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「非日常の幸せ」は目玉焼きで言ったらソースかも


「20代で得た知見」という本の中で、大好きな言葉がある。

「幸せって大きく分けて二種類あると思う。ひとつは日常に帰ってくるための非日常の幸せ。もうひとつは、非日常に行くための日常の幸せで」

「日常の幸せ」とは、日々の中で気づく幸せ。朝のコーヒーが体に染み渡って「おいしいなぁ」と思ったり、猫がスヤスヤ寝ている姿を見て「ふふふ」と笑顔になってしまったり。

「非日常の幸せ」とは、日常から飛び出して出会える幸せ。遠くの島国に行って、綺麗な海に飛び込んだときに見える世界に驚いたり、行き先も決めず、とりあえず電車に乗って小さな旅に出てみたり。

どちらの幸せも必要。どちらかの幸せが、もう片方の幸せを引き立てているんだと思う。

コロナの状況で、「非日常の幸せ」を感じにくくなってしまった。けれど、今のぼくたちには必要だと思う。日常の幸せを、また感じ取ることができるようになるために。

🚶‍♂️

この間、大学の友人たちと長野に登山へ行った。ぼくは山に登ることが大好きだ。なぜかというと、「何かに取り囲まれている自分」を脱ぎ捨てることができるから。

高い山に行くと、電波が通らない。だから、携帯をイジることもない。「インスタ更新されてるかな?されてないわ。」みたいな雑念が湧かない。

山を登り続けていると、しんどい。余計なことを考えず、足をどこに運べばスムーズに山道を進んでいけるかに意識を集中できる。

普段は仕事やSNSに脳を占領されてしまう。脳はあまり広くないのに、雑念がめちゃデカいブルーシート広げてくっちゃべっている。大事な思考や感覚は、隅の方で体育座りで縮こまってしまう。

登山は、強制的にそのブルーシートを「えいや!」とひっぺがし、頭をスッキリとさせてくれる。

しかも、誰かと一緒に登るとみんなその状態になっているので、「共通言語」が生まれやすい。

みんな目の前に見えていることに集中しているので、「ねぇ見て。あの雲さ、トイプードルのシッポみたいじゃない?」みたいなゆるゆる度200%の発言でも「めっちゃわかるわ」みたいに共感が得られる。

何かに取り囲まれた自分を脱ぎ捨て、裸の心で見たり聞いたりする世界を、誰かと共有できる時間が登山にはある。そんなことできる空間は、現代にはあまりないのだ。

とまぁ、山談義を語ってしまったけど、久々に会う友人とのハイキングはとにかく楽しかった。「秋の登山で、紅葉とか見ちゃおう!」みたいな趣旨だったのが、突然訪れた寒気により思ってた景色と全然違かったけど。

めっちゃ白いやーん。

でも、この普段見られない景色が、ぼくを非日常へと連れていってくれる。空に近いとさえ感じる、流れるような雲。眼下に広がる、ミニチュアみたいな街並み。延々と連なり続けているような、隣の山脈。普段関わらない世界が、ぼくの心に当たって、染み込んでいく。


そして、下山中にビックリしたできごとがあった。

ぼくたちとは反対に、山を登ってくる女の子がいた。その子は背中にデカい発泡スチロールを3段抱えている。山小屋のお仕事だ。山小屋は物資を運搬できないので、人が食料などを運んでいる。(ヘリで運んでいるところもあるけど)

女の子でやってるのは初めて見た。すごいなぁ…!と思いながら、すれ違う。すると、その子がこっちをじっと見る。そして、驚いたように口を開いた。


「えっ、よさくさん!!??」

え!!もしかして!うそ!!!!


めっちゃ知り合いだった。

大学の登山サークルの後輩だ。ぼくが4年生のときの1年生で、1度だけ一緒に山に登った子だ。4年ぶりの再会が、長野県の山奥という、意味不明なシチュエーションにお腹を抱えてしまう2人。

その子はまだ大学に在学していて、今は山小屋でバイトしているらしい。4年前と変わらない笑顔で、ハキハキと近況を語ってくれた。

ぼくの名前をきちんと覚えてくれていることにもビックリした。当時から、人と距離を縮めるのが上手な子だった。1年生からしたら、4年生なんて関わりにくいはずなのに、そのときからガンガン話しかけてくれて、チームを明るい雰囲気にしてくれた。その子と一緒にいるだけで、1日分のビタミンが摂取できてる気がした。

それから月日は流れ、長野の山小屋にこもってバイトするという、攻めた学生生活を送っていることに、お兄さん感動しちゃう。背中に背負っている荷物は30キロあるらしい。色々と成長しすぎ。

とにもかくにも、日常の枠の外には、こんなに素敵な出会いがある。普段出くわさない景色に心を震わせ、思いがけない再会に胸が躍る。これが、「非日常の幸せ」。

いつも観ているモノ、聴いてるモノを変えることで、出会う人や、胸に生まれる感情が変わる。この体験が、心に新たな刺激を与え、日常の幸せを感じやすくさせてくれる。

いわば、「幸せの味変」だ。毎日、目玉焼きに醤油をかけている人が、たまーに塩やソースをかけてみることがある。「あっ、これもいいね」なんて思ったあとに、また醤油に戻す。そうすると、醤油の美味しさが改めてわかったりする。

幸せもきっとそうで、「日常の幸せ」を引き立たせるためには、「非日常の幸せ」という味変が必要なんだ。幸せの味覚を刺激して、いつまでも幸せに飽きない心を育てていきたい。


あなたの「幸せの味変」は何でしょうか?

さて、また「非日常の幸せ」を味わうために、何をしようかな。

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