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イーロン・マスクのTwitter改革に見るキャリア自律のギモン

イーロン、よくぞ言ってくれた!

少し前の話になりますが、イーロン・マスク氏によるTwitter社買収に伴う一連の騒動。みなさんは、どうご覧になっているでしょうか。
10月27日に総額440億ドルで買収を完了させると、月末には9人の取締役全員を解雇、11月に入ると従業員の約半数にあたる3700人のレイオフを決行しました。何の前触れもなく突然システムにアクセスできなくなるなど、混乱の様子はニュースでも大きく取り上げられました。法律や社会制度で労働者の雇用がしっかりと守られている日本では、マスク氏の強権的なやり方に戸惑いをおぼえた人も多いのではないでしょうか。
私はといえば、「容赦がないな」と感じながらも同時に「よくぞ言ってくれた!」と思ったクチです。というのも、従業員へのキャリア支援や副業解禁、働きやすさの充実を図る施策に対し、若干やり過ぎな気がしてならないからです。


ハードワークは悪なのか

Twitter社の赤字体質の改善を図るため、マスク氏は人員整理にとどまらずリモートワークの廃止など、働き方にもメスを入れています。数々の発言の中で特に共感したのは、従業員に向け「これからTwitterが成功するには、極めて猛烈に働かなくてはならない」と述べたところです。そのうえでマスク氏は、「“新しいTwitter”の一員になりたければ、リンクをクリックしその意思を示せ」と迫ります。翌日までに求めに応じなければ、給与3カ月分の解雇手当を払うとまで言い出しました。
組織と働き手の望ましい関係は、個人と組織それぞれが描く、ありたい世の中の姿や状態がうまく一致した状態です。一人では世界を変えられないけれど志を同じくする仲間と臨めば実現できるかもしれないと、働き手の意思で行動した結果ハードワークになったのであれば大きな問題はないはずです。
もちろん程度というものがありますから、心身の調子を崩すほど過剰な働き方はよくありません。どんなに躍起になれることでも、困難を前に心が折れてしまうこともあるでしょうし、適度に休息を取らなければパフォーマンスは低下してしまいますから、組織的なケアやフォローが必要になってきます。それに働きや成果に見合う報酬も用意しておくべきです。
しかしながら必死になって働く”経験は、ビジョン実現の推進力となり、働き手自身の成長にもつながります。それが、自分が“したくて”選んだものなのか、それとも会社から“させられて”のことなのかによって、ブラックな働き方か否か、判断は変わってくるはずです。


“やらされ”のキャリア自律が招くもの

そうした意味で、“主体的に働く”ことはとても大切な観点です。だから自分は何がしたくて、どんなことに共感できて、どういう働き方を望んでいるのかを、働き手が自覚することが求められます。
一方、企業とは営利を目的として、経済活動を行う組織です。社会貢献や価値創造も重要なファクターですが、あくまでも事業を通じて社会における自社の存在価値を高め、長きにわたり存続を図っていくのが企業の本分といえます。そして企業を構成するのが、そこで働く人たちです。従業員が組織に愛着を持ち、意欲的に仕事に取り組めれば、質・量ともにパフォーマンスの向上が期待できます。だから企業は従業員のエンゲージメントを高めようと手を変え品を変え、さまざまな支援策を繰り出しています。
特に若者の人口が減り続けている昨今、企業にとって労働力の確保は大きな課題です。それから働き手の多様化と、終身雇用が立ちゆかなくなりつつある現状を前に、企業は個人のキャリア自律の支援に乗り出しています。キャリアコンサルタントとの面談や1on1、さらに研修やラーニングの充実を図るなど、それなりの予算をかけて臨んでいるところも。
しかしこれらの施策が、果たして真の意味でのキャリア自律を促せているのでしょうか。“自分のキャリアを考えること”自体が外発的動機によるものであるが故に、過剰なお膳立てが逆に主体性の低下を招いてはいないか。下手したら、「会社がキャリア自律を支援してくれるんでしょう? 資格を取りたいのに援助してくれないなんて最低」なんて思う人もいるかもしれません。そもそもキャリア自律の後押しが、本当に組織エンゲージメントに効果をもたらすのか、個人的には疑問を感じています。


機会の提供と押し付けのはき違え

確かに日本人の働き方は長らく、雇い‐雇われという暗黙の上下関係が存在していました。企業側が一生の面倒を見る代わり、働き手は会社に従い滅私奉公するというような構図です。ものづくり主体の工業社会ではうまく回りましたが、代償として働き手の創意の喪失や働くことに対する受け身の姿勢を招いてしまいました。そして産業構造が大きく変化し、デジタル化が進んだ昨今、旧来の雇用関係を引きずったままでは太刀打ちできないことは言うまでもありません。
けれども現在行われているキャリア自律の進め方自体が、古いシステムに囚われているような気がしてなりません。つまり「事業戦略とは関係のないキャリア自律」という、企業側の働き手に向けての押し付けのようなものを感じるのです。
確かに私たち日本人は(特に40代以降にもなると)、これまでキャリアを描いた経験のないひとがほとんどで、自分らしい生き方を重ねることに漠然とした不安を抱えている側面もあるでしょう。ですから、企業側が従業員にキャリアを考える機会を設けることに対して、否定するつもりはありません。
組織の取り組みにはパワーがあります。個人の人脈では会えない人との出会いを得られたり、何の気にも留めなかった考えに気づかされたり、また関心の薄かった従業員が周りに感化されることで、組織に自律した風土が醸成されるなどのスケールアップも期待できます。
けれども一連の施策はあくまで経営に資することが前提であり、キャリア自律そのものが目的となっては文脈がズレてしまう。組織が目指すビジョンや戦略と照らし合わせながら、従業員の戦力化につながるキャリア支援を設計していくことが大事になってくるのだと思います。


キャリア自律にも戦略を

働き手に対して企業側が強すぎたことの反省から、キャリア自律を促しているというところもあるでしょう。しかし今度は振り子が行き過ぎて、個人に寄り添い過ぎてしまっているように映るのが、私が抱える違和感なのかもしれません。キャリアカウンセリングをしました、研修をしました、あるいはeラーニングで好きなコンテンツを選んでというのもいいでしょう。けれどもこれらの施策には、経営と紐づく戦略が必要な気がします。

そもそも優秀な人材であれば、誰にとやかく言われなくてもキャリアの自律を図れているもの。働く価値を感じられる組織には、喜んで自らを捧げるはずです。企業は本流にあたる事業や組織としての活動を通じて、従業員に何かしらのメリットを供給するのが正しいあり方ではないでしょうか。
企業は個人と対等な関係であることを前提に、どういう働き手を求めていて、コミットする代わりに組織として何を捧げるのか、真剣に考え直す時期に来ていると感じます。


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