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個性と、諦めと。


どうも。ふへ歩です(・∀・)皆さんは、漫画はお好きですか?

ふへ歩は、呪術廻戦を9巻まで読んでから、お腹いっぱいです。何なら、距離を置こうと逃げましたw

逃げた先には新たな推しが居たのです。それはヒロアカの切島鋭児郎。

はじめに言っておきます。この記事は「ヒロアカ」の考察とかそういう類いではありません。

ヒロアカっていうと「個性」が付き物。みんな何かしら個性持ってる可能性が極めて高い世界の話。……それを素直に楽しめばいいのに。w

この記事は「個性」「諦め」「考え方(捉え方)の違い」の類いについての記事です。


個性って。

皆さんは「個性」って聞くとプラスの印象とマイナスの印象、どちらを連想しますか?

「他人にはない武器がある」「他人とは違うなにか」…

”他人との違い”。

グーグル先生に質問しますと、個性とは「その人特有の性格、性質」「個人の特性」「個の特有の性質」であるそう。

また検索した際にwikiの「人格」のページもヒットしましたので参照ください。

そう。人との違いが、個性なのです。個性とは、他者との違いなのです。

「違いを認めること」の大切さ。人間社会を生きる上で……いや。「多様性社会」。ダイバーシティを生きる上でとても重要で不可欠な心構えといいますか。私はそう思います。

個性を認め合えば組織や集団で効率化を図ることがとてもスムーズになるとも思っています。例えるなら、RPGゲームのパーティ組むときのような。役割を限定することで連携しやすくなったりしませんか?

でもこの「個性を認め合う」ことをするためには、前提として『自分自身を把握している』ことが必要な気がするんです。そうですよね?ゲームでもパラメータだったりスキルが「確認できる」じゃないですか。

自分の個性は、自分で説明できなきゃ、周囲はわからないんですよ。

他人の個性を把握できる人は「事例や経験による憶測」だったりの知識を持つ人達だと私は考えています。

だからこそ「知らない個性(人格)」に出会うと人間はいろいろと思ってしまうことがあるわけです。初めて火を見たときのように。近づくと温かいけど、触れると火傷してヤバい。そりゃ、痛いし完治するまで忘れらんないよね〜。

だからどうしようもないことが、ある。

知らない個性(人格)を持つ人に出会ったときを、初めて火を見たときに例えて考えてみようと思う。

初めて「火」というものを見るのだから、それが「燃えている」ということも知らなければ「消すことができる」ことも「大きくすることが可能」ということも知らないわけです。

「近づくと温かい。けど、触れようとしても掴めるわけではない。しかも触れようとした体の一部がタダレたぞ。こいつは危険だ!」

きっとこんな感じ。

そこから徐々に「水で消える」とか「小さい火だと突風でも消えるのことがある」だったりを学ぶことが可能であるということ。知ろうとすれば理解を深められる、ということです。

人間の個性についても同じことだと思います。

どんな人間関係も「得体の知れない人物」だったり「なんか気になる人だ」とかから始まるのではないでしょうか。

ただそれが「受け入れられるか否か」は全く同じ議題であるとは、言い切れないと思います。

理解を深めるということは少なからず関心があるという、プラスの原動力が働いているでしょう。知らなければいけない、という関心の仕方だった場合は少なくとも、前向きな捉え方で向き合っているわけではない、ということだと私は考えますね。

義務感すらも働かないときは、無関心です。興味がないんですね、きっと。どうでもいいこと。あっていいと思います。人それぞれだもの。

理解を深めるにしろ、全面否定するにしろ。その「個性(人格)」についてそのままでは受け入れられない!と思うなにかがあるということです。

ではここでもう一つ。

皆さんは、プール授業とかで「潜ること」「泳ぐこと」お好きでしたか?特技にスイミングとか書けちゃってましたか?

私は小学校高学年まで潜れませんでした。単純に怖かったというよりも当時、中耳炎に頻繁に悩まされちゃっててですね。その感覚に敏感になってた時期なんですね。

中耳炎って、耳の閉塞感とかポッコン!みたいな破裂感。それに伴う熱を持った感じとか炎症性っぽい痛みがあるんです。当時の私にとってはこの感覚こそ、受け入れられない!ってやつ、そのものでした。

なのでその頃は、峠を越えるドライブも嫌いでした。標高高くなってくるとヒステリック起こしたかの如く泣き叫ぶくらいには。

水に耳をくっつけるのも、耳に膜が張る感じありますよね。閉塞感なんですよ。音もこもって聞こえるじゃないですか、水の中って。それさえなければもっと容易に「水は友達。敵じゃない。」って言えてたと思う。

これだけ嫌だったプール、水中というものをどうやって克服できたのか。

「耳栓」という工夫と、「水中の風景」という絶景ですね。水の中って光に照らされると本当にきれいなんですよ。キラッキラ。

初めて潜ることができたとき。息が続く限り、水の中にいました。だってきれいだったんだもの。

工夫と、苦手意識やトラウマを覆すだけの成功例や条件があれば、意外とあっさり拭えてしまうものって世の中少なくないのではないか。そうも思う私なのでした。

開き直り。諦めとも言う。

でも世の中そんなに甘くないよね。

何回も挑戦してみてもすぐにはできないものってたくさんある。

仕事一つにしても「個性(人格)」って様々すぎるくらい。

教えられたらすぐに作業を覚えてできる人。

教えられてもすぐには覚えられない人。

教えられたら頭では理解できるけど体がついてこない人。

教えられたら覚えて作業もできるけど説明ができない人。

それ以外にも様々あるでしょう。きっと人の数だけあると思う。

完璧主義なタイプの人は、きっと形とかにこだわっちゃうんでしょうね。

見た目100、見られ方100、魅せ方100、評価100…

全て100じゃなきゃ意味がない!に囚われてるんだろうな、って思っちゃいます。限りなく100を目指せ、みたいなストイックさは憧れる人もいそうですけども。疲れちゃいそう。〇〇オバケとかいうから大丈夫な人は大丈夫なんですかね?

でも人間、すべて完璧はいません。苦手をカバーするのが経験や知識で上手になっただけだと思います。

だって居ますか?全ての言動において、周囲の機嫌を全く損ねることなく、常に自分自身の機嫌も損ねることなく冷静で平常心を保っており、立てた計画を全て遂行し、ノープランでも常に周囲に気を配り、動物的な本能の欲求にも答えつつ、健康にも全く問題を持っていない。そんな人、見たことない。

夢見たこととか、憧れたことはあるけど。

でもこんな人間は見たことありますよ。

社会生活に対して苦手意識が強いけど、黙々と一つの作業を何時間もできるし、自分の中の「楽しい」に対して正直で貪欲になれる人。

家事だとか休みがないものや面倒ごとは苦手でも、自分に目を向けるのが得意で魅せ方を知っている。そして多くを語らない人。

これは私の両親のことです。勝手に総評させていただきました。でも、人間関係でよくわからないことは何?って聞かれたら、「親の性格」とか「親の内面」って言うと思います。

まあ、親の話はさておき。

さいご。

何事も、自分のことを相手に説明できるくらいには知っておく。

これはきっと多様性社会になっていくならば必ず必要になってくるし、重要になってくる気がします。

日本のこと、そんなに理解しているわけじゃないけれど。借金大国で、格差社会がひどくなり過ぎて埋められない溝があること。高齢者に対して若年層が団子になってぶつかっていこうが敵わない社会であることとか。

それくらいです。私が日本の社会について自分の辞書に書いていることって。


ふへ歩

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