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生きづらい社会で、好きなことをやりながら幸福に生きるにはこう考えればいいのではないか(社会人と自然人)

人間の脳は左右別れており、左脳は分析的で理論的、右脳は感覚的、直感的に判断する機能を担っていると言われている。

僕らはその左右の機能をうまく使いながら生きているわけだが、左脳と右脳をつなぐ部分が損傷してしまっている「分離脳」の人もいるらしい。その人の実験が実に興味深かった。

分離脳の人が、外出の支度を始めた。ところが、履こうとした靴下が履けない。彼の右手が靴下を履こうとするのに対し、左手が脱がそうとするらしいのだ。

その理由は、「約束のために外出しなくてはいけない」という理論的な左脳と、「行く気分になれない」直感的な右脳が、それぞれ繋がっている手を動かしてしまい、履きながら脱ぐという、「一人じゃんけん状態」になってしまった、とのこと。

■「自分」の中には、二人の自分がいる

分離脳の実験のように極端でなくとも、「人間の中には、二人の自分がいる」と考えたほうが、何かと都合がいいのではないだろうか。

「社会人」の自分と、「自然人」の自分だ。それぞれの機能・特徴は下記になる。

社会人
・理論的にものを考え、意識の世界に生きている。
・言語化しないと理解できない。

自然人
・感覚的、直感的で、無意識の世界に生きている
・感じていることを言語化できない。

僕らは普段は社会人として生きているが、その背後には自然人の自分がいて、常に影響を及ぼし合っている。

■社会人は便利だけどバグが多すぎる

「自然人」はどの動物にもある原始的な存在であり、「社会人」は人間だけがもっている高等な存在と言われる。

外部からの刺激に脊髄反射して生きる動物に対し、人間は言語で世界を概念的に理解し、最適な行動をとることによって生き延びやすくなった。しかし「社会人」には、言語によって理解している分、言語化する過程で多くのバグを発生させてしまう。

自然を言語化するために、不明な部分はすべて「神」というユーティリティープレイヤーを登場させて無理やりこじつけたり、天国や地獄を作り出して、死後の世界すら意識化することで、人間の行いの因果に決着をつけようとしてしまうのも人間だけだろう。そうしないと社会人の人間は我慢ができないのだ。

そもそも善人だろうが悪人だろうが、死ぬ時は死ぬし、何が起こっても受け入れるしかないのが自然である。そこに理屈なんてなく、動物はすぐに適応するが、人間だけが、それを整合する理論を無理やりにでも作り上げないと、受け入れることができないのだ。

自然という複雑性を、言語によってカバーすることは不可能である。にも関わらず、言語でしか理解ができない社会人は、その欠陥に理屈をこじつけて世界をわかったような気になっている。浅はかであるが、「社会人」は人間である以上、誰の中にもいるし、僕らは逃れることができない。

そのバグによって、社会人の人間は悩み苦しみ、挙句の果てには殺し合いまでしてしまう。意識という能力があるおかげで、人類は繁栄したが、その副作用による苦しみは、今も昔も変わらない。

■自然人は自分の幸福がわかるが言語化できない

意識という氷山の一角に対し、無意識という広大な世界が、人間の奥底には広がっていて、そこが僕らの「自然人」が存在する領域である。

自然人は、人体の内部と外部による均衡から、自分のあるべき状態を感じ取り、体に伝える役割がある。

自分が何が好きで、何に心地いいと感じるか(逆の感情も然り)がわかるのは自然人のほうで、自分の幸福や、どう生きるべきかの答えがわかるのも自然人だ。

しかし悲しいかな、自然人はそれを言語化できないので、社会人の自分にうまく伝達できない。ゆえに普段社会人で生きている僕らは、よく間違えるのだ。

自分の幸福や、好きなもの、「自分に合っている」と思われるものを僕らは何となく知っているが、それを言語で説明することができない。

例えば僕は子どもの頃から黄色が好きなのだが、なぜ黄色が好きなのか、説明することはできない。「好きなのだから仕方ない」と受け入れるしかない。まさにそれが自然人の領域で、受け入れるしかないものが「自然」である。

にも関わらず、「幸せとは何か」などと、社会人は言語で考えようとしてしまうから、いつまでたっても「迷える子羊」から抜け出せない。

幸せは状態であって、定型フォーマットのように普遍化できるものではない。幸せや心地よさは自然人の領域であると思って、考えるのは諦めたほうがいいし、ひと時であっても、心安らかな気分になれたなら、ただそれを肯定し、感謝すればいいのではないか。

