見出し画像

言葉あれこれ #15 オリジナリティ

 昨日、青豆さんのこの記事を読んで、思ったことがあったので書き留めておきたい。

 まず、最初に青豆さん、および、吉穂&みらっちのフォロー・フォロワーの皆様にお詫びをしたい。

 自分、コメント長くてすみません。
 
 いやー、昨日のこの青豆さんの記事にPCでコメントをして、後からスマホで自分が書いたコメ欄を見てびっくり。

 休前日のスーパーのレシートかと思うくらい、もっすごく長い。

 今の世の中、息子のメッセージなんか「りょ」「おけ」「は?」で用が事足り、中年男女からの長いメッセージは無視され嫌われ、「。」はマルハラと呼ばれ、とにかくジェネレーションギャップに厳しい「多様性」の世の中なので、気をつけなければと思うのですが、筆が走ってしまうというか熱い思いを書きこんでしまう、というか。

 ついに白鉛筆さんからはこんな声が。

確かに圧・・・

 以後、気をつけたいと思います。
 でも白鉛筆さんの本音(っぽいもの)がポロリとこぼれるこんな瞬間を、私とヱリさんは見逃さない。キリッ

 とにかく今後は控えめにいたします。 

 以上、反省終わり。

☝いつき@暮らしが趣味さんの
「賑やかし帯」からお借りしました

 さて本題。
 本題ではあるが、ここでも最初にひとつ断っておきたい。
 私はこの記事によって誰かを貶めたり、批判したりするつもりは全くない。青豆さんもこの点には言葉を尽くしておられるが、私も同様である。むしろ主旨は自戒であることをここに明記しておく。

 青豆さんの記事の中には、こんな文章が。

わたしがなぜこのような記事を書いているかというと、「企画で書くものにオリジナリティを感じられない」という意見があると小耳に挟んだからです。

 これに対し、青豆さんが「どういうことだ」とおっしゃるのに思い切り頷いた。

———どういうことだ。

 この記事は私が長年考えてきたことに火をつけてしまったのであるが、もちろん、青豆さんに責任はない。笑


オリジナリティとはなにか

 私がまず最初に思ったことは「『オリジナリティを感じない』というオリジナリティのなさは致命的」ということだ。
 確かに様々な「世界」においてその言葉が伝家の宝刀のように使われることがある。でもそれは往々にして、批判や非難のステロタイプな定型文として安易に使われているように私には感じられる。当然、それはオリジナルなその人の言葉ではない。もし深い考えもなしにこの言葉を使うならばそれは、使ったその人の浅学を示す言葉になる。致命的だ。

 そもそもこの論の根拠には「オリジナルなものが存在する」という思い込みがあるように思われる。
 果たしてこの世に存在するもので、オリジナルでないものとオリジナルなものが分けられるとして、「オリジナル」とはなんであろうか。
 その定義なしに、「オリジナリティ」などということそのものが、もはや詭弁というほかはない。そのことは、文章を書く以上知っておかなければならないと私は思う。

 オリジナルでないものはつまり「模倣」ということである。コピペである。一言一句、引用の客注なしに我が物として文章を書いたり話したりし、それを自分の名で発表することは「剽窃ひょうせつ」と呼ばれ「窃盗」、つまり犯罪である。これは明確に「オリジナルではない」。

 それ以外のもの、故意に剽窃したものでないこの世の中のすべての文章は、オリジナルである。あなたとして生まれたあなたの存在が、オリジナルであるように。

 しかしそれらも、「真にオリジナル」であるかどうかは疑問である。

創作とオリジナリティ

 たとえば芥川龍之介の作品には『鼻』や『藪の中』がある。これは今昔物語に元ネタがある。
 たとえば太宰治に『走れメロス』がある。これは世界に類話があり、太宰はギリシャの物語を題材にしたそうである。

 ある事件をもとにしたり、人から聞いた話や資料を集めて小説にする(今とっさに思い浮かんだのは遠藤周作の『海と毒薬』や吉村昭の作品群など)作品もあれば、芥川のようにほぼ昔話の「リライト」というような作品もある。そもそも、グリム兄弟は民話を集めて『グリム童話』を作り上げた。アンデルセンもそうだ。彼らはキリスト教の教義に反しないよう、物語を少々作り変えたりもしている。
 このように、歴史的事件や巷間を騒がす事件、昔話や民話、童話をテーマや題材にして、新しい文学作品がつくられ、それが名作として読み継がれている。そのことに対し、果たして「オリジナリティがない」と言えるだろうか。

 また、最近は少し下火のようであるが「なろう系」と呼ばれた作品群は、「定型」を楽しむ世界である。異世界に転生、スライムや魔法少女、悪役令嬢に転生した先でRPGのような物語が展開し、それを楽しむ。そこには「お約束」があり、その「お約束」をどう調理するかが腕の見せ所となる。ひとつひとつがオリジナル作品だ。こういうのは美術でいうと「マニエリスム」に当たるだろうか。

 あるいは二次創作。既にある作品の中のキャラクターを使って新しい作品を作る。このあたりは剽窃すれすれのものも多いだろうし、訴訟になったりもする。

 先日は漫画原作者を蔑ろにしてテレビドラマを作ったために痛ましい事件が起こり、原作者の権利が話題になった。何年か前にもヤマザキマリさんが映画化の際の原作者の実収入が不当だと言ったためにバッシングに遭ったことも記憶に新しい。

