【連載】「こころの処方箋」を読む~7 日本人としての自覚が国際性を高める
自分がどこに根を下ろすのか。それはとても大切な問いである。
幼い頃は、自分の家が、自分の学校が自分の根を下ろす場所だと疑いもしなかった。
しかし、いったん思春期を迎えると、どうもそれが怪しいことがわかってきた。自分にあったはずの根は、まだ宙にぷかぷかと浮かんでいるようなもので、全く地に足ついてなどいなかったのだ。
そうして、根を下ろす場所を探し続けている。
私は山形県出身で、三十五歳までを山形の地で過ごした。
しかし、どこか根無し草の感がずっと強かった。
言葉の問題もある。私自身は山形生まれ山形育ちの純正山形県人なのだが、不思議と方言は馴染まなかった。友人の会話を聞き取れはしても、方言で話すことはできなかった。
同じような環境で育った弟は方言を操れたのだから、原因が今一つわからない。
自分の仮説としては、本に親しんでいたことがあるのではないか。本には基本的に方言はない。幼い頃から本に親しんでいた私は、本の言葉に親しみ、その影響を強く受けたのではないか。
かといって、日常で家族や友人と会話がなかったわけでもないので、よくわからない。
その後、縁があって新潟に足しげく通うことになる。
不思議と新潟は落ち着く場所だった。なぜかわからないが、そこに違和感がなかった。山形にいるときにずっとあるノイズのようなもの、心の中にある微妙なズレのようなものが、ほとんど感じられず、感覚がとてもクリアになった。
だから、新潟に移住することを考えていた。
だが、その新潟にも足しげく通ったのち、ふと、もう大丈夫かもしれないと思った。もちろん、新潟が居心地の良い場所で、クリアにいられる場所なのだけれども、もう次の場所に向かうべきだという感覚があった。
「ワンピース」に、「ログポース」というコンパスが出てくる。
いろいろな種類があるが、基本的には、ある島で一定時間を過ごすと、次に行くべき島を指し示すようになるというコンパスである。
その感覚がとてもしっくりくる。
私の中にある「ログポース」が、次の場所へ行くべき段階が来たのだと告げていた。
足しげく通った結果、新潟で過ごすべき刻は満ちたのだ。
そして、山形から東京へ移動することにした。そこには、帰る場所としての新潟の存在は大きい。
私にとって山形は根を下ろした場所であることは確かで、新潟もまた根を下ろした場所であることが確かな場所である。そして今広い東京の中に、根を下ろす場所が少しずつ増えている。
東京は移動が楽なので、各駅、各町に縁が生まれていく。それがとても心地よい。一つひとつ、懐かしい場所が増えていく。
人によっては、ひとところに留まって、深く深く根を下ろすことで、良く生きることができるのかもしれない。
だが私は、少しずつ根を広げ、時には全く関係のないところに種を飛ばしながら、愛おしい場所を増やしていく方が向いているのかもしれない。
また一方で、そのどれもが、通過点であるような気もしている。根を下ろした場所にずっと留まるのではなく、その根っこを引っこ抜いてでも、新しい土地に向かう。そんなあり方が性に合っている。
そして意外にも、自分が半永久的に落ち着けるような場所を探しているのもまた事実なのだ。
根を下ろすのは場所だけではない。
仕事についても、表現活動についても同じである。
そのどれもが通過点である。どこかにノイズを感じながら、ノイズが大きい場所を離れ、新しい場所に移っていく。
そこが一つの根であることは確かである。学校だったり、打楽器だったり、吹奏楽だったり、自分の中で根を深く下ろしているものはたくさんある。
しかし、そこに頼りたくないのだ。その根を深く下ろすよりも、そこから根を広げていきたいという意識が強い。
それは一方で、それだけ根が深く下ろされているということでもある。反発しながらも、そこに根があるからこそ、広げていけるのだ。
河合が生きた時代とは、「国際」という考え方も、実態も大きく変わった。さまざまなルーツを持った人が身近に存在する。国内外の行き来も物理的にも、遠隔でもしやすくなった。
そんな時代にあって、河合の指摘するような、日本人の優れていることを誇りそれを外国人には理解できないとする立場や、人間はみな全て同じだとする立場のように、極端な立場に振れることは少なくなったのではないか。
それでも、自分の根の課題は、我々に未だに課されている。それはそもそも、国際とかそういった場面以前にあるものである。これらは多分に社会的なものでありつつも、本質的にはパーソナルなものであるからだ。
移り行く社会の中にあっても、変わらず我々が向き合わなければならない課題である。
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