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わけのわからない人を目指して

僕は、「わけのわからない人」と評価されると、嬉しくなる。いろんなことをやっていて、かつ、それぞれがよくわからないことだから、時々そのように評価される。

今日は、初めてお会いした方からは「どういう人だろうという分からなさが興味でもありました」というありがたいお言葉をいただき、親しい(と思っている)バーのマスターからは、「手を広げすぎてよくわからない」と言われてほくそえんだ。

まず、第一に、いろんなことをやっているということがある。活動内容だけでも、エッセイ、詩、教育活動、ポッドキャスト、木琴、抽象画、舞踏、作曲と様々。それに加え、教員としても、高等学校から始まり、塾や少年院、日本語学校と、どうもまとまりに欠けるような気もする。肩書きにしたら、いくつあるのかわからない。

だが、当人としては全てがゆるやかにつながっているものであり、全てが自分のたたずまいの一つだ。一人の人間を多面的に切り取ったにすぎない。その中心にある僕は僕でしかなく、それらが別々に存在するわけではない。そこに通底する思想や思考、クセや好みははっきりしているし、どれも自分らしいなと思っている。そのどれもが、気負うほどのものではなく、専一に磨くものではない。おそらく中心にあるのは教育で、教育とはある種のたたずまいだと思うので、それが表現されただけなのだ。

観察しやすいものとしては、エッセイと詩、木琴と舞踏、木琴と抽象画、教育と作曲は明確につながりが感じられるだろう。ポッドキャストにあっては、明らかに教育の一環である。これらに共通点を見出すことは難しくはないはずだ。そしてまた、これらが全てどこかでつながっていることも伺える。従って、これらの表現を通して、僕という存在を立体的に仮想することもできる。ただ、それは後生の稀有な研究者が僕の研究をする上で検討すればよいことである。

ただ、僕の認識としては、一つの表現を専一に磨いた先にあるものを求めているというよりは、僕自身の探索活動を、多方面で展開しているに過ぎない。この世界の外へ、もしくは自分自身の内面へ、探索活動をしているに過ぎない。僕はこれを、なるべく長く続けていきたいと思っているし、長期戦だと思っている。広大な世界を探索するためには、世界や自分とことごとく向き合っていくしかないのだ。だから、僕の表現活動の中心には、探索がある。

その探索の媒体として選んだ表現達が、僕の周囲の環境においてはマイノリティーであることもまた、「わけのわからなさ」を生んでいる。例えば、コンテンポラリーなアプローチの即興演奏にしても、僕の世界観では決して特殊なものではない。むしろ、現代音楽の潮流では、古典的なアプローチだという演奏も多い。しかし、僕が所属するコミュニティーや、僕の知人、友人、関係者、身を置く社会においては、「わけのわからないもの」と認識されることも多い。ただ、僕の世界観では結構メジャーな方で、時には恥ずかしくなるくらい、こてっこてのアプローチに赤面している場面も多いのだ。こういった姿勢が、詩や、エッセイや、抽象画や、舞踏や、作曲でもなされているから、たちがわるい。

ただ、このようなアプローチこそが、この世界や自身の内面を探索する上で適したアプローチだと判断したので、選択しているのだ。僕は、基本的には誰かのために表現活動をしているのではない。あくまで、この世界と自身の内面とに対峙するための手段として、表現活動を行っているのだ。

一方で、観客を求めていないわけではない。確かに、自身の作品を手に取ってもらいたい、触れてもらいたいという思いもある。ただ、これは僕がどうこうできることではないと思っている。僕が生み出したものについて、誰がどのように受け取るか、どのような影響を受けるかなんて、コントロールできるものではないし、すべきではないと思っている。このあたりは、教育哲学の影響がみられる。この世界には、それをコントロールできるようなものもあるけれども、それは僕にとっては関心のない分野なのだ。

ただ、結果的に、仮に僕が大したものではないと思っていても、むしろくだらないものだと思っていても、それに価値を見出す存在は考えられるし、その感性を否定するべきではないと思っている。僕は僕自身の作品の価値を認めてもらうよりは、僕の作品が誰かにとって価値のあるものであったらいいなと思っている。それを決めるのは僕じゃない。

だから、僕はとにかく表現をし続けている。それが、どこかの、誰かにとって、価値のあるものになるかもしれないではないか。

前にもどこかで書いたと思うが、僕はあるとき、練習を始めたばかりのウクレレの演奏に救われたことがある。それは本人にとって満足のいくものではなかったかもしれない。客観的な評価が得られるものでもないかもしれない。けれども、そのときの僕にとっては、価値のあるものだったのだ。それこそが、表現の価値ではないか。クリエイターは、とにかく表現を生み出し、それをどこかの誰かが見つけて、勝手に救われたらいいではないか。それだけで、そこに、作品の意味はあるではないか。それを何かしらのモノサシを用いて、評価する必要はない。そのモノサシがいかに小さな世界のモノサシかを自覚すれば、そんなもの気にならないではないか。

そんな背景もあるものの、結局僕が今所属する社会では、このような僕のあり方を「わけのわからない人」と評価する場合がある。これは僕にとって嬉しいことである一方、実態としては決してそんな人ではないことが、恐れ多くもある。

なんだかんだ言っても、僕なりの美的感覚的モノサシというものもあって、その一つが「わけのわからないもの」なのだ。僕は、「わけのわかるもの」に魅力を感じない。受け取り手側としてはそういうものを摂取することもある。わかりやすく、食べやすいものを求めることもある。しかし、特に生み出す側としては、「わけのわからないもの」を生み出したいと思っている。「わけのわかるもの」は、確実に既存のものであるし、特に人々に認知されて、使い古されたものである。

岡本太郎も、草間彌生も、人々から愛されるようになってしまえば、そこに「わけのわからないもの」という魅力は失われてしまう。そのあたりに特に敏感であった岡本太郎の作品が、グッズ化され、商品化されて親しまれ、ついにはキャラクター化される皮肉を、僕は正視できない。僕は「わけのわからないもの」に魅力を感じるし、美的な魅力を感じる。自分が「わけのわかるもの」を生み出してしまうことへの失望を感じながらも、作品を生み出し続けている。それはもちろん、奇抜であるということではない。奇抜も、奇抜というテンプレートである。使い古されたクリシェである。

だから、「わけのわからないもの」を生み出すことは、僕の理想であるし、常にそのようなものを生み出していきたいと思っている。そして、結果的に、安易にカテゴライズされ、レッテルを貼られ、分類されることのないよう、「わけのわからない人」でもありたいと思っている。しかし、真の意味で「わけのわからない人」ではないのだ。身近な人たちはごまかせても、世界に目を向ければ、「そういうの、よくあるよね」に含まれてしまう。「そういう人、よくいるよね」に含まれてしまう。そう、結局は僕は、まだまだ「わけのわかる人」であり、「よくいる人」に過ぎないのだ。

だからこそ、「わけのわからない人」を目指していきたいという思いもある。少なくとも、僕の生きているうちには真の評価ができないような人物を目指していきたい。同時代の人には決して真意はつかめなかった、その価値を理解しきれなかったと言われるような作品を作っていけたらと願っている。

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