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【連載】「こころの処方箋」を読む~5 「理解ある親」をもつ子はたまらない

ここで大切なのは、「理解ある親」とかっこ書きになっていることである。
河合はこの文章で、理解のある「ふり」をしている親について述べている。

理解ある親というのは、どんな親なのだろうか。これは、理解ある教師とか、理解ある上司とか、そんな上の立場にある存在にも共通しているかもしれない。

何をもって下の立場にある存在を「理解」しているかというのは、非常に難しい問題である。

人のこころが理解できないように、人の行動や考えを「理解」などできようがない。それでも「理解ある」というのは、嘘である。


一方で、誰かに「理解してもらえた」と思う瞬間もあるのも確かである。それはその全てを理解してもらえたというのではなく、ある一点において理解してもらえたということだ。

それさえも、職人による神業か、偶然に偶然が重なっての、奇跡的な現象にすぎない。そう日常の中で訪れるものではない。


では、なぜ親などの、上の立場にある人達は、理解ある「ふり」をするのか。それに対して、河合は衝突を回避するためだと述べている。

人は時に衝突するものである。特に子どもは、その成長の過程で衝突することで、成長する側面がある。だから親は子どもと衝突したり、子どもが何かと衝突する様子を見守ったりすることで、子ども成長を支える。

ところが、親が理解ある「ふり」をすることで、そのような衝突を避けてしまうというのである。その結果、衝突できない子どもが、何らかの困難を抱える。

これは例えば教師であったり上司であったりしても同じである。そこにあってしかるべき衝突を避けてしまう心性がそこにはあるだろう。

その理由について河合は、親が「自分の生き方に自信がないこと」や、「自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないこと」をごまかすためだと述べている。大変に手厳しい。


ここであげられている困難もまた興味深い。ここで河合があげているのは、下着盗みの例である。

河合は「性ということは、思いの他にいろいろな意味合いをもっている。」と述べ、下着盗みをした意味をそう単純には捉えられないとしている。

性が関係する問題は、それが果たして問題であるのかどうかも含め、非常に奥深く、複雑で、興味深いものとして捉えられる。

性が関係する問題を単純に公序良俗に反する問題行動と捉え、「性犯罪」の名のもとに罰する姿勢は、特に子どもにおいては適さないことも多い。

これは性教育の必要もそうであるが、それ以上に、性が関係する問題の背後にあるものを見つめることの大切さもまた、我々は知っておかねばならない。


性に関する話で少し広げてみると、包括的性教育というものがある。これは、性教育として生殖の知識だけを学習するのではなく、生き方や人権、自分らしさや社会におけるジェンダーについてなど、さまざまな観点から性教育を行っていくという学習のことである。

これはまさしく、性というものが非常に多義的で、文化的・社会的な側面も大きいことがわかる。個人の内面に深く関わる部分であり、パートナーシップや法制度などの社会に開かれたものでもある。

このような性に関わる教育の推進によって、自身の性と向き合い、パートナーや周りの人の性と向き合い、社会における性と向き合う機会を得ることができる。

そのような学習プロセスを経ることで、下着盗みをするという他者に迷惑をかけるような行為に至ることを予防できるかもしれない。または、下着盗みをした際にも、その捉え方が変わってくるかもしれない。その背景にある課題に目を向けない限り、表面的な罰は必ずしも効果を及ぼさないのである。


昔も今も、親子の衝突がある家庭もあれば、衝突があまり観測できない家庭もある。このうちの、衝突があまり観測できない家庭については、もしかしたら親が「理解ある親」の「ふり」をしているかもしれない。そんな視点に立つことで、見えてくる課題もあるかもしれない。





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