“つぶつぶ”論争に散った物理学者
ブラウン運動に関するアインシュタイン博士の理論研究、そして、ペラン博士による実験研究により、身の周りの物質は“つぶつぶ”(分子)でできているという私たちの「物質観」が受け入れられていった。
ただし、それ以前は物理学者の間でも、見えない“つぶつぶ”(分子)を巡る激しい論争が繰り広げられていた。
分子の存在を確信し、論争の中心で闘い続けたのがオーストリアの物理学者 ルートヴィッヒ・ボルツマン博士(1844~1906)だ。彼は当時の物理学界における大御所の一人だった。
実はボルツマン博士、激しく続く論争に疲れ果て、病に伏せた末、アドリア海に面した保養地ドゥイーノでの静養中に自殺してしまった。1906年のことだった。正に「巨星墜つ」。当時の物理学界にとって衝撃のニュースだったことだろう。
ボルツマン博士の自殺については、以下の記事も参考になる。
さて、話はアインシュタイン博士に戻る。アインシュタイン博士がブラウン運動の理論を発表し、分子の存在を確かめる指針を示したのが1905年。ボルツマン博士が自殺する1年前ことだった。
そして、ペラン博士がアインシュタイン博士の理論に沿い、実験的に分子の存在を立証したのが、1908年。
なんとも奇妙な歴史だ。ほんの数年の違いがあれば、ボルツマン博士は自らが研究し、確信し続けた「物質観」が多くの人に受け入れられていく世界を体感できたのに。。。
おそらく、アインシュタイン博士もボルツマン博士の死に落胆したことだろう。なんといっても、アインシュタイン博士が分子の存在を追い求めたのはボルツマン博士の研究に心酔していたからなのだから。
アインシュタイン博士が1900年に書いた手紙にこんな記述がある。
見えない“つぶつぶ”(分子)を巡る歴史にボルツマンあり。
私たちの「物質観」の土台には、あのアインシュタイン博士も心酔した、ボルツマン博士の命を賭した闘いがあった。
科学は、思った以上に、激動なのだ。
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