那智勝浦町昔懐かし話 第12話

 第12話『勝浦は、昔サンマで有名やったんやで』
 
勝浦に生まれ育った僕は、実家が、ひいじいちゃんの時代より約100年続くマグロの仲買で、マグロによって僕は大きくなったと言っても過言ではない。 実家は今、弟が継いでいるが、そのおかげで僕は観光の仕事に従事している。
仕事柄、勝浦の恩人というか巨匠にお話を伺うこともあるのだが、今回はTさんの話を元に勝浦の漁業のことを書きたいと思う。
明治、大正時代は、実は勝浦ではサンマ漁が盛んで、漁法は網を使った追い込み漁だった。「勝浦のサンマ船に乗らなければ漁師やない」とまでいわれた程サンマ漁が盛んだった。勝浦の駅前に佐藤春夫のサンマの碑があるがそれゆえんだろうか。明治末期になると勝浦に動力船が誕生。これでサンマやカツオなどが採られていた。大正時代初めのマグロ漁船は帆を付けた櫓船(ろせん)で非常に危険な漁だった。その後昭和初期には、エンジン付き木造船が建造され、カツオ1本づりとマグロの延縄漁法が兼業で行われていた。このころから船も大型化されていく。これが勝浦での本格的なマグロ漁のはじまりである。
戦後まもなくも勝浦のサンマ漁は大量続きであったが、東北の三陸沖で棒受網漁によるサンマ漁が行われるようになり勝浦のサンマ漁は衰退していく。その陰でサンマ漁からマグロ漁に移る漁師が多くなってきた。勝浦のマグロ漁も船の大型化また漁法の進化により盛んになっていった。そして水揚げ高も増え延縄漁法による生まぐろ水揚げ高日本一の町になっていくのである。
つまり、上記の通り勝浦は戦後まもなくまでサンマで有名だったのである。
今は、勝浦に揚がるサンマは東北地方で採れるサンマみたいに脂がのっているサンマではなく東北から勝浦に海流にのってやってくるまでに脂が落ちている
形も一回り小さいサンマである。脂があまりないのでサンマ寿司にできるし、一夜干しにもなる。次に僕が小学生の時の話。先に書いたが、僕の家は祖父、祖母、父、母、僕、弟2人の7人家族という大所帯だった。毎日夕方5時に家族全員で大きなテーブルで正座し夕食を食べる。台所の隣は洗面所だった。
その日のおかずはサンマの一夜干し。僕たちは「やっぱり、サンマはうまいのう。今日のは特にうまいね」とサンマを味わっていた。僕は、サンマの骨が苦手で、しっかり骨を取ってたべる。すると明治生まれの頑固一徹のおじいちゃんが「たけひろ、おまえ魚屋の子供がサンマ食べるのに骨ら取りやるんやない。おじいちゃん見ててみ、こうやって頭からかぶりつくんや。」とおじいちゃんは、頭も取らずサンマにかぶりついて食べて見せた。「うん、おじいちゃん、わかった。こうやろ」僕も、頭からかぶりついた。「そうや。それでこそ勝浦の子供や。魚屋の子や」そういっておじいちゃんは、サンマの一夜干しを何本か食べた。しばらくしておじいちゃんは、無言で立ち上がり隣の洗面所の方に行った。しはらくするとおじいちゃんの声が聞こえた。「ごほ、ごほ、おーい、悪いけど背中叩いてくれ、骨ささったわ。ごほ、ごほ」僕らはサンマを食べる手を休め笑い転げた。「おじいちゃん、さすが俺のおじいちゃんや。魚屋のおじいちゃんや。」 なんでやねん。
                               第 12話終わり
 

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