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今の段階でこれかな、と思っている「幸福」の話

休日を迎える前にはいつも、何をしようか、どこへ行こうか、何を食べようか、そんなことを考えるのを楽しみにしています。元気に毎日を送り、休日に家族や友人と一緒にわいわい過ごすことが「幸福」だと感じているからだと思います。

「幸福」という言葉を使うと、大げさだと思われるかもしれませんね。「幸福」について考えること自体、難しかったのではないかと思われる、戦時中に獄中死された哲学者の三木清さんは著書「人生論ノート」にこう書かれています。

それは、「幸福」について考えること自体が不幸の兆しではないかということ、「幸福」について考える気力さえ失っているほど世の中は不幸なのではないかということ、そして「幸福」について考えること自体が不道徳に思われるほど、不幸に満ちているのではないかということです。

時代背景の影響があるにせよ、執筆されてから長い時を経た現在も、本質的なものはあまり変わらないのかもしれませんね。

私が今までぼんやりと考えていた「幸福」について、三木清さんは著書の中で明確に示されています。この文章を読んだ時、率直に「幸福」についての答えをやっと見つけたという感想を持ちました。

幸福は人格である。(中略) 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとくおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。(引用:人生論ノート 三木清著作 昭和29年初版 新潮文庫)


毎朝、家を出るときに、鏡の前で自分の姿を確認すると思います。笑顔で挨拶ができるか、誰にでも優しい気持ちで接することができるか、そんなことを問いかけながら毎日を過ごしたいと思います。簡単なことではありませんが、「幸福」になるのではなく、「幸福」であることが重要だという気付きをもらいました。

最後まで読んでくださってありがとうございます。また次回、本好きのエピソードを紹介していきます。


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