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ヨニと瞑想の対話 1

対話者:中内麗子(あめつちのひめ主催。ヨニの話し手。)
   :中内健伍(公認心理師。瞑想の話し手。)

ヨニと瞑想

健伍(以下、省略。セリフは「」で記載)
「ヨニの瞑想って、色々な難しさが、あると思うんだけど、その難しさは、瞑想における難しさとイコールだと思うんだ。例えば、自己改善でも何でも、何らかの目的意識だったり、こちらの思惑に合わせてヨニを扱うなら、瞑想にはならない。それから、何かエクスタシーが生じた際、そこで快楽の方向に行ってしまうと、依存や逃避という形になって、日常が変化するまでには至らない、とかね。ヨニの瞑想って、心と体をダイレクトに扱うものだから、一歩も間違えられないくらい繊細なものだと思う。だからこそ、丁寧な説明が必要だし、ヨニの「瞑想」となるには、言葉の通りだけど、瞑想への理解が欠かせないと思う。」

麗子(以下、省略。セリフは「」無しで記載)
うん、そうだと思う。わたしは、ただただ、ただ、ヨニ、ヨニとは…神聖な場所。神秘の宇宙の扉。それを知りたいだけ。そしてそれが本当にそうで、ヨニの在り方や、感情の仕組み、ヨニからの日々の癒しや、日々のバランスが整えられていくことなどを、ヨニの瞑想が、とてもクリアに見せてくれる。そうした答えが、ヨガや瞑想で伝えられている事と同じ形で現われてくる。快楽という言葉が出たけど、なぜヨニが快楽の場所として快楽で終わってしまうのか。それは、快楽の場所に、本当には何があるのか…と、視点を変えるだけで、直ぐに、サラッと答えをくれるんだよ。だから視点を変えるだけ。瞑想を知っている人。真理やヨガで本当を知りたい人は、ヨニ瞑想は、直ぐ、分かるはず。

「そう、そうなんだけど、その瞑想の理解というものにまた、難しさがある。だからこそ、お互いの対話を通じて、ヨニと瞑想それぞれの観点から意見を出し合って、より明確なものにしていきたいということが主な狙いになるよね。」

うん。それはすごく新しい観点。女性器というと、自己改善や女性性開花、美容、エクスタシーやオーガズムという観点から語られる事が多いけど、ヨニにはそれ以上のものがあるし、それに、それ以上の視点からヨニを見ていかないと、ヨニから本当の声が返ってこないと感じてる。そしてその視点というものの中でも、瞑想という事が中心になってくる。だから私はヨニの瞑想と言っているわけだし。

ヨニの道

「うん。それで、早速なんだけど、前の記事を参考に、まずは、ヨニのベル、ヨニの道にある光やツボと言われているポイント、そして子宮の扉とは、それぞれ何か教えてもらえる?」

ヨニのベルは、陰核。ヨニの道は、膣。子宮の扉は子宮頸部。

「ヨニの道、というと、膣全体?」

膣全体。道全体。ヨニの道の中にあるポイントの中でも、主にエネルギーの中心地となっているのが、いわゆるGスポット。ヨニの道にあるポイントは、Gスポットも含めるんだけど、本当は無数。無数に、ポイントがある。だけど、そこのポイントの中心にあるところがGスポットって呼ばれていて、そのポイントは大きな光ではあるけれど、実は膣には、たくさんの、無数の光があって、どこでも答えをくれる。

「何の答えをくれるの?」

感情。一つのポイントに応じて、あ、それはそこの感情ね、あ、それはそっちの感情ね、と、ヨニから答えを教えてくれる。でも、感情だけでもない。自分の持っていたこれね、あれね、とかっていう場合もある。

「例えば感情以外だとどんなものがある?自分の持っていたあれ、これ、というのは?」

例えばとても疲れた時、自分が精神的に、こういう部分を使って過ごしていたなっていうのは、自分の中で凝っていたり、疲れが溜まっていたりする。そこのポイントでもあったりするから、自分がどういう余計な力みを使っていたのかということんの答えや、そこを瞑想することで癒えたりとか、チャージしたりすることができる。

「道にある光というのは、感情のツボとほぼイコール?」

イコールだね。イコール。

瞑想か快楽か

「じゃあ、ヨニの道というのは、単に快感の場所では無い?」

もちろんね、快感で入っちゃえば、とにかく快感のツボだけど。快感に囚われずに、ヨニの道にあるポイント、ヨニが"ここ"って言っているポイントに、意識をチェンジさせて見ていくのね。だから、気持ちが良いというエクスタシーの方ではなくて。でもポイントとなる入口は快感と同じ部分だよ。同じ部分なんだけど、視点をポンと変えるだけで、そこは確実に瞑想に入れるから、快感には囚われない。

