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『「科学的思考」のレッスン 学校では教えてくれないサイエンス』(戸田山和久 著 NHK出版 2011)読書感想文

タイトルにもある「科学的思考」つまり「科学的に考えること」は「科学リテラシー」とも言い換えられるものだ。科学と社会が切り離せない現代においては、誰もが身に付けておいた方が良いものとして、ところどころで取り上げられる。

この本は東日本大震災の数か月後に出版された本だ。当時は科学(者)からの情報発信が問題視され、科学への信頼を大きく損ねた時期でもある。同時に、科学(者)からの情報発信を社会(市民)はどう受け取るのかも問題になった時期でもある。

最近は新型コロナウイルス感染症の話題が尽きない。ここでも科学(者)からの情報発信およびその受け取り方が問われている。この本の存在価値がまた高まっている時だと感じる。

さて、この本で取り上げられているものは「科学“が”語る言葉」ではなく、「科学“について”語る言葉」(もしくは「科学“を”語る言葉」)である。

例えば、「エネルギー」「水素結合」「遺伝子」「マントル」などは「科学“が”語る言葉」である。一方で、「仮説」「検証」「モデル」「演繹」「帰納」などは「科学“について”語る言葉」である。

前者については、学校の理科(物理・化学・生物・地学)で習う。しかし、後者については「学校では教えてくれない」場合が多い。もちろん、理科の授業の中で取り上げられる場合もあるだろうが、学校で扱う率は前者に比べて圧倒的に少ないだろう。

では、「科学“について”語る言葉」に関して、この本ではどんなことが学べるのだろうか。

例えば、「より良い仮説/理論」はどんな基準で見分ければ良いのか、科学的な「説明」とはどんなものなのか、「仮説」を「検証」するための「実験・観測」とはどんなものか、などである。

こういった「科学“について”語る言葉」に関して理解することは科学者だけに求められていることではない。なぜならば、東日本大震災にしても新型コロナウイルス感染症にしても、科学(者)から社会(市民)への発信には、どうしても「科学“について”語る言葉」が付き物だからだ。

この点については、この本の「第7章 科学者でない私がなぜ科学リテラシーを学ばなければならないの?」「第8章 『市民の科学リテラシー』って具体的にはどういうこと?」で詳しく書かれている。

また、「市民」については「終章 『市民』って誰のこと?」で書かれている。例えば、著者である戸田山氏は、「市民」について、以下のように書いている。

大衆と市民のどこが違うかというと、市民は自分がシステムの一部、公的なものの一部だから、自分たちが何かをやらないと、システムがきちんと機能しないということを知っているわけです。科学・技術のシビリアン・コントロールについても、私はまったく同じだと思います。(p264)

科学(者)が社会(市民)に対する情報発信の内容や仕方を工夫することは欠かせない。しかしそれと同時に、社会(市民)が科学(者)からの情報発信を適切に受け取ろうとすることも同じくらい重要だと思う。そして、絶えず、その両者の調整をし続けることが科学(者)と社会(市民)の関係をより良くするために必要だろう、と僕は思う。

その調整には、お互いの共通認識が必要だ。その共通認識こそが、「科学的思考」つまりは「科学リテラシー」なのだと思う。

僕はそう考えながら、「でも、“学校では教えてくれない”んだよなぁ」と本書のサブタイトルを見つめて、本を棚に戻したのであった。

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