見出し画像

サイエンスカフェで「新潟水俣病」

このnote記事は2015年7月25日にジュンク堂書店新潟店で開催された第87回サイエンスカフェにいがた「新潟にとって新潟水俣病とは?」の記録だ。


「新潟」と聞いたとき、日本海や米どころをイメージする人も多いだろう。僕も新潟に住んでいたいたときには、県外の方に「海鮮系が美味しいですよ」なんて新潟を紹介したりしていた。

新潟の文化を語る上で日本海は欠かせないのだが、川と共に歩んだ文化もある。新潟水俣病の被害を受けた阿賀野川流域には、川魚を食べる文化が根付いていた。漁業を営む方もたくさんいて、川魚は人々の重要なたんぱく源だったのだ。

阿賀野川の恵みと共に、平穏な暮らしをしていていた流域の人々に、新潟水俣病が襲い掛かった。

50年以上前に確認された“第二の水俣病”

新潟水俣病は“ 第二の水俣病”と言われる有機水銀由来の公害病だ。

原因は、阿賀野川の上流にあった旧昭和電工鹿瀬工場の工場排水だった。1965年に新潟水俣病が公式確認され、その後に行われた周辺地域の健康調査や環境(水銀)調査によって、旧昭和電工が原因企業であることが判明した。そして、1967年には第一次訴訟を起こす運びとなった。

新潟水俣病を発症した方々は、その病に苦しみながらも、周囲からの偏見、仕事や結婚などへの心配を理由に、隠し続ける人も多くいたそうだ。いや、今もいるのだろう。

周りの目を気にして、水俣病の症状を隠し続けている人がいるだろうこと。新潟水俣病患者であることの申請をしても、認めらない人々の存在。関連裁判が未だに継続していること。新潟水俣病によって生まれてしまった地域の分断。これらの事情が、新潟水俣病問題を現在進行形にしている。

※ちなみに、新潟水俣病は日本の四大公害(イタイイタイ病、水俣病、四日市ぜんそく、新潟水俣病)のうち公式確認の年代は最も遅い。一方で、訴訟を起こした年代は最も古い。つまり、発生から裁判までの期間が最も短いことになる。

サイエンスカフェで新潟水俣病に向き合い直す

2015年7月25日。土曜日。ジュンク堂書店新潟店にて、第87回サイエンスカフェにいがた「新潟にとって新潟水俣病とは?」が開催された。ゲストは、高野秀男さん(新潟水俣病共闘会議事務局長)、野中昌法さん(新潟大学教授)。このカフェの企画はサイエンスカフェにいがたを開催し続けている科学コミュニケータ-の本間善夫さん。僕はファシリテーターを務めた。

当日の様子。写真左が野中さん、写真中央が高野さん、写真右端は小林(本間善夫さん撮影)。

新潟水俣病公式確認50年の節目に、もう一度、新潟水俣病について考えよう、というのがその回のコンセプトだった。長きにわたり、新潟水俣病と現場で向き合ってきたお二人のお話は、とても濃密で貴重なものだった。

以下は、高野さん、野中さんの話を基に作成したサイエンスカフェの参加レポートだ。

高野秀男さんのお話

「(新潟)水俣病の病像をめぐる争いが続いている」と高野さんは言う。

もちろん、問題は裁判どうこうだけではない。認定申請、そして、その棄却などから生まれる地元での軋轢(金目当てや嘘つきなどと揶揄されることも)、または新潟水俣病に対する誤解からの偏見や差別。バラバラになってしまった地域や心。「それらのもやい直しが今なお行き届いていない」と高野さんは強調していた。

これついては、以下の高野さんへのインタビュー記事も参考になる。

「世間の目」が認定を遠ざける

メディアなどでは、病状が重篤な方が取り上げられがちだ。しかし、症状は千差万別。「世間のイメージ」が先行し、(重篤な患者さんと比べ)症状が比較的軽度の患者さんが軽視されてしまう、という問題も生まれている。

世間の目(差別や偏見)、仕事や結婚などを心配し、自身の症状を秘密にしていた患者さんがとても多かったという事実が明るみになっているのだ。そして、その事実は今もなお隠し続けている方の存在をも示唆しいる。無知によって、無意識に、人の心を傷つけてしまうことがあることを認識せねばならない、と感じた。

「阿賀野川流域全体の健康調査が必要」と高野さんは願っているが、現在のところ、大規模な健康調査の実現には至っていない。

高野さんが向き合う二つの“宿題”

さて、そもそも高野さんが新潟水俣病の問題に取り組むようになったきっかけは何だったのだろうか。高野さんは以下の二点を挙げてくれた。

一つは、患者の方に「これが水俣病でなければ何の病気なんだ」と問い掛けられた経験。そして、もう一つは「なぜ一方的に被害を受けた人たちが肩身の狭い思うをしなければいけないのか?」という許せない理不尽さ。高野さんは、この二つを“宿題”とし、今なお新潟水俣病と向き合っているのだ。

現場で語り継ぐ:新潟水俣病現地調査

高野さんを中心に新潟水俣病共闘会議は新潟水俣病の現場を紹介するツアーを毎年企画している。現場に立ち、考えるツアーだ。

高野さんは現場見学の際、工場を見渡せる場所で説明しているとついつい許せない気持ちがこみ上げてきてしまうそうだ。そんな自分を振り返りながら、「修行が足りんな、と思っています」と、はにかむ姿が僕にはとても印象的だった。