そしてそれらの言語化できない「良い気分」や「楽しい気持ち」の中に、自然人からのメッセージ、すなわち自分の向かうべき道しるべのヒントがあることは覚えておきたい。

本当に大切なものは目に見えない、と書いたのはサン・テグジュペリだが、実際は目に見えなければ、言語で理解することもできないのだろう。

大切なものは考えるものではなく、感じるもの。そういう態度が自然人との付き合いの原則である。そして人間の「本体」は自然人のほうであり、社会人の自分は、そこから顔を覗かせている、氷山の一角のような存在に過ぎない。

■社会人は快楽しかわからない

ではなぜ、社会人の自分が幸せを言語化できるかのように勘違いしてしまうのか。それはおそらく、快楽と幸せの区別ができていないからではないかと推測している。基本的に社会人は快楽しかわからないのだ。

社会には、アイコン的に共有可能な、「幸せ的なもの」で溢れている。お金、豪華な家、ファッション、食事、そしてそれに対する、人からの評価だ。その手の幸福っぽく盛り付けられた「快楽アイコン」は、SNSを見れば嫌というほど目に入ってくる。

快楽は一時的にはよくても、長期的には害悪にしかならないことは、誰でもわかっているはずだ。しかし社会人は他者からの評価が何よりの報酬のため、快楽を幸せと勘違いしてしまう。

ゆえに、上記のようなアイコンが「成功」と呼ばれ、目の前にニンジンを吊るされた馬のように、虚像に向かって迷走し続けるのだ。そこで脳内に放出されるのは、セロトニンではなく、ドーパミンのほうだろう。

社会人は、社会的に有利なポジションをとることにしかインセンティブを感じられない。ゆえに他人と比べたり、他人にどう見られるかが自分の価値のように勘違いしてしまい、何ら本質的ではない社会的な競争の中毒になってしまう。本当の自分の気持ちなどお構いなしである。

そんな迷走馬が合言葉のように「自分らしい生き方」などというのだから、もはやコメディだ。その舞台裏で自然人は、憮然としながら哀れなコメディアンを見つめていることだろう。

■夢が叶っても幸せにはなれない理由

「夢」という概念も、社会人が考える、快楽アイコンの一つだ。夢を持つ大切さを説き、あたかも夢を叶えること=幸せ、という図式を世間は持っているようだが、夢と幸せは完全に別物だと考えたほうがいい。

僕自身、子どもの頃から物を作る仕事で食えたらいいと思っていたので、職業的には「夢が叶った組」ではあるが、それで幸せになるどころか、むしろ苦しいことのほうが圧倒的に多くなった。これは作家だろうと、スポーツ選手であろうと、同じだろう。

僕は物を作る行為そのものが好きわけで、サッカー選手はサッカーをする行為そのものが好きだったはずだ。しかしその行為を社会化した途端、ノルマや周囲の評価という、思うに任せぬ要素に翻弄されることになる。

それによって自然人として親しんでいた行為は、社会人として取り組まざるを得なくなる。お金を稼いだり、勝利することが目的化され、仮にその目的が達成されたとしても、けっきょくは幸せよりも快楽に回収されてしまう。

例えオリンピックで金メダルをとったとしても、一時的な快楽は得られても、その後の幸福が約束されることはない。夢と幸せは別物だからだ。

そして夢は、叶えば叶うほど、大成功したり、スケールすればするほど、社会的要求の圧力が強まり、本来の「好きなこと」との歪みが大きくなっていく。ゆえに夢と幸せとのバランスをとるには、工夫が必要になる。

■自分の中の「好きなこと」を守る方法

好きなことが社会化されたことにより嫌いになってしまい、自ら脱落していく人も少なくない。そうならないためには、自然人と社会人が担う役割をきちんと区別したほうがいい。

仕事に対して、今自分は自然人として対応してるのか、社会人として対応してるのかを、その都度意識するのだ。

お金のあるクリエイターや、プロダクションは、その役割を人的に分担して取り組んでいる。ギャラの交渉から、スケジュール管理、諸問題の法的な対応など、いわゆる社会的な部分は、マネージャーや代理人に任せ、クリエイターは作ることに集中できる。

好きなことを仕事にすると、それに値段をつけたり、クライアントと交渉することが苦しくなる。そういう作る以外の行為は、自分の好きなことを汚しているような気分になるのだ。おそらく好きなことにピュアに取り組めていた、自然人の自分を守りたいからだろう。

しかしプロという「市場」に出て活動する以上、数字や評価からは逃れられないし、世の中善人ばかりがいるわけではない。他人の評価は常に無責任だし、時には不正に対処する必要も出てくるだろう。

ならばその手の、「汚れ仕事」はすべて社会人の自分にやらせ、今は「社会人として仕事をしている」と強く意識するのだ。そして自然人として対応できる「好きなこと」と線を引くことによって区別し、保護をする。要するに概念上の「一人プロダクション」である。

渋沢栄一氏は、「士魂商才」という言葉で、「武士の精神や誇り」と「商売」は両立できると説き、ビジネスに後ろ向きだった風潮を変えようとしたが、現代もその言葉は実に示唆深い。「士魂」と「商才」は、そのまま自然人と社会人の言葉に置き換えられる。僕らの中の「二人」は、両立して事に当たるべきなのだ。

■早くから社会人になってしまった人は自己肯定感が得られない

人間は自然人として生まれ、成長して社会人になっていく。子どもの頃が最も自然人でいられる時間であり、自然人の自分を育むのもこの期間である。

しかしながら、親が厳しすぎたり、習い事や受験など、早くから社会人になることを強制されてしまうと、自然人側の自分との「連絡通路」を失ってしまう。

これは大きな問題で、そういう人は、大人になってから自己肯定感の低さで苦しむことになる。彼らは、自然人側の自分の声を聞く能力が育たぬまま大人なってしまったので、自分を肯定することができない。

前述したように、社会から求められる価値と、自分が求める価値は別物であり、「自分はこれで良い」という承認は自然人からくるものである。ゆえに、いくら社会的にうまくいったとしても、本当に自分が何を求めているのかわからなければ、自分を肯定することはできない。

そんな社会人としてしか生きられない彼らは、社会的に足りない部分を埋めることで、肯定感や自信が得られると勘違いしているように見える。そしてそれができない自分を卑下し、どんなにがんばっても安心できない。

そんな肯定感へのラットレースで得られるのは、快楽と不安の繰り返しであり、本当の自信や安息はいつまでも地平線の向こうだ。

自己肯定感や承認欲求で悩んでる人は、耳を向ける方向を見直したほうがいい。本当の肯定感や承認は、自分の外側ではなく、内側からやってくる。幸福を望み、幸福を知っているのはあなた自身だ。逆に社会はあなたの幸福など関心はない。

■都市でうつ病や自殺が多い理由

けっきょくのところ、本来の自分とは自然人のほうの自分で、社会人は何かといえば、自然人という「本体」の上で、手綱を握って間違った方向に行かないように気を遣っている存在に過ぎない。

しかしながら、僕らは成長していく過程で、いつの間にか社会人的に生きることが良いことだと勘違いしてしまっている。常に合理的であることを善とし、説明可能なことしかしようとしない。そして社会的な快楽だけを追い求め、自然人である「本体」のことを忘れているのだ。

手綱を握っている社会人が何もかも決めていたら、本体である自然人はどう思うだろうか? 当然不快の声を上げるだろう。そしてその声を無視し続けていたらどうなるだろう? 自然人は気力をなくして動かなくなるだろう。

極度に社会化された都市のような場所で、うつ病や自殺が増えるのは、そうしたことが根本的な原因であるように思う。社会的には何不自由ないのに、精神的な病にかかってしまう人が少なくないのは、社会人のほうに傾倒し過ぎた結果なのだろう。

自分を肯定できるのは自然人のほうゆえ、自然人のメッセージを無視すれば、報いはどこかで必ず現れる。親に全否定された子どもが生きる気力をなくすように、社会人に無視された自然人は、どこかでスイッチを切るのだ。もう生きる価値がないと。

■アートと自然人の関係

ならば非言語な自然人の声をどう聞けばいいか。僕はそこで出てくるのが「アート」だと思う。

最近は現代アートが日本でも話題になってきたけれども、アートのような「何の役にも立たないもの」が、なぜ人間にとって価値があり、時に高額な値段で取引きされるのか? よく聞く疑問であるが、僕は逆説的に、アートは何の役にも立たないし、価値を言語化できないところに、最大の価値があるのではないかと思っている。

人工物の中で、唯一言語を通す必要のないもの、「自然人として」見ることができるものがアートだ。そこがデザインや工芸などの「価値が説明できるもの」と似て非なるところだろう。ある人にとっては何の価値もない物でも、別の人にとっては至高の物、そんな社会的な物差しが通用しないのがアートである。

アートは作品のみに限らない。理由は説明できないけれど、すごく好きなものや、愛着があって手放せないものは誰にでもあるだろう。そういうアートは、価値が説明可能なものの価値よりも上になってしまうどころか、それを守るために命をかけるようなこともしてしまう。おそらくそれは、無意識の自然人が共鳴しているからではないだろうか。

人は「役に立つもの」のみで生きることは無理で、そこには必ず「愛すべきもの」がなければならない。アートが、人類の歴史と深く結びつき続けているのは、アートが社会人と自然人をつなげるハブとして機能しているからだろう。社会人のロジックを超えたところにあるからこそ、アートはアートとして存在できるし、人間がいる限り、アートは存在し続けるに違いない。

■好きに理由はいらない

ならば、この世界をすべてアートとして見てみるのはどうだろうか。金額など、社会的な価値基準を完全に取っ払って、何の利害関係がなくとも、そのものが好きかどうか、自分に問いかけてみるのだ。

そうすれば自分が本当に好きもの、または価値があると思っていたけれど、実はあまり好きでないものが見えてくるだろう。

そして次に大事なことは、好きなことにいちいち理由や説明をつけないことだ。好きなら好きでよい。それだけでよい。逆に嫌いなら何も語らずにただ離れればよい。

社会人はいつも自分の感情や行動に、理由をつけて正当化したがる。自分のやっていることに、いちいち大義名分をつけたり、目標だとか成長のためだとか、無駄な飾りをつけて、見栄えをよくしようとしてしまう。

そうやって自然人が抱いた興味や好奇心を、社会人がつまらなくしてしまう。社会人は視野が狭くてケチだから、つい短期的な利益や快楽を求めてしまう。そういう時は心の中で「だまれ」とつぶやくといい。今は自然人の時間なのだと自分に言い聞かせるのだ。

とりあえず好きなことをやってみる、興味がある場所に行ってみる、魅力を感じた物を買ってみる。そこに目的も結果も求めず、何も得られなくても気にしない。ただ受け入れるのだ。

そのような態度こそ、自然人の自分に対する嗜みであり、その中で自分が本当に何か好きで、何が幸せなのか、おぼろげにでも肌感覚でわかってくるのだろうと思う。そしてそれらの何気ない行為が、ある時突然、点と点がむずばれるように形になって現れたりするから人生は面白い。

■自然人と社会人は車の両輪

自然は基本的に受け入れるしかないものだ。雨が降ってきても、寒くても、受け入れるしかない。傘をさしたり、服で調整することはできても、雨を止めたり、気温を上げたりはできない。そして今日の天気に理屈を問うても仕方がない。

それは自然人の自分に対しても同じで、好きなことも、嫌いなことも、ただ受け入れるしかない。社会人の自分ができることは、そんな自然人が事故に合わないように手綱を取り、社会の中でうまく彼らを生かすことだろう。

現代人が迷い多いのは、社会人と自然人が二項対立のように考えられているからではないかと思う。先ほども触れたように、好きなことを仕事にすると、「好きなこと」と「金儲け」の間で葛藤することになる。

同じように、「自由に生きるべき」というイデオロギーと、「それでも生活のために真面目に生きないといけない」という現実が対立し、頭の中で整理ができていない人が多いように思う。世の中に数多ある生き方や幸福に関する記事を見ても、社会人と自然人の価値がごちゃ混ぜになっていたり、極端に偏っていたりするものが多い。

僕らは好きなことだけで自由に生きていくことなどできないし、だからといって合理性やコスパだけを追求すれば、焦燥感や不安に駆られ続ける人生になるだろう。

自然人と社会人は車の両輪であり、どちらが抜けても真っ直ぐに進めない。僕らに必要なのは、双方の役割を理解し、うまく使い分けることだろう。

自分の中に二人の自分が存在するという論は、いささか乱暴であるとは思うが、社会人という意識の世界に生きている僕らは、そのくらい考えないと、無意識の自然人の存在に気付けない。

僕らの中の社会人と自然人は、表裏一体の存在なのだ。二人で役割を果たさなければならない。おそらく幸福は、その共同作業の過程に感じられる、静かな満足感や心地よさのようなものなのではないだろうか。


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