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蒸し暑い夏の夜は大麻でもひと舐め 1/2

「もう半分/五勺酒(ごしゃくざけ)」

人は想像し、創造する生き物だ。これは大麻好き、というよりも酒好きの〈仮説〉提示だ。エビデンスについてさまざま言われることが多い世相ではあるけれども、仮説無しに実証も検証も定説も存在しない。仮説の否定は想像力の欠如であり人の進歩や歴史、研究の否定、あるいは冒涜ですらある。
そして仮説だけでなく定説となっている事柄や事象すらも実は間違っていたということも多々あるのだ。それは単純に科学の進歩によるものでもあるだろうし、思い込みや思い入れの深さ故の間違いということもある。
この仮説は「油じゃ酔わないよなぁ」という疑問からスタートし提示するものだ。

〈涼〉を求める日本人

ビールの美味しい季節だ。
キンキンに冷やしたビールは一口目が美味しく、「ブフぁー、シャキーン」となるのはアルコールが身体に染み渡る前の、なんの作用なんだか良くはわからない脳内麻薬の作用だけれど、とにかく一口目のビールは格別だ。
それはともかく、蒸し暑い夏、日本人は五感、あるいは六感を駆使して〈涼〉を求めてきた。それは風鈴の音色でもあったろうし、朝顔でもあった。怪談噺もそのひとつだ。肝を冷やすことで涼をとってきた日本の伝統は、今でも花火とともにお化け屋敷などが夏のイメージのひとつでもあることからも窺い知ることができる。

江戸時代は畠中恵の描いた『しゃばけ』シリーズを例に出すまでもなく、神様や妖怪、そして幽霊たち、言うなれば幽界と常世、生と死がすぐ隣り合わせで融合していたともいえる時代だ。江戸城下でも幽霊たちは時には恨めしそうに、時にはユーモアたっぷりに江戸の街中を彷徨い、人々の前に現れた。そしてときには気紛れで人助けをしたり、ときには怨霊となって人に取り憑いた。そしてときには神になったり、なり損ねたりした。日本全国に目を向けても、共通の、そしてローカル色豊かな神様や妖怪、そして幽霊たちと人の交流が溢れ、花開いた時代が江戸時代だった。

〈油を好む妖怪たち〉

そんな江戸の文化を彩る妖怪たちの中には油を好む妖怪たちもいた。代表的な例が「化け猫」の類だろう。江戸後期から明治時代にかけて流行した歌舞伎の演目、「猫騒動物(ねこそうどうもの)」も化け猫を一躍「時の人」ならぬ「時の猫」として印象付けたことだろう。しかし、なぜ化け猫が油を舐めるのか、諸説あるが、そのひとつに江戸時代の食事にあるといわれている。米や麦、芋などの穀物類と野菜類などを中心とした質素な食環境の中で猫たちは動物性タンパク質や脂質が足りず、それを補うために行灯の油を舐めていた、という説だ。特に魚油を好んだ。二足になって行燈を覗き込み、油を舐める姿が行灯の光で影として揺らめき妖怪のように見えたという。『和漢三才図会』にも「猫が油を舐めることは怪異の兆候」という記載があり、また『食卓の文化誌』(石毛直道 著)でも猫が油を舐めた理由として詳しい解説がある。

さて、『もう半分』は江戸時代の文献などをもとにつくられた初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)の怪談噺だ。圓朝は『昭和元禄落語心中』のモデルのひとりであり、「死神」「怪談 牡丹灯籠」など古典落語の原作者、落語の世界では中興の祖といわれる江戸時代末期から明治の時代に活躍した落語家だ。そして、彼の作品のひとつ『もう半分』は江戸の永代橋のたもとで注ぎ酒屋(飲み屋)を営む一軒の店を舞台に描かれていく。圓朝の高座を見たことは無いけれども、縁あってある夏の夜に、春風亭正太郎 / 古今亭志ん吉という新進気鋭の二人の噺家が大麻100%蚊帳の中で「死神」、そして今回取り上げる「もう半分」を話してくれたことがある。

