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【年齢のうた】中川五郎 その2●25年目と27年目のおっぱい

お暑うございます。

先日は、去年に続いて中野大盆踊り大会に、家族で行ってきまして。
(去年の模様は以下)

で、今年もザ・リーサルウェポンズを観たり(アニキ!)、DJやついいちろうに笑ったり、アニソンディスコ、そして盆ジョヴィで踊ったりでした。

それにしても会場に行く前に歩いた中野のアーケードでもボン・ジョヴィの曲が流れていて、そんなに定着してるのかぁと実感した次第です。そこでは盆踊りでほとんど使われていない曲が多かったのも味わい深し。

そう、中野サンプラザが閉鎖されて、この街に足を向けることがなくなってたんですね。おかげでブロードウェイに行ったのもかなりひさしぶりで……いっそう賑やかに、たいへんな空間になっていましたね。
ブロードウェイは、西友などがある地下も好きです。今回はここで買い物をして、盆踊りに向かいました。

大盛況の盆踊りが終わってからはラーメン店に。そこで注文を待つ間にマルティカが流れてましてな。わりと好きだったことを思い出した。
と思ったら、翌日。去年の秋に録画したTVKの番組『ビルボードトップ40』(中村真理さん~!取材の際はお世話になりました)を流してたら、そこでもこの歌が流れてビックリでした。なんということか。

35年前のヒット曲か~。
彼女は今も音楽活動をしているようで、何よりです。

ええと、最近ではドラマー・中畑大樹の50歳の誕生日を祝うライヴのレポートを書きました! フジロックに行く直前の夜でしたね。ぜひご一読を~。

土曜日のカネコアヤノの野音もとても良かったですね。すごいバンドだわ~と思ってたら、ほんとにバンドになったようです。

では中川五郎の2回目です。

わいせつ裁判に立ち向かった20代の中川五郎


前回、駆け足で中川五郎の音楽を紹介したが、実は彼の音楽そのものと、その周辺のフォークの界隈を含めて触れていくと、かなりディープなところにまで書くことになる。だいぶ省略してしまっていて、申し訳ない。

最低限のことを押さえておくと、当時のフォークシーンで人気のあった高石ともや(友也)とは楽曲面での深い関係がある。前回書いた「主婦のブルース」の前のヒット曲「受験生ブルース」がそうだった。

また、ベトナム戦争という時代背景もあり、中川五郎は反戦歌も唄っている。この一方でストレートなラブソングも唄っていて、下はその両方が収められたシングルだ。彼の両極が自然に表れている。

後者はエリック・アンダースンの日本語カバー。エリック・アンダースンは中川が60年代当時から傾倒してきたアーティストで、僕も10年くらい前に東京公演を観に行った。彼もまた誠実な、正直な歌を唄う人である。

さて、中川の初期の活動期は、シンガーとして激動の日々だったのだろう。なにせ当時はフォークが一大旋風となった時代。あらゆる経験をした彼はすっかり疲れ果ててしまったのか、1970年に歌手廃業を宣言するに至る。
そして中川はURCレコードの機関誌『フォークリポート』の編集者として生活していくことになった。

アクシデントが起こったのはこの後である。
中川は70年代前半の多くの時間を裁判沙汰に費やすことになってしまう。先ほどの『フォークリポート』に寄稿した『ふたりのラブ・ジュース』という小説がわいせつであるとみなされ、当局から告発されたのだ。

この経緯については、彼の著書に詳しい。ことに騒動の後に出版された『裁判長殿、愛って何?』には、訴訟の具体的な進行など、たくさん書かれている。その一部は、のちに別の原稿ともども出版された『七〇年目の風に吹かれ』にも収録されている。

この件については僕が代弁するように書くよりも、関心を持たれた方はぜひご自身で調べたり、本を手に取ったりしてほしい。

ただ……今回このことを書くにあたり、思い出した記憶がひとつあった。

僕が80年代に中川五郎の存在を知ったのは、当時の洋楽ロックのマスコミで、彼が雑誌への記事やライナーノーツを書いたり訳詞をしたりしていたからだ。かたや、唄い手としての中川五郎はまったく知らなかった。加えて、この裁判の件も知るよしもなかった。
ところが、その裁判沙汰について知ったタイミングがあった。渋谷陽一のラジオ番組である。NHK-FMだったのは確かだが、『サウンドストリート』だったのか、『ミュージックスクエア』だったかは、覚えていない。
80年代半ば以降、渋谷と中川はともに洋楽ロックのジャーナリズムの最前線で仕事をしており、渋谷はよく現場が一緒になる中川のことをかなり評価していた記憶がある(『ロッキング・オン』の原稿にもそうした記述があった)。自身のラジオ番組でも、中川のことを好意的に話していて……たぶん執筆対象の洋楽アーティストについて事実関係や基本情報をしっかりと押さえながら、その上で音楽性や歌詞について誠実に綴る彼の姿勢を評価していたのだろう。ある夜の番組では、そんな話の流れから、実は中川五郎は元はフォークシンガーで、一方では自分の書いた原稿の正当性を守るために裁判で戦い抜いた人でもある、と紹介したのだ(意訳)。
渋谷陽一のおかげで、中川五郎はただならぬ人だと、10代の僕は認識したものだった。渋谷がこう話していたことを、中川は知っているだろうか。あるいは、記憶しているだろうか。中川に20年前にインタビューした時に、僕も話すのを失念していた。

なお、すでに公表されているように、渋谷陽一は昨年の11月から病気療養をされているとのことで、公の場での仕事はずっとされていない。また元気に復活されることをお祈りしている。

「25年目のおっぱい」と「27年目のおっぱい」


話を70年代の中川五郎に戻す。

裁判は長引いていたものの、そんな中で中川五郎は1976年1月、フォークシンガーとしてはひさしぶりの作品にして2作目となるアルバムを出す。それが『25年目のおっぱい』である(なお、裁判はこの頃に一段落したものの、1978年から再審が始まっている)。

このアルバムのタイトル曲は、愛する人との純粋な関係性を唄っている。25年目というのは、おそらく中川自身が生まれてから25年目、つまり24歳当時のことを指しているのだろう。

この若い男女にはもうすぐ赤ん坊が生まれるようで、おっぱいをモチーフに、彼女への愛情を唄っている。そして曲は、自分が君のおっぱいをひとりじめできなくなると唄い、終わりへと向かう。

ライヴバージョンのリンクも貼っておこう。

とても個人的で、しかし、それゆえに普遍的。ピュアなフォークソングだと思う。この時期の中川の作風は、性と愛についてのストレートな歌が主軸になっていた。

そしてこのアルバムには、後半に「27年目のおっぱい」という曲も収められている。さっきの歌から2年が経過し、赤ん坊は成長して、おっぱいやミルクを飲むようになった。その子が泣くと自分は原稿が書けない、という表現が生々しい。まさに文筆家の中川の姿だ。ひどくシンパシーを感じる。

ここには27年目……つまり、26歳当時の中川のリアルがある。

(中川五郎 その3 に続く)


中野の盆踊りの帰りに寄った
函館らーめん 大門にて食した
塩そば750円!
カミさんは冷やしを食べてました。
おそらくずいぶん昔に行って以来のお店で、
おいしかったです


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