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芸術と政治 ~あいちトリエンナーレを終えて~

あいちトリエンナーレ閉幕ということで、愛知出身で愛知県在住の自分としては動向を観察していたのですが、この国際芸術祭で大きく目立ったのは政治的な現代アート作品でした。

この国際芸術祭で起きた事象として

・表現の不自由展というほぼ反日本的な自己反省を促す作品が多数展示され、それにともない電話での抗議が脅迫ととれるレベルで多数行われた事
・それに対するアーティスト達の自立した動きがあった事
・愛知県知事と名古屋市長の間で分断が起きた事
・終わり掛けに表現の不自由展が厳戒態勢で再開された事
・文化庁が予定していた公的資金を取り下げた事

細かい諸所の動きは割愛させてもらうとして、以上の事が大きな目立つ動きだったと感じています。
こうした動きは様々な展示を見に行っていますが経験としては初でした。

愛知県の芸術事情を自分の体感なりにお話しさせてもらいますと、基本的にギャラリーはそこそこの数があり、絵画大国と言われるような土地でした。
特に政治的な物を物凄く忌嫌う土地柄だったように思えます。
物を作るのが主で、アートパフォーマンスは珍しく、あったとして音楽やダンス、演劇という確立された物のみでした。
その中で音楽、ダンスはしっかりジャンルごとで分かれており、そこを踏み越える事は実験とされ、進歩的な作品を作る事が困難という土地柄です。

現実に自分の作品も、このような流れで見に来てくれる人を、、同じ場で展示するであろう展示作家との調整を、、隣の作品との調整をという、たわいのない政治をさせていただいたところ

「そんなもの芸術ではない!!」

と怒り出すような人も現実にいる土地です。
とにかく何かを動かせない、枠を踏み越える事ができない、考え方が塊が固まっていて、なにもどうしても変えられない、、
本当に難しさを日々常々感じていました。

今回あいちトリエンナーレ監督ジャーナリスト津田大介さんという事もあり、最初に挙げてられた男女平等も社会問題の一環で、こういった政治性の全くない、何も動かせない芸術のみの環境に手がようやく入るのか、と安心したのもつかの間、表現の不自由展は電話による抗議で3日で中止されるという事態でした。

原因としては自分の思う所では、芸術も含め、何かを動かすという政治性に対しまったく無頓着な芸術家たちが広めた日本型の癒し系アートと、現行海外で良く行われるリレーションシップ型アートと日本と海外で行われる地域アートのギャップ。
また、日本の経済の危うさと政治の舵取りの歪みなどが原因だったと思われます。
地域アートに関して言うと、日本型の地域アートは地域の活性化のために行われますが、今回言われていたドイツ、カッセルのドクメンタの様な地域アートは、国の罪への楔を打ちつけるもので、そこにもギャップが生じていると思います。

自分は音楽に携わる人間で、音楽を作る事を主に行っています。
なので、何かを作る上でどう政治と向き合うかという所に焦点を合わせたいと思っています。

アートにおける政治との関係で有名な例を挙げるとナチスドイツの行ったアートの政治化という物が挙げられます。

ヒトラーは元々画家で芸術家を目指すという野心を持っていた人でした。

ナチスが政権を取るに当たり彼が行ったのは芸術の政治的利用、芸術を利用した政治的プロパガンダを行うという物でした。

有名デザイナーに作らせた軍服や分かりやすい象徴シンボル、流れるような街宣スピーチとそれに伴う有名作曲家の荘厳な音楽、映像の利用、映画やテレビを使ったプロパガンダ、あまりにも整いすぎた動きをする軍など、美しさを前面に押す事で大衆の心を党に集めその政治を進めやすくしたという事があります。
また旧ソ連においてもレーニン共産党のプロパガンダとして行った社会主義リアリズムという動きがありました。

このように芸術はその性質上、利用をすればいくらでも効果を発揮できるほど絶対的に政治的な物を避けれる事ができません。

日本の芸術は明治維新後、アーネスト・フェノロサという東洋美術史家のアメリカ人を入れて復興してきました。
現状いわれる日本画の基礎はこのフェノロサが行ったものが大きくそのほとんどが日本人が作った物ではないそうです。
東京美術学校(現東京藝大)の設立に関わった岡倉天心は日本の芸術の性質をありのまま、天然である事という定義で進めました。

名古屋の性質は、まったくもってその教育そのままで、なにかを動かすというほんの少しの政治性も許されない場があるほどにありのまま、天然である事を体現していました。
芸術というのは世を逸脱した人間が作る、なにかよくわからないもの、魔法であるというどことなく浮世離れした発想。

名古屋が今後どうなるか、、というのはさっぱりわからないのですが少なからず芸術と政治とその関係性を知っておく必要は出てきたのではないでしょうか。
また、政治そのものを知る必要が出てきたとも言えます。
芸術家と言いつつ知らない間に政治活動家になっていたり、政治活動に芸術を利用できると思った政治家に取り込まれたり、、
こうした様々な事が起きて来るのではないかと思っています。
その付き合い方をどうしていくかを問われているのが現状だと思っています。
公金を文化庁から、、というのも必要でしょうがそれは政治でしかないと思っています。
日本が法治国家であるなら、法に基づいてそれを処理するべきでしょう。

その中で様々な物を見る中、一番心に残った言葉があります。
あいちトリエンナーレ出展作家であったパスカレ・ハンドロ、アレハンドロ・ホドロフスキーの著書サイコマジックの中にあった政治に関する言葉です。

芸術家は世界を変える必要があるが政治を通してではない。
どこかの党に所属する事は敵と味方で分断する事であって芸術ではない。
芸術は政治ではなく、政治を芸術化するべきであって、しかし芸術家は政治家になってはいけない。


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