政・官・業、そして、学

様々な社会問題で取り上げられる政・官・業の癒着。公害問題や環境問題では、これに加え“学”もキーとなる。実際に、新潟水俣病の発生当初、水銀の原因究明に関して(今となっては)誤った見解を示した学者や、県職員の功績を横取りしようと学者もいたそうだ。

“学”のせいで、混乱を招き、問題を大きくしたり、原因究明が先延ばしにされることがあったのだ。

この点ついては次の野中さんの話の中でもう一度触れる。

野中昌法さんのお話

野中昌法さんは、学者として新潟水俣病や公害問題、福島の放射能問題に向き合ってきた土壌学者だ。野中さんからは、足尾銅山、新潟水俣病、福島の放射能問題、そして、科学者の責任と倫理に関するお話があった。ちなみに、野中さん(と僕)は栃木県出身。

はじまりは田中正造

私たちが享受してきた文明は「本当の文明」ですか?

この問い掛けから、野中さんのお話は始まった。問いの背景には、足尾鉱毒事件と命がけで闘った政治家・田中正造氏(1841~1913)の言葉がある。

真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし

野中さんは中学生のときに、田中正造と公害問題のことを知り、土壌学や公害問題に取り組む学者を志したそうだ。研究者になって以降は、新潟水俣病や福島の放射能問題などに積極的に関わってきた。このサイエンスカフェの翌日も福島県飯館村に調査に向かわれた。

私たちは、経済成長や技術革新から様々な恩恵を受けている。銅山、化学工業、原子力発電所があるおかげで、私たちの生活が成り立っているとも考えられる。もちろん、金属製品も化学製品も電気も使わない人は除くが、そんな人々が現代では少数派であることは明白だ。

しかし、日本の発展に貢献してきたはずの足尾では、緑が戻らぬ場所が今なお多くある。放射線量が高い原子力発電所周辺の未来とリンクしてしまう気がしてならない。

私たちの生活を支えている文明は、一方で何かを破壊することもあるのだ。高野さんの話にもあったように、破壊されるのは自然だけでなく、地域社会の人間関係だったりもする。そのような現代文明は、はたして、“真の文明”なのか、問い続けねばならない。

科学者は真実を見極めよ

公害問題では、政・官・業だけでなく、そこに“学”の癒着がある場合がしばしばだ。科学者の発言等で、問題がより混迷することや、解決が先送りになることもある。

新潟水俣病でも、水銀中毒の原因を「新潟地震によって海に流出した農薬が逆流したことが原因(塩水楔説)」と発表した学者がいた。現在、その説は否定されている。彼の発表の背景に、企業との癒着があったかは、僕には分からない。が、新潟水俣病原因究明を混乱させた事柄の一つであるこには変わりはない。

これとは別に、原因企業である昭和電工周辺からの水銀検出を成功に導いた県職員のアイデアを自分の手柄にしようとした学者もいたそうだ。彼は後にジャーナリストの追及に合い、自らの愚行を認めたとのこと。

科学者が間違った情報を流してはならない、と野中さんは強調していた。そのために、真実を見極められる能力を養わなければならない。

“バリアフリー”が必要だ

熊本の水俣病に向き合った学者(医師)に、原田正純氏(1934~2012)がいる。野中さんは、彼の言葉も教訓にしている。その中の一つが“バリアフリー”だ。原田氏は“バリアフリー”の必要性について、水俣病の教訓を残すために忘れてはならないものとして、以下ように書いている。

素人を寄せ付けない専門家の壁、研究者同士の確執、行政間の壁などが、患者救済や病像研究をどれだけ阻害してきたか、私は目の当たりにしてきた。

石黒雅史『マイネカルテ ー原田正純聞書』西日本新聞社 (2010)

福島原発の問題にも通ずる言葉と感じる。“バリアフリー”を実行するために必要なことは何か、野中さんに尋ねた。すると、以下の3点を挙げてくれた。

  • 分かりやすい言葉で説明する。

  • 専門用語でごまかさない。

  • 議論のための議論はしない。

この話はまさに、科学コミュニケーションが必要とされた背景であり、科学コミュニケーターに求められる資質であり、科学コミュニケーションの課題でもある。

科学とは何だろうかを再考する

高野さんと野中さんの話にもあったように、公害問題では、科学者側の見解によって問題がより混迷する場合がある。

その背景には、「科学」そのものに対する人々の認識が関係しているようにも感じる。例えば、科学的にも明らかにされていない問題をどう評価するのか、複数の仮説が存在したときの現状をどう見るか、科学的に分かったことをどのように発信すべきか、というようなメディアや公衆の科学リテラシーの問題も公害問題からあぶり出されてくる。

明治以降の“自然”

「自然」という言葉が意識され始めたのは、明治以降だそうだ。江戸時代以前は、自然どうこうを意識する必要もなかったのだろう。人間が急速に自然破壊をするようになり、自然という言葉が再認識されたのだと思う。

水俣病は、食物連鎖の過程で蓄積された有機水銀による公害病だ。これは、人間も自然の一部であることを如実に物語っている。

自然を破壊すれば、人も苦しむ。地域社会も瓦解してしまう。

“真の文明”とは何かを問い続け、同じ過ちを繰り返してはならない。

そして、そのために自分は何ができるのか、僕は考え続けようと思う。

P.S.
野中さんは2017年に逝去された。以下は『有機農業研究』掲載の追悼文。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?