらっていた。(ただやりたいことじゃないので、しんどかった。)


大学の僕

ただ、大学の僕はひたすらやりたいことをやっていたら、目の前の人が感動してくれ、お金を払ってくれた。僕自身も楽しい。

やりたいことと、やれることと、需要。この3つが重なることをすればお金も稼ぎながら自分らしく生きていけそうだな。そう感じた。

大学(3-4年)

大学受験に圧敗(圧倒的敗北)をした僕は、「就活だけはしくじりたくない!!!」という思いで、大学3年の5月から就活をスタートした。

周りで就活している人はいなかった。広島の中では圧倒的イノベーターだった。

仕事ってサラリーマンだと週5、8時間するってなったときに、人生のほとんど仕事してるじゃんって思った。だからこそ、仕事が楽しくないと人生楽しく過ごせなさそうだなと思った。

だから、仕事を楽しそうにしている社会人を探すことにした。

大手からベンチャー、視野を広げて経営者やフリーランス、いろんな人と交流させてもらった(当時はコロナになる前だったので、リアルで熱い話をたくさん聞いた。)

結果、一番仕事が楽しそうだったのは経営者だった。自分の価値観に従って、お客さんも、売る商品も、すべて自分で決めることができる。経営者って自由だなって思った。

経営者には、お金が好きな人と自分のビジョンや哲学を貫く手段として経営をしている2通りいた。僕は後者にあこがれた。自分の死から、この世に何を残すかから逆算して仕事をしたいと思った。

どうせなら、自分の存在意義をつくりたいなと思った。自分が生まれた世界と生まれなかった世界で差があるような人になりたいと思った。

『金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流』
どうせなら、未来を創る次世代の若者に投資したいし、社会を変えるような人材を残したい。そーゆー仕事をしたいと思った。

資本主義社会の現代で、社会を変えることができる人種は起業家だと思い、起業家の育成や支援を仕事にしようと思った。

その一歩目として、広島でスタートアップ体験イベントを開催した。
大阪の若手起業家と、個人投資家を巻きこみ、全国から広島に累計100名ほど来てもらった。

これは第3回だったかな?

未来に可能性しかない、想いを持った若者の支援をすることにめちゃくちゃやりがいを感じた。

結構早めに就活をしていたからか、東京の東証一部上場企業から内定をもらっていた。多分、30歳で年収1000万はいくだろう。

でも、僕は就職せずに、縁あった広島で起業家の卵を支援する活動を続けたいと思った。

親には猛反対された。最終的に「就職する前提で大学の費用出してるんだけど?」という主張に勝てなかった。だから僕は一旦東京に行くことにした。

社会人1年目、起業1年目

僕は東京に行った。ただ、僕は会社をすぐやめるつもりだった。1年とかかな?なぜなら、「就職してから3年後に独立します」っていうやつで成功した人を周りで見たことがないって、僕の経営の先輩が言っていたから。

僕は自分に期待していなかった。だから、早く辞めないと自分のやりたいことは実現しないと思っていた。でも、「就職しながらでも起業家支援できるんじゃね?」というワンチャン心が出てしまっていた。

結果、ワンチャンはなく、やりがいを感じない日々を送るように。このままではまずいと思い、新卒入社して1か月で東京の上場企業を退職した。

思い出深い退職届

やめてからは、とにかくがむしゃらだった。退職した3カ月後には、広島の起業家の卵が集まるシェアハウスを創設した。

シェアハウスでみんな血眼になってタスクをしている図

経営の基礎を丁寧にアウトプットし、がむしゃらに頑張った結果、自分が何もしなくてもシェアハウスとスタートアップ体験イベントが運営される仕組みができた。

現在と未来

とまぁ、ここまで読んでくれている人には僕の成長日記というか、過去について知ってもらえたかと思う。

んで、結局今は何してんの?って話だと思うんだけど、今から説明するから慌てないでほしい。

今やっていることは主に2つ。
・大阪、広島、北海道で起業家育成
・東京の会社と提携して、コンサル

広島の何の変哲もない大学生に、投資家と交渉し、シーシャ屋をオープンするまで育てたり、広島市から出資を受けて全国をトラックで回りながら演奏する音楽集団をつくらせたりetc…

東京の上場企業辞めて、ここ2年ぐらい経営というものにフルコミットしてきたので、ある程度ビジネスと教育はできるようになりました。でもまだまだです。20代は修行の身。

東京の最前線のビジネス基準を、地方の若者に還元できるように、僕自身も修行しています。

そして、僕がやりたいこと。それは地方で燻っている、想いがある若者に起業家育成をし、各地方で一緒に独自性のあるビジネスを展開して、日本を盛り上げること。

今はその未来図に向けて、8月から月1で北海道に行くことにしました。

地方の若者の想いを志に変え、いい未来を創るためにともに励む。
かつての松下村塾のようなものを各地方につくりながら、ポテンシャルある次世代起業家と一緒に事業ができたらいいなぁ。

とまぁ、つらつらと文章を書いていたら4500字も書いていたのでこの辺で終わろうかと思います。

この記事のゴール「僕の人となり」は分かってもらえたでしょうか?
何か気になることだったり、聞きたいことがあれば、実際に話すタイミングでも、X(Twitter)のDMでもお待ちしております~!

X(Twitter)ID:@youcan_business

今回はこんな感じで!ご拝読ありがとうございました!


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