 「元ネタのあるものを使って作品を作る」ということは、その程度によって「オマージュ」や「インスパイア」「リスペクト」、「パロディ」「リライト」などと言い、行き過ぎると「パクリ」になる。
 古今東西で行われ、先に記したように文豪でさえその例外ではないし、程度によっては訴訟になる。最近は二次創作の幅が広く、ドラマや映画、配信ドラマ、ノベライズ、コミカライズと、作品に群がって二匹目のどじょうを掬う方法や手段が多岐にわたり、「オリジナル」が軽視される事例も多い。

 私たちは誰も、先人の言葉や表現を模倣し学習し、自分のものとすることなしに、自分の新たな表現を持つことはできない。生まれたときは養育者から、その後学校や社会の中で、言葉を学習し、言語や知識や知恵を積み重ねていく。その中には、近所の噂話から国家のプロパガンダ、大量の本の知識や知恵、その他メディアからの情報や言葉が礎としてあるのであって、それを否定することはできない。
 蓄積されるものとしては、先人の言葉を「文章一言一句丸ごと」という場合もあるだろうし(ことわざ・格言など)、意訳されたり要旨をつかんだ結果の思考、信念や思想、信仰もある。言葉の切れ端、きれぎれな表現が、私たちの脳や心や魂などにしまい込まれていて、それが表現というアウトプットとして出てくる。そのインプット・アウトプットの方法に非常に長けた人々が学者や作家といわれる人々だ。

AIとオリジナリティ

 2024年の現在において最も注目を浴び、問題視されていることのひとつとして、AIの著しい進化が挙げられる。科学の進歩はこれまでずっと諸手を挙げて受け入れられてきた。しかし先の戦争あたりから、人類を滅亡させ得る「進歩」があることを人々は知り、ビッグデータとアレゴリズムを使って人間のように話し始めたAIや、自分の判断で目標物を破壊したり殺戮する兵器などが生まれるに至り、それらは便利さを通り越して怯えや不安を感じさせる存在になりつつある。

 この場合当然、人間が「オリジナル」でAIは「コピー」という認識でなければならない。なぜなら彼らのしくみは人間のしくみの「模倣」だからだ。人間はAIがよりオリジナルに近づき、よりオリジナルなものを作り出すことを望んでいるが、本当にそうなることには恐怖を感じる。
 人間より多くの知識を蓄積できるAIは、人間を凌駕する「オリジナル」になる可能性を秘めている。それを、人間はなんとかコントロールしようとしている。コントロールするということは、オリジナリティの否定であり、機能の制限だ。

 これからわかることは、完全否定できる剽窃以外に、定義でき一般化できる「オリジナリティ」などというものはこの世にない、ということと、「オリジナリティ」が存在するならそれは何らかの枠の中で制限された言葉であるということだ。
 斬新だったり新鮮だったりする、ということは、その人が存在している世界の人々の誰もが理解できる範囲の中での斬新さにすぎない。だからこそ、生前理解されずに死後脚光を浴びる作家や画家が山のようにいるのだ。作品が時代に釣りあうようになって初めて「発見」された作品を誰かがいいというまで良さがわからないなら、オリジナリティなど語っていいはずがない。

 はじめの問題にもどるなら、「オリジナリティ」という言葉を誰かが発したならそれは、その人の決めた枠によって、相手を規定しているに過ぎないということだと思う。本来は「オリジナリティ」とはなんぞやということを、まずは考え抜かなければいけないし、それなしに相手を批判することはできないはずなのだ。

取り扱い注意の言葉

 私たちはみんな、ひとりひとりがオリジナルである。
 誰も同じではない。養老孟司氏もそう言っている。個性個性というが、人間は違う肉体を持って生まれている以上誰もが個性的なのだ。その個性的な人間ひとりひとりから生まれた文章が、オリジナルでなくてなんだろうか。
 しかしいっぽうで、レヴィ=ストロース氏が言うように、私たちは誰一人として時代の枠、言語の枠、社会規範の枠、文化の枠の中から逃れることはできないし、その蓄積無しには考えることもおぼつかない。そういう意味では、私たちの脳の中で、自分がゼロから作り出したものなど、ほぼない、と言ってもいい。
 ただ、私たちはそれぞれに、違う場所で違う親に生まれ違う育ち方をして違う経験をして生きている。それが、人格や性格を形作り、思考や思想を形成する。その中で、今存在するものに対し、どれだけ遠いところにあるものを表現するか、どれだけ普遍性を保ちながらどれだけ孤高であるかということが「オリジナリティ」に求められることということになるだろう。
 
 オリジナリティの真髄は、おいそれと理解できるものではないし、少なくとも、オリジナリティを完全に定義できないことを知るべきではある。無知の知だ。
 取り扱いにおいて厳重注意の言葉だと、私は思う。

 ちなみに、企画に参加して、あるひとつのテーマや言葉を元に作品を作る、ということに関して言うと、企画のテーマに沿って書かれた作品にオリジナリティがない、ということは、ありえない。
 基本的に「詩」に類するものは定型が厳密であるものも多い。英米詩にもあるし、日本の歌壇や俳諧ならテーマに沿った「連歌」などがある。その元ネタである「漢詩」にもある。そもそも俳諧は「季語」という「共通認識された言葉」をもとに17文字で勝負する作品である。
 ルールがある中で創造するという作品は文化的に正しいあり方だし、実際、公募に応募するときでも、規定は存在するだろう。それを逸脱すればいくら独創的で斬新であっても一次選考も通らない。

 企画というのは宝石を集めた宝石箱のようなものだ。中にもし見た目に同じようなダイアモンドがあったとしても鑑定士に聞けばどれひとつとして同じものはないだろう。みんな同じ宝石に見える人には、その価値がわからないだけなのではないだろうか。



 











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?