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ぬるま湯に飛び込む

ぼくの通っていた母校は東京タワーの真下にあって

「放課後に遊びに行くなら六本木か銀座だよね」

みたいな冗談を言える場所にあった。
もちろん遊びに行くと言っても、六本木にある映画館だし、銀座にあるカラオケ歌広場だったというだけだ。

調べればすぐに出てくるので名前をだすが、ぼくの母校は【芝温泉】と半ば揶揄された呼ばれ方をされている。

中高一貫校であるために、中学3年生から高校2年生くらいまでの時期に中弛みをしてしまい、学業的な成績が伸びにくく、大学への進学にも影響してくる的なことを揶揄したことばになっている。

要するに芝温泉というぬるま湯に浸かる的なことである。

ぼくが通っていた6年間の間にも、当然その揶揄することばが自分たちのもとに届くし、偏差値的にもう1ランク上の学校に対するコンプレックスが自分たちの中に無かったとも言えない。

そんな気持ちを抱えたぼくたちは、高校2年生の秋、自分たちが主役になれる学園祭のテーマに【芝温泉】ということばを選んだ。
(正確に言えばヒエラルキーの頂点にいるひと達が決めただけだけど)

そのことばが揶揄のことばであるということを知りつつ、そのぬるま湯の良さ、暖かさを知ってもらうというテーマのもと、学園祭に来てくれたお客さまをもてなすというコンセプトだったように思う。

“ぬるま湯”ということば、そんなに悪いものなのだろうか。
一般的には悪いことばとして使われていることが多いように思うし、ぼく自身、自分がぬるま湯に浸かって甘んじているということがちょっと許せない。

一方で“ぬるま湯”というのはずっと浸かっていられるという利点もある。

ぼくの地元のスーパー銭湯に“不感湯”という人間の体温とほぼ同じ温度のお湯が張られたお風呂がある。
熱くもなく、寒くもなく、本当にずっと浸かっていられるので、ぼくはその不感湯が好きだ。

正直、ぼくは今“ぬるま湯”に浸かっているという実感がある。
現時点でぼくは俳優としての自由をものすごく許されているし、自由を許されているからこその発想がどんどん湧いてくる。

そうなってくるといかに自分を律するか、というところにかかってくる気がする。

【自立した俳優】というのがプロの俳優としての至上命題であるとぼくは思っている。
だからこそ、今の現場の自由さを享受しつつ、自分を律するというバランス感覚を養うことができたら、万々歳だ。

大胆に、大盤振る舞いに、ぬるま湯に飛び込んでやりたい。

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