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【新連載】「こころの処方箋」を読む~1 人の心などわかるはずがない

「人の心などわかるはずがない」

これは私の教員人生の中でも、特に共感したことであり、同時に繰り返し自分に言い聞かせる言葉でもある。


教師にとって最も大事にされることの一つに「生徒理解」がある。例えば、授業を行うにしても、まずは「生徒理解」から始まる。

2次方程式の単元を扱う際には、まずは対象となる生徒のレディネス、つまりは現段階でどのようなことを学んできていて、そのうちどのあたりのことが理解できているのかを知る。1次方程式は学んでいるのか、グラフを作成することはできるか、といったことを把握した上で、どのように2次方程式を扱っていくのかを考えていく。

特に単元について柔軟に設定できる現代文分野の場合には、そのときの生徒とどのような文章との出会いが必要だろうか、どのような学習活動がふさわしいだろうかということを、生徒の今の状態とこれまでの経緯、今後の展望を踏まえて設定していく。

全ては生徒を理解しようとする姿勢から始まる。このような観点のことを、「生徒観」といったりする。


ここで大事なのは、教師による「生徒観」や「生徒の姿」なのであって、「生徒の実態」そのものではないということである。ここには、あくまで教師の主観によるものであることが戒められている。

教師は常に、生徒の実態を捉えようとする一方で、それでもなお捉えきれない部分があることを認識し、その見えない部分を含めて生徒に向き合っていくのである。


これはもちろん教科教育外でも基本的な姿勢として必要なことである。特に、問題行動とされる行動に対しては、その「問題」の部分にだけ着目することはない。こちらから見えていない部分にも思いをはせるのである。

それでも、時には生徒をわかったつもりになってしまうことも少なくない。ついつい、いつも笑顔で元気な生徒は、笑顔で元気な生徒だとステレオタイプに決めつけてしまう。分類してしまう。いつも忘れ物ばかりする生徒は、忘れ物ばかりする生徒だと決めつけてしまう。分類してしまう。

ある程度そのようなことが生じてしまうのが人間の性質なのだが、そこに抗おうとするのが、教師として求められる専門性なのである。

特に、人のこころは流動的で移ろいやすく、まだ見えていない部分がはるかに大きいのである。だから、「人のこころなどわかるはずがない」というのは当然のことであり、教育臨床の専門家にとっては常に心に留めておきたいことである。


また、河合は最後に「未知の可能性」に注目することにも触れている。この「可能性」に注目することは、河合先生のユング心理学の一つのキーワードになる部分でもある。

生徒のまだ見えていない「可能性」に注目する。生徒のこころの領域の中の、教師からも、本人からもまだ見えていない「可能性」を想定することで、教師としての姿勢は大きく変わってくるはずである。





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