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「アテラ」2 卑弥呼は「姫巫女」か?


 「アテラ」とは誰か?  

 2 卑弥呼は姫巫女か?


 一般に、「卑弥呼」は「姫巫女」であり「巫女」ことであり人の名ではないといわれ、祭祀を行った巫女とされているが、そうであろうか。

 「卑弥呼」は女王である。単なる巫女ではない。

 その考え方でいけば「斎王」が近い。未婚の女性であり、神宮において「
巫女」として「アマテラス」の魂を鎮魂する。加茂神社にも「斎王」がいる。しかし、「斎王」は女王ではない。

 神宮最初の斎王は「トヨキイリヒメ」であるが、女王ではない。そのときの王は男王であり「ミマキイリヒコ」であった。

 代々の斎王を次に示す。

1豊鋤入姫トヨスキイリヒメ(トヨキイリヒメ豊来入比売)
2倭姫ヤマトヒメ
3五百野イオノ
4伊和志真イワシマ
5稚足姫ワカタラシヒメ
6荳角ササゲ
7磐隈イワクマ
8菟道ウジ
9酢香手姫スカテヒメ
10大来オオク (ここから飛鳥時代)
11当耆タキ
12泉イズミ
13田形たかた
14多紀タキ
15円方マドカタ
16智努チヌ  (ここから奈良時代)
17久勢クセ   以下省略

 初代斎王である「トヨキイリヒメ」の時代の王は「ミマキイリヒコイニエ」である。後に崇神天皇と呼ばれる。斎王は女王ではない。

 崇神天皇は、竹田宮も言うようによく神武天皇になぞらえられる。それは藤原不比等編纂の『古事記』や『日本書紀』が崇神天皇の歴史を神武天皇の歴史として書き換えている部分が少なくないからといわれる。

 継体天皇をもそうであったが、切り替わりの時には前の天皇の娘を皇后とした。神武天皇も出雲の王の娘であるヒメタタライスズヒメ媛蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスケヨリヒメ比売多多良伊須気余理比売)。彼女の父は大物主・事代主とされる出雲の王である。武御雷命による出雲からの国譲りはこのときの事情を説明したものであり、後の崇神天皇のときの事情は神武天皇のところで記述された。つまり時代をずらして神武天皇を武御雷命に変え、崇神天皇を神武天皇に変えて記述したと思われる。

 それらは藤原不比等によってなされたといわれる。口伝を謠習したのは稗田阿礼であったが、阿礼とは女性の名であるといわれる。阿礼姫と呼ばれる彼女は殿上人の官位を持っていなかったといわれる。つまり、古事記に書かれたこの稗田阿礼とは実際には阿礼姫ではなく、藤原不比等が架空の人物である阿礼姫になりすまして歴史を語ったことにしたのではないかといわれる。藤原不比等の"不比等“とは後の世の当て字であり、本名は「史」と書き、「史(ふひと)」であったという。史部の「史(ふひと)」であり、歴史を握るものであった。過去を握るものであったという。

 藤原史は、過去を握り、現在を握り、未来も握っていたといわれる。


 では「トヨキイリヒメ」が斎王であったときの王「ミマキイリヒコイニエ」である崇神天皇の皇后が女王とされたのか?

 崇神天皇の皇后は「ミマキヒメ」であるが、これは本名ではない。なぜなら崇神天皇の名が「ミマキイリヒコ」であるからである。つまり、崇神天皇は「ミマキヒメ」のいたところに婿入りしたから「ミマキイリヒコ」となったのである。子である垂仁天皇が「イクメ」に婿入りし、「イクメイリヒコ」となったように。「ミマキ」とはどこか?「イクメ」とはどこか?

 それらについては後に述べるとして、「ミマキヒメ」は大彦(大毘古)の娘とされている。大毘古は孝元天皇の皇子であるから、崇神天皇にとっては大彦が義理の父となり、孝元天皇は外祖父となる。そして、大彦は垂仁天皇の外祖父となる。

 しかし、崇神天皇が天皇となるためには「ミマキヒメ」はその前の天皇の娘でなければならない。つまり、大彦が天皇ではないから当時の天皇であった開化天皇の娘であるはず。ところがそうではない。そこに謎がある。

 実際には、崇神天皇は生前には天皇に即位してはいなかったともいわれる。近年では天智天皇の子である大友皇子が実際には即位したかどうか定かではないのに歴代天皇に列せられ、第39代弘文天皇となっている。それと同様のことが起こり、そこで政権交代が起こり、実際に天皇に即位した垂仁天皇が父である「ミマキイリヒコイニエ」を先代の天皇にしたのであった。

 つまり、政権交代によって天皇になった垂仁天皇は、開化天皇の娘であるサホヒメ(開化天皇の孫となっている)と開化天皇の孫であるヒバスヒメ(開化天皇の曾孫となっている)を娶り、開化天皇から皇位を継いだはずである。そしてその後、父である「ミマキイリヒコイニエ」を第10代崇神天皇としたのであった。ここに“崇神”の意味がある。天皇になったときには実際にはすでに死んでいたのであった。文武天皇より前の歴代天皇の漢風諡号を考えたのは弘文天皇の曾孫である淡海御船といわれる。彼は内情をよく知っていて各天皇に合った漢風諡号を付けているといわれる。

 ここである矛盾に気づかなければならない。垂仁天皇が父である「ミマキイリヒコイニエ」を第10代崇神天皇とするためには、実際に居たはずの第10代天皇を居なかったことにしなければならないことに。ここにも謎がある。

 実際の第10代天皇は日子坐王であったはずである。そうであるからこそサホヒメは日子坐王の娘であり、開化天皇の娘ではなかった。そして、ヒバスヒメは開化天皇のひ孫であって日子坐王の孫であり、丹波道主の娘であった。

 では、卑弥呼とはだれなのか?


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