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【愛しの女子たちへ】大学生、週刊誌で働く⑥

1. 活字はこわい

毎週必ず10本の取材企画書を作って編集会議に臨むことは前回書きましたが、それが結構きつい。その間、もちろん大学の授業にも出ていましたよ。そりゃあ代返を頼むことも多かったけれど。その上、取材にも行く、原稿も書くわけですから、一日36時間くらいの勢いで動いていましたね。21歳だったから、徹夜をしても平気だったんでしょうね。今じゃ絶対できません。
せっせと企画案を持っていきましたが、残念ながら余り通りませんでした。ではどういうものを取材していたかというと、大病をした人や障がいを持つ人が仕事で成功した物語とか、人道ものといったものを任されました。
とはいってもデータマンですから、最終原稿になるわけではないのです。ただ、アンカー(※1)という最終原稿をまとめる人が使いたくなるようなキラリと光る言葉というのでしょうか、それをどれだけ多く取材対象者から引き出せるか、アンカーがまるで見に行ったようにその情景等を描き出せるか等がデータマンの役割になるわけです。

私は取材対象者の言葉や心理を必死で逃さないように聞いて原稿に書き込む努力をしていましたが、編集者に原稿を渡し、レイアウトが終り、何字で原稿をまとめてくれとアンカーに渡すという工程の中で、しばしば編集者やアンカーから質問がきました。
「お~い、ちょっとこの人間はワイシャツにネクタイだったのか、Tシャツだったのか」
「何を飲んでたんだ?」私は取材対象者と2時間も話していたのに、ワイシャツだったのか、何色のスーツだったのか、髪は長かったのか等々外面に全く関心を持っていないことに気づかされたものです。もちろんそれからは会うとすぐメモしましたけれどね。

自分が取材した人に掲載紙を送るのですが、お礼のハガキがくることもあれば、非難の電話もありました。とても取材対象者と仲良くなり、話もいろいろ聞けたと思えた取材で、非難の電話がきたこともあります。「自分の言ったことと違う。ニュアンスが全然違うじゃないか。すごく傷ついた」というのです。私はその人になりきったくらいに気を入れて書いたのに、なぜそんなに怒られ非難されるのか悲しくなりましたが、取材者が対象にのめり込んで仲良くなったと思うことがそもそも間違いなんですね。書き手として未熟なことを十分認識し、客観的に対象者を見ないと、そこにギャップが逆に生まれて、非難や怒りを引き起こす。それに活字というのは一人歩きしてしまう。取材や文章は怖いものだとつくづく思いました。

当時、大卒の初任給が2万~3万円の時に、私は8万円以上の原稿料を稼ぎ、夜遅くなれば、文京区の護国寺から小平の津田の寮までタクシーを飛ばして帰るような生活をしていたのですが、そうした生活を楽しみ、傲慢になっていたのでしょうね。仲良くなったと思っていたのは私の方だけで上から目線がどこかにあって、障がいを持つ取材対象者を傷つけてしまったのかもしれない、私は取材者に向いてないのかもしれないと落ち込みました。そんなある日、編集会議に出向くと「今日からより子は出入り禁止とする」と言われたのです。

2. 出入り禁止

TsuさんとデスクのYさんに出入り禁止といわれると、「やれやれ、編集会議がこれでまた短くなって助かるな」などとみんなニヤニヤしています。
「どうして出入り禁止なんですか。私の取材がダメだからですか」食い下がりましたが、
「あのな、お前、ちゃんと卒業論文書いて、卒業してから一人前の口を聞け」と言われてしまいました。

「昼でも食おう」
と事件班の中では一番私に年の近いBさんが、みんなで良く行った近くのとんかつ屋に誘ってくれました。
「みんなホントはより子がいなくなると寂しいんだぜ。だけどこのままお前が卒業もしないでこんな仕事続けちゃよくないって心配していて、あれはTsuさんだけの意見じゃなくて、みんなでな、出入り禁止にしようってことになったんだ。卒業論文書けてないんだろ」
「うん」
「ちゃんと書いて卒業しろよ」
「・・・・・」
「みんなの好意を無にするなよ」
「・・・・・」

事件班の人たちはその仕事に入ってくるまでどこで何をしていたのかなど、誰も互いに聞いたりしません。特に私は何も知りませんでした。でも、アポ待ちでたまたま喫茶店で4~5人たむろすることがあると、話しているのは政治哲学や文学で、まるでヤングレディで取材していることとかけ離れているのです。グラムシ(※2)だとか、トリアッティとかの名前が飛び交い、「お前、グラムシなんて虫いたっけという顔してるぞ。一生仕事したいというならもっと勉強して教養を身につけろ」と良く言われました。

彼らは京大や早大の露文、中央大の法学部などを中退しているらしく、なぜ中退かといえば、60年安保闘争のせいのようでした。世間でいう「まともに卒業」して「一流会社」にも入れたでしょうに、安保闘争の時代が青春とぶつかり、とても体制の側で働く気にはならなかったのでしょうね。どの人にも影があり、またその影が、21歳の学生運動もしたことのない、何も知らない私には魅力的でした。

「みんないい人よ」と私が言い張っても、そういう「はぐれた人」たちと一緒にヤングレディのデータマンをしている私を父は心配し、経済で有名だったダイヤモンド社の試験があるから受けろと言ってきました。

ここの二次試験は面白かった。一次を受かった人たちをPTAの会合のつもりで子どもたちの非行問題についてグループで話し合わせるというもので、ほとんどが男子学生で、多分女子は私一人だったと思うのですが、もともと入社する気はないので、社長や重役が周りにいても気後れも緊張もせず、会合を楽しくリードして、合格してしまいました。

そのダイヤモンド社入社も蹴ってデータマンをしている私を事件班のお兄さんたちは、親心から「出入り禁止」にしたのでした。

3. 優しすぎる男たち

ダイヤモンド社に断りの電話を入れた私に人事部長が驚いて「会いに来てほしい」と連絡してきました。それなのに私は結局入社しなかったんです。経済にアレルギーというか誤解があったと思います。

その後、30代初めにニコニコ離婚講座(※3)を主宰したことで、全国各地から悩みを抱えて講座に参加する人が何千人にものぼり、その人たちのケースから、人と人の関係性に「経済」が深く関わることを痛感し、「経済」の重要性を認識しました(遅きに失しましたが)。夫婦で経営していた町工場が、銀行の貸し渋り・貸しはがしにあって倒産したり、夫がリストラにあうケースが多く、どんなに愛しあって結婚し子どもまで生まれたケースでも、深刻な経済的破綻が互いの関係性を破壊していくのです。その時の経験が、後年、国会で財政金融委員会に所属する一因となったともいえます。しかし当時の私は人と人の間の愛や葛藤や人生どう生きるべきかのほうにしか関心がなかったのです。もちろん大学で夢中になっていたシェイクスピアにも、「経済」というものはでてきたのですが。

ダイヤモンド社でも、「人には関心あるんですが、経済が面白いとは思えないんです」と生意気なことを言いました。「経世済民」(※4)ということも知らない愚かな人間でした。でもその私に「君のやりたいような雑誌を発刊することになっているからその部署につけることができるよ」「君の父親だったら、縄をつけてでもヤングレディを辞めさせてうちに来させるけどな」とまで人事部長さんは言ってくれたんです。

それにしても力道山の未亡人K子さんの父上も、ダイヤモンド社の人事部長さんも、そして女性週刊誌ヤングレディの事件班の人たちも、みんな親身に私のことを心配してくれました。私の人生は幸運なことに、いつもいい人たちに出会えてきました。せっかく出会えてもなかなかその人たちの言うことを聞かないあまのじゃくでしたけどね。

ところが事件班のお兄さんたちの「出入り禁止」には素直に従い、3ヶ月間、猛勉強で卒論を書きあげ、無事卒業したんです。そして再びヤングレディ事件班に復帰していたら、「明日、試験があるんだけど、まだ入社する気ある?」と大学の先輩からの電話。
夏休み中、新宿の喫茶店から津田の先輩に電話をかけまくり、会いに行って履歴書を置いてきたうちの一人からでした。
「ヤングレディで仕事していて面白いから」といいましたら、「お昼ごちそうしてあげるから、とりあえず受けに来なさいよ」といいます。それがジャパンタイムズだったのです。

<脚注>
※1 この頃、ヤングレディのアンカーをしていたのは私を紹介してくれた渋澤幸子氏以外に平岡正明氏、立花隆氏、小中陽太郎氏らがいた。

※2 アントニオ・グラムシ(1891-1937 イタリアのサルディニア島出身)
資本主義圏最大の共産党である、トリアッティ率いるイタリア共産党の理論的基礎をきずいた革命家・理論家。

※3 ニコニコ離婚講座
1979年3月、円より子(まどかよりこ)が主宰する母子家庭の母親の支援ネットワーク「ハンド・イン・ハンドの会」の母体となる「ニコニコ離婚講座」をスタートさせた。
当時は今以上に離婚して女性が経済力をもつことが困難で、悩んでいる人が多く存在していた。また、離婚が社会問題と捉えられず、個人の人格欠損の結果のように捉えられる風潮が強かったため、正確な情報が入手困難だった。離婚するにせよ、しないにせよ、離婚後のことをしっかりと意識した上で 「離婚」を考えることが、自分の生き方や家族のあり方を見つめ直すきっかけの場として講座が始まった。それは、男性の働きすぎや固定化された性別役割分業など社会を変える契機ともなっていった。

※4 経世済民(けいせいさいみん・中国の古典に登場する)
「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」
世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと。また、そうした政治をいう。「経」は治める、統治する。「済民」は人民の難儀を救済すること。「済」は救う、援助する意。「経世済民」を略して「経済」という語となった。

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