文化とコードという考え方
芸術や文化を理解するということがどういうことか、というと「あるものをあるがまま」に需要すればいい、、
なぜなら芸術は世界中の誰とでも繋がれるユニバーサルな言語なのだから、、
というのは良く言われますが、実際のところ本当にそうかというと実際に本当に自国の芸術、文化から「本当に遠く」の他文化、芸術に触れる機会があった場合、たくさんの疑問を抱えるポイントになるでしょう。
芸術はその社会の文化と密接に接続されています。
例えば首刈り族の習慣は現代社会に生きている我々にはまず理解はできないですし、首長族はなんで首長くするの、と、、、
あの首輪もおそらく、その文化における芸術品の一部であるのは自明でしょう。
そして首が長い事が美しいとされています。
これらの部族だけがわかる文化を抱えていてそれが共有されているから、彼らや、それを知る人たちにとってそれが不自然ではなくなり、美しいものが美しいとされるわけです。
このように基本的に芸術を含め、文化というのは、人間同士が共有するお約束、いわゆるコードであると言えます。
よって社会においてそういったお約束、コードが共有されていることにより、その中で素晴らしいものとされた物がその社会や文化にとっても素晴らしいものになると言えます。
簡単にいうとキリスト教でも、その後の王様達でもそうです。
教会はとてつもなく荘厳ですし、王宮の壮麗さは素晴らしすぎて何も言えなくなるほどに飾られています。
その世界において主だった人達が美しいとする物の集大成です。
なので、そうした場所で美しいとされた美しさが現在に引き継がれ、その美しさを後に残す物として文化遺産に認定されていたりするのでしょう。
それゆえ何が素晴らしいとされるかはその社会に潜むお約束、コードを無意識でも意識的にでも理解しておく必要があります。
文化は社会から派生する習慣、コードであり、また芸術もその中でのお約束、コード言えるでしょう。
芸術において、様々なお約束がオペラやバレエ、演劇などにもあり、絵画、音楽などにもこうしたたくさんのお約束、コードが存在しているわけです。
巷ではよく分からないと言われてしまう現代アートやシアターダンスも、お約束の集大成であります。
日本でいうと能や茶道もお約束の集大成です。
時代劇でも水戸黄門が印籠を見せるシーンはクライマックスですよね、お約束のシーンです。
また、悪代官は、悪い商人とつるんでるのもバリエーションは様々にほぼお約束です。
そして、様々な芸術の歴史を辿るとたくさんのお約束とそのお約束の放棄にぶち当たリます。
例えば、音楽においてもたくさんのお約束がジャンルと呼ばれ様々な混じり合い方をしています。
絵画においても時代時代でお約束を放棄するとそれを見た批評家が「それは変だ!馬鹿にしてやるぜ!」としてつけた言葉がジャンルになってたりします、印象派とかキュビズムとかフォーヴィズムとかは批評家が馬鹿にしたときにつけた仇名みたいなものですね。
このように、いくつものお約束を乗り越えて、お約束を守れないもの、守ろうとしないものが新しいお約束を作り、またそれをぶち壊しお約束を作り続けることが文化を作って行くということになります。
こうしたお約束の結集こそが文化なわけです。
文化というのはコードの集大成。
また、昆虫などの他の生物や植物、自然もこうしたお約束、コードを抱えています。
それもおそらく広い意味で言えばこれらも文化と言えるのでしょう。
そして、自然の抱えるコードを理解したから人の社会が文明化したともいえます。
そうしたお約束、コードが理解できたことが人を長く生かしてきたとも言えるでしょう。
文化にはお約束やコードが存在しているわけです。
この先の未来、もし宇宙人に遭遇したとしたら、我々は、より未知のお約束、コードを受け入れるか受け入れないか、、ということを経験するのでしょう。
宇宙人ないし、グローバリズムの進む地球の中でのこと、こうした文化共存の時代、一体どういった受け取り方、流れができていくのかは私たちの経てきた経験が繋げていく、そういうことになっていくのでしょう。
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