「どちらが大事なの?快感で気持ちが良いというのと、ツボの方を見ていくのと。」

ヨニの瞑想で、自分の、自己観察をしていくのであれば、ツボの方に視点を変えてやるのではないと、やるつもりはないよね。意味はないと言ったら違うのだろうけど。快感だけに焦点を当てるというのは、やるつもりはない。ツボを見て自己を観察していく事が面白いからやっているだけで。それで、まぐあい(性行為を表す大和言葉)の時には、全てエクスタシーの方に入っていく。というのも、そこではまた別種の、一人で瞑想する時とは違うエネルギー、愛のエネルギーを感じるから。

「快感やエクスタシーなどに意味はあるの?」

あると思う。ただそれは、愛のエネルギーの方に行くか行かないかの問題で、一人でヨニの瞑想をしていく方向性で生まれるエクスタシーというところにも、子宮の扉の瞑想で言えば、一人で座禅を組んでする瞑想と同じ至福、同じ愛を感じるし、まぐあいの時には、もっとすごいものがあるんじゃないかっていう感覚があるの。それからヨニの道においては、快感や、エクスタシーという観点から入った人にも、最後には手放しや解放というものが残る。

「今はヨニは道というところに焦点を当てたいのだけど、今言ってくれた、ヨニの道で快感やエクスタシーから入った後に起こる手放しや解放というものと、ヨニの道のツボを見て、自己観察をして、感情が解放されると、当然自分が解放されていく、その解放とは同じなの?それとはまた別なわけだよね?」

そう言われると同じように解放されているのかな、感じていないところで。だからわたしはツボを見ているから、この感情だ、と分かるけど、でもそこをエクスタシーとして感じているだけでも、同じことが起きているかもしれないよね。ただ私の場合は、ヨニって、すごいものなんだろなっていう観点から、ヨニの瞑想に入ったでしょう。それでもともとさ、ヨニの道のこんなところに心があるとか、こんなところに感情があるなんて、思ってもみずにやり始めたわけじゃん。それから子宮の扉の方で瞑想をしてみたら、あ、瞑想と同じ至福、同じ愛を感じるっていうことを知ったわけなの。だから、ただ単純に、あ、そういう事なんだって言って、今瞑想をしてるんだよ。だから瞑想をしてるんだよ。健伍くんにとっての座禅の瞑想や、私がもともとやっていたヨガが、ヨニの瞑想に変わってるだけの話。だからオーガズムってくっつけちゃうと違うし。私快感を得たいがためにやってるわけじゃないからさ。瞑想をしたいからやってるわけで。だからそういう意味では、やっている事は全然違うんじゃないのかな。でも、行き着くところは一緒なんだよね、きっとね。だから抜けた後は一緒かもしれないよ。ヨニの瞑想してる人と、ただ気持ちが良い快感を感じてる人の、行き着くところは、もしかしたらほんとに一緒なのかもしれない。行き着く先というか、感じてる至福だったり愛だったりっていうのはね。

「でも単純に快感や快楽で人が解放されるなら、それにも意味はあるということになる。」

うん。そうかもしれないよね。

「でも、快楽というと、通常執着してしまう対象になるし、依存が生まれやすいし、もう一回それを味わいたいとか、それが日常生活の中で大きな領域を占めてしまって、日常生活に向き合うときに、例えば、会社の生活とか、子育てとかって、エクスタシーとは反対のところだから、そういうところに向き合えなくなったりとか、そういうところがつまらないところだな、もっと快楽の世界に浸っていたいなとか、そういう事が簡単に起こり得ると思うんだよね。瞑想の世界でもそうだけど、始めたばかりの頃は、瞑想の世界に意味があって、心地よさに意味があって、こっちの俗世間の汚いところが嫌になるというのは、よくあることなんだけど。日常との間に壁を作ってしまって、日常生活を本当に変えていく力にはならない。そういう風に快楽っていうのはなっていくと思うんだけど。だから本当の意味で快楽が人を解放するのかなっていう疑問はあるんだよね。」

あのね、だから膣、つまりヨニの道にある光とツボから一歩入ったところにいく、二つの道があるでしょう?快楽なのか、瞑想による自己観察なのか。ていうのはきっと、そこに何があるか、何を持ってそこにいくかだと思うんだよね。だから快楽とか、そういう執着を持っていくと、そこでループしてしまうわけじゃない。これが、ヨニじゃなくてもいいわけじゃない。お酒だったり何とかっていうところと同じ向き合い方。だから、その人がそういう姿勢でその行為をする時点で、例えば心が一時的に解放されたとしても、そのループの中で同じ事が巡ってるわけだよね。でも、私の捉え方は、ここに執着しているというよりか、もうヨニが呼んでるからそれをすることであって。で、まあするでしょう、呼んでるからね。すると、そこで起こることは、快楽ではなくて瞑想で、ヨニの道で起こっている瞑想は、日常生活の日々のバランス、日々を整えているプラクティスみたいな感じ。ヨガみたいな感じなのかな。

「そう。快楽だけではループしてしまう。一時的な感情の解放や手放しがあったとしても、心の癖だとか、また重荷を背負ってしまうような心の在り方は変わらない。逆にいうと、そうした心の癖だとか、そうした心の在り方は変わっていくの?ヨニの瞑想の全体の中で。要は本当に日常生活でも自分の心の癖を持ち込まないで、世界を見ていく。瞑想なんかでは、自分の心の癖だとか、心の働き方を、刻々に見つめていくことによって、そこら辺まで取り組むわけじゃない。もう真っ新に世界そのものを見ていく。だからそもそも、その疲れだったり凝りだったりを溜めないような。」

でもね、ヨニの場合にはね、自然と変われていってる。

「自然とそういう方向に変わっていくという事なんだね。自然と、そういう世界に対する見方をしてるっていうこと?」

してる。

「結局、麗子さんが快楽や執着の目で持ってヨニを見ていくんじゃなくて、そこに何があるんだろうっていうさ、その純粋な観察や関心をヨニに向けている見方と、正しく世界を見る見方とは同じだと思うんだよ。瞑想の心で世界を見ていく見方っていうのは結局、何かを求めたり、あるいは退けたりすることなく、今ここで、自分の精神と周囲の世界において、何が起きているんだろうっていう純粋な見方なわけでしょう。だから麗子さんが見てるヨニの見方っていうのが、そのまま日常生活での瞑想の見方とイコール。だから実際、麗子さんはヨニの道を通してそういう世界の見方を学んでる。だから自然とそういう風に、日常生活も変わっているのかなっていう気がするんだけど、どう思う?」

うん。そうだと思う。

ヨニと日常

えっとね、ヨニの道の話を順を追って話をしていい?最初にヨニの道と向き合った時に起きた事は、やっぱり過去の感情だったり、自分の知らなかった感情だったりが、色んなところから湧き出てきて、きっとこれは一時の浄化が起きてたと思うのね。ヨガでいうカルマの精算とでも言うのかな。瞑想中に、月の引力で中心にグーっと整えられたり、本当、色々、大きな波や火山のような動きが起きて、浄化が起きた。でそれが落ち着いた今。今は、日常生活だったりとか、もちろん日頃起こしている心の癖の悪い部分を教えてくれたりとか、もしくは、忘れていた自分の喜びの感情っていうのを、こんなにあなた良いところあるんだよってポンっと教えてくれたりっていうのを出してくれる。だから結構、日常生活的に近いものの教えを毎日毎日繰り返し教えてくれている。この人(ヨニ)とはね。で、それをヨニが呼んでくれているから、私もそれをする。

「うーん、じゃあ始めた頃は意図せず、自分でも見ていない深いところっていう物と、どんどん向き合っていたような感じ。」

うん、掘り出されたというかね。

「今はもうちょっと日常的な、要はもっとありふれたものをどんどんどんどん。」

うん。それとか、日常生活の中での、こういうところあったよね、こういうところが疲れてたよねっていうのをハッと教えてくれながら、そこをクッと戻してくれるような感じ。それをやっていくうちに、自然と自分の中で変われていっているなっていう感じはする。気づきとして確実に得てるからね。そういう自分に。そう。

「そういう風に、自分のことを学んでいるわけだよね。あるがままの自分をヨニが教えてくれて、そこから学ぶっていうのは、そのまま、自分の目を綺麗にしていくことなんじゃないのかな。日常生活の見方自体を綺麗にしていく。瞑想でも同じで、あるがままの自分を世界との関係の中で学んでいくわけだよね。そういう意味で、ヨニの瞑想は、最初に話した快楽による一時的な解放と違って、本当の意味での自由を人にもたらす事に、直結してるんじゃないのかな。」

うん。だからこそ、その先の子宮の扉があるって感じてる。

子宮の扉

「子宮の扉という言葉が出てきたけど、それはどういうこと?」

子宮の扉はね、私自身、まだまだこれから色んな経験をしていくと思っているんだけど、そこでの愛を感じる。全てが愛の中にあり、そこで呼吸が存在している。自然と微笑みを浮かべてたり…ね。そんな感覚が、やっぱり子宮の扉が開くと、あるんだよね。

「全てが愛の中にあるっていうこと?」

そうそうそうそう。で、それが、理屈をこねて、それを経験したから、これがこうなってこうなって・・・なんて、私勉強しない人だから、分かんないけど、そこに、自分が繰り返し繰り返し、触れていく、そこに入っていったりとかしていくことで、変わっていくような感覚がある。

「そっか、子宮の扉が開かれると全部が愛の世界に変わるんだ。」

変わる。だからね、健伍くんに言ってたけど、ヨガとか瞑想とかの仕組みが分かるって、言ってたのは、まず、ヨニのベルっていうのは、この目に見える世界のことの、色んな事をキャッチする場所だと思ってるの。良いことも、悪いことも、鈍感になって気づいていなかったところの気づきだったりとか。目に見えるところの世界をキャッチしていくところ。繊細になってね。で、膣っていうのは、感情。そのように、表層から入っていくでしょう、心に。で、最後に子宮の扉っていうのは、本当にこの自分の愛のところに繋がっている。

「ほんとだ。これってさ、瞑想しててもすごく同じで。瞑想も、目に見える世界をただ見つめている。それから、目には見えないけど、自分の心の中で生じているあらゆる動きを、ただただ見つめていく。そのようにして、今起きているあるがままの生に気づいていくと、まさにその生そのものが、愛の世界であったことに気づいていく。本当に、ヨニ瞑想で起きている事と同じなんだよね。」

うん、同じ。だからそれを健伍くんに言ってたのよ。ヨガとか瞑想で言われていることがヨニでも現れているっていうのが、そのこと。

「目に見える世界や、感情と心の奥に、その愛が広がっているっていう。」

うん、そう。仕組みが一緒っていうのかな。

「それを日常生活の中でも、子宮の扉が開かれた状態の世界で、見ていくことができるとすごいよね。」

すごいよね。だから、それを知りたいわけよ。でも確実に変わっているか
ら、自分が。

「日常生活の中でも、そういう風な世界が広がっていくようになっている。」

うん。だから目に見えないものを察知することすごく多くなった。それは、ヨニのベルだったりとか、ヨニの道で見ていく心というところも合わさっての、クリアーになって見えてきているということなんだろうけど。

「目に見えないものっていうのは?」

うーん。

「愛っていうこと?」

愛だね。そう、愛だね。例えばさ、妖精を感じるとかね(笑)。そういうことかな。カラスの言葉が分かる気がするとかさ。そういう感じ。

ヨニのベル

「ヨニのベルっていうのは目に見えるところの世界を繊細にキャッチするものという話が出たけど?」

そう。そんな気がする。もちろんね、エネルギー的なものもあるよ。

「ベルが繊細にキャッチするっていうのは、何をキャッチするんだろう?ベルがキャッチする目に見える世界っていうのはどういうことだろう?ヨニの道が心、感情で、目に見えないっていうのは分かるんだけど。」

目に見える。生きている上で、例えば今までの私の生活スタイルの中でね、自宅の男子トイレが汚いのは分かってた。だけど、そこは、ヨニのベルを意識し始めてから、男子トイレを綺麗にし始めていたりとかっていう動きに変わってたりとかね。引越し後の山盛りの荷物の片付けだったり、障子を張り替えてたりとか、いいや、いいやになって、鈍感になっていて、十分に気づけていなかった事に、取り組み始めたんだよね。

「そういうことか。なんかあのさ、麗子さんが、日常でしたくないことをするようになったっていう話があったんだけど、それはかなりヨニのベルと関係があるようなところの話?」

関係があると思う。

「もう一つ言っていた、体の欲求に直ぐに答えているとか。」

うん。そうだね。

「それから、見て見ぬふりをしていたことをやっている、やっていた、とも言ってたね。こういうようなこと?」

うん。こういうようなことに近いかな。

「ていうことは、見たもの、要は、事実。現実。」

うんうん、そうそうそう、現実だね。

「実際に起きている事柄。それをパッとそのまま、ありのままを見て、パッと動く。っていうような力。それをヨニのベルがそうさせてる。」

うんうん、そうそうそう。たぶんそこに思考とかエゴが入ってこない状態で動けてるっていうのかな。

「それはヨニのベルのおかげなんだ。」

だと思う。ヨニのベルと、もちろんヨニの道を通して、自分自身が軽くなっているっていうのもある。

「そうだよね、感情の解放とかもあるんだろうけどね。どうしてそう関係してるんだろうね、ヨニのベルとね」

私自身、ヨニのベルってまだまだ探求が足りてないと思ったの。表層すぎちゃってて、全然見てなかったの。重視してなくて、やってなかったの。

「だけどかなり重要なんじゃない?だって起きている事柄っていうが、実際真理なわけだから。今起きている事柄っていうのがね。」

ヨニのベルは、構造的に言っても、8000の快楽だって、快楽しかない場所でしょ?

「本当に快楽しかなかったら、あんまり意味はないよね。人間として。」

そう。だからなんだろうって、今、もう一回、この子(ベル)と、もっとちゃんと向き合ってみたいなと思ってる。

「ただの快楽の場所じゃなくてさ、本当は、事実、起きている事柄に応じて、無私、無欲、要は自分ていうものが入らないでパッと行動に移していく力っていうのを宿しているんじゃないの?」

ああ、そうかもしれない。そうかもしれない。

「それって、真理そのものだと思う。」

ああ、あのね、ヨニのベルの、一歩超えたところにいく感覚と、自分が日常的に動いた、思考が入らずに動いた後の、この気持ちが良い感覚と、同じなのかなって今思った。

「本当、似てるんだ。」

似てるかもしれない。

「ヨニのベルの快楽の一個奥にある、そのスッと気持ちが良い感覚と、日常で思考が入らず、サッと物事に応じている時の感覚が一緒。」

そうだね。

「それはやっぱり、自分がないっていうことの軽さなの?」

そうだね、うん。そこになんか一緒に調和させられた、調和した喜びの感覚、かもしれない。ヨニのベルで瞑想をするとね、目に見える現実、現状に、満たされていて、余計な思考も入らず、ただ今を生きているという感覚なんだ。

「ああ、なるほどね。つまり、ヨニのベルは、あるがままの事実、あるがままの世界に対しての感受性を宿しているわけだよね。一般には、あるがままの事実以外の何事かを、事実起こっている事に対して求めるわけだよね。そのために葛藤が生まれてしまうわけで。だけど、あるがままの事実に対して、本当の感受性があれば、本来は満たされて生きていけるということなんだろうね。そしてその感受性というのが、今麗子さんが言った、思考が入らない、ということだよね。それが、麗子さんの言う、目に見える世界を敏感にキャッチしていく、ということの意味なんだよ。」

うん、そう。そういうことだ。すごい。すごい。

「ていうことはさ、常に快楽の奥に何かあるっていうことなんじゃないの?その感覚っていうのはさ、ヨニのベルでエクスタシーを感じた後の感覚なの?それともさっきみたいに、ヨニの道みたいに、一方では快楽があるんだけど、一方では心だとか感情があるのと同じように、ヨニのベルにおいても、一方では快楽があるんだけど、視点を変えると、そういう繊細な感受性の世界がある?」

ああ、今の時点ではね、ヨニのベルっていうのはすごい快楽にもっていくから。

「じゃあどういう時にそういうスッとした世界が現れるの?」

もういきなり、グンっとくるの。それでグーンと突き上げていく。

「それはエクスタシーを感じた後の話?その調和した喜びだとかが、ポッとくるっていうのは。」

そう、ポッと最後に喜び。エクスタシーの後の話。だから、ヨニのベルの瞑想は、シャバアーサナのような感覚って言ったの。

「ああ。それはもう快楽とは別なんだよね?」

別。別。快楽の後の。

瞑想の見方

「一方で、ヨニの道においては、快楽と並行するような形で、パラレルワールドみたいな感じで、心の世界が広がっている。」

うん。

「そこは視点を変えれば入っていけるっていうことなんだね。」

うん。そう。チェンジ。

「視点を変えるっていうのは、これは何だろうっていうような純粋な観察だったり、関心、っていう意味でいいのかな?」

うん、そう。そこはね、健伍くんに以前、一般にはヨニから何かを得ようと狙ってしまうんじゃないの?って聞かれたけど、狙っても答えをくれるから。だからやってても、あ、そこ何?とか、そこどういう感情なんだろうって言ったら、ポンって答えをくれる。

「ヨニの瞑想の中では実際には、ヨニの道にある感情や心のツボに当たったとき、ヨニワンドは動かさず、自分も動くことは必要ないっていうことでしょう?」

そう、そこを、そのポイント(ツボ)