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20になって気づき始めた物事の考え方

午後16時を過ぎた頃。僕はファミマで買ったアイスコーヒーを片手にバスに揺られていた。

肩に大きなバッグをかけながら友達と談笑する学校帰りの高校生たち。

お客さんに何やら説明をしているのか、店先で話し込んでる八百屋の店主とお客さん。

母と手をつなぎながら一緒に帰る小さな女の子。

ただなんとなく流れていく街の風景を眺めながら、僕はふとあることを思い出した。

それは中学生の頃やっていた部活の話。なぜ急にそんなことを思い出したかは自分でも分からないが、恐らく帰路につく学生たちを眺めていると、あの時の記憶が条件反射的に思い出されたのかもしれない。

中学の頃は野球部で、学校が終わるとすぐ練習。土日も雨が降らないかぎり朝8時~12時過ぎまで練習の繰り返し。当たり前のことかもしれないが、僕は野球がそこまで好きではなく、むしろ苦痛に感じるくらいだったので「楽しい」なんて感じたことはなく、時の流れはただただ遅かった。

そもそも野球はピッチャーやバッターといったいわゆる概念的なものが存在して、ピッチャーならバッターに向かってボールを投げてひとりひとりをアウトにすることが仕事だし、バッターはピッチャーから投げられたボールをバットに当てて前に飛ばしたり、四球を選んだりと、とにかく出塁することが仕事だ。

だけど僕は主に代走要因。いや、たまにピッチャーをする時があったけどほぼほぼ代走として試合に途中出場することがほとんどだった。その時の自分は、試合に出ようが出まいがどちらでもよかったし、サインミスやエラーをして顧問の先生に怒られるぐらいなら試合に出る以前に関わらないで済むような立ち位置に居たかったので、ベンチは可もなく不可もない存在だった。(声出さないとたまに怒る人もいるので。)

だけど代走という役目は嫌いじゃなかった。現に野球部の中で一番足が速かったのは僕だったし、盗塁を決めるとそれなりの拍手や声援が送られるのは好きだった。それ以外でも好きなことはありましたが。(詳しくは⇓ ⇓)

そんな風にして干渉に浸っていたが、ふとあることに気がついた。

もし全員が同じ労働時間で同じ時給が発生していたら、僕だけが一番精神的には得するんじゃね?

例えば「時給980円」としてその日の試合が2試合あったとするとだいたい朝7時にグラウンドに集合して終わるのが16時とすると合計で8820円となる。試合が始まっても僕はベンチスタートで試合に参加するのは終盤バッターが塁に出て、1点が欲しい場面で僕は代走としてコールされる。そして途中から出場しても大体は1,2回守備につくだけで、「こっちにボールくんな..ボールくんな..デレク・ジーター並みのバッティングで向こうに流してくれ..」と念を送っていると試合が終了している。

そんな風にして次の試合もそういった流れで進んでいく。それに盗塁が成功すると周りの拍手が起きて、自分自身もそれなりの達成感に満たされる。

そう考えると僕はかなり幸せな立ち位置にいたのかもしれない。他の同級生はスタメンで試合に出て1回~7回まで緊張感や顧問の先生からのダメ出しやヤジと戦っているが、(最後のはいらない気も?)僕が出るのは試合の終盤で、やるべきことを全うするだけ。

それで全員が同じ手取り。

要するに、「考え方ひとつでプラスにもマイナスにも捉えられることができる」ということを学んだ。

20でやっと...。いや、まだ完ぺきではないが、そういったことに気づき始めたのだ。

だけどまだまだ修行中です。だってこの考えが間違っているかもしれないから。

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