〈ある夫婦が永代橋のたもとで小さな注ぎ酒屋を営んでいた。そこへ、行商の老人が毎晩やって来ては1合の半分、5勺だけの酒を注文し、それを飲み終わると「もう半分」とまた5勺の酒を注文して呑む。ある日老人は店に風呂敷包みを置き忘れたまま店を出る。店主が包みを開くと50両もの大金。「娘が吉原へ身を売って作ってくれた金だ」という老人に注ぎ屋夫婦は知らぬ存ぜぬの態度を貫く。落胆して店を出た老人は橋から川へ身を投げる。50両を元手に店を広げた酒屋夫婦に赤ん坊が生まれる。生まれてきた赤ん坊の頭は白髪で覆われ、その顔は、かつて身を投げた老人そっくり。妻はショックのあまり寝込み、そのまま死んでしまう。店主は「子供を育てることが老人の供養になる」と乳母を雇うが、つぎつぎと辞めてしまう。店主は乳母と赤ん坊が寝ている隣の部屋に隠れて、様子をうかがうと、丑三つ時、寝ていた赤ん坊が急に起きあがり、枕元の行灯の下に置いてある油さしから静かに油を茶碗に注ぎ、それをうまそうに飲み干す。
店主は「おのれ爺(じじい)、迷ったか!」と叫び、部屋へ飛び込む。赤ん坊は茶碗を差し出し、一言、「もう半分」。〉

(Wikipedia /https://ja.wikipedia.org/wiki/もう半分)より抜粋改編。

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さて、「もう半分」の世界は妖怪油舐めや化け猫などと混合されがちだが、酒に意地汚い、娘を遊郭に売り払った金で、そして死んだ後までも老人が赤子に乗り移ってまで呑みたかったものとはなんだろうか。それはもちろん酒だろう。そしてその酒の代わりに夜な夜な呑んでいたものが油?それもDHA?カルシウム?オメガ3・6・9?各種ビタミン群?の不足を補うための魚油なのだろうか。猫が舐めるのではない。酒好きの爺さんが化けてまで舐めるのだ。それが魚油ではちょっと無理があるのではないだろうか。油酔いはするのだろうけれども酒酔いは難しいのではないだろうか。

〈「もう半分」は大麻油の物語〉

酒の味を求めて油を呑む事はないだろう。僕自身、20代前半、あまりの酒の欲しさに「養命酒」や今流行りのエタノール酒に手を出したことはあるけれども、酒欲しさにサラダ油やゴマ油に手を伸ばしたことはない。みりんや料理酒にも手は伸びなかった。僕がそうだったように老人が求めていたのはアルコールによるまどろみ、酩酊作用に違いない。ならば、酔うために酒の代わりに油をすする理由が必要だ。きっと、多分、もしかして、もしかしたら、、、その油に何か酒の代わりになる、アルコールの代わりになる何かしらの成分が含まれていたのではないかと想像してしまうのは僕だけだろうか。いや、まどろこしい表現はやめよう、入っていたのは大麻、大麻油だったのではないだろうか。類推すると、「もう半分」は魚油の物語ではなく大麻油の物語なのだ。大麻でなければ『もう半分」の物語は破綻し、成立しない。

江戸時代、大麻の酩酊作用については都市部ではないにしろ、収穫時の「麻酔い」という言葉をはじめ「蚊遣り」として虫除けに大麻の生葉をいぶした例などがある。それでも酒やタバコ、茶などの嗜好品を好んできた多くの日本人にとって大麻は嗜好品ではなく繊維であり、嗜好品として広く知られていた証拠はまだ無い。意地悪くいえば、酒に汚い爺さんが赤子に乗り移ってまで、そして酒の代わりに仕方なく摂取したのが大麻であり、飲んでいるのが大麻油だ。江戸の庶民が大麻を好んでいるのではないことは明記しておきたい。
ただし、妖怪のせいにしてちょっと拝借する人がいたかもしれないが、それはわからない。酒好きが酒の代わりに油を舐めることがすんなり受け入れられないと落語にはならないから、最低でも明治初期の落語ファンはこの「もう半分」に登場する油がなんであるのかはうっすらとでも知っていたに違いないと思うのは僕だけだろうか。行灯がより身近にあった時代だ。さらに余談だけれども、オメガ3・6のバランスが良く、THCやCBD、そしてテルペンが豊富な大麻油とはいえ、油の飲み過ぎは身体に悪そうだ。

ちなみに、「もう半分」が完成したのは江戸末期から明治にかけて。一口に江戸文化といっても前半と後半では歴史の連続性を考慮しても300年以上の開きがある。かなり違ったものであることは確かだ。油の精製技術の進歩が日本の文化形成にどのような影響を与えたかは「油屋ドットコム(http://www.abura-ya.com/index.html)に詳しい。精製技術が発達する前の魚油と発達後の魚油の匂いはまったく違ったものだろう。(2/2へ続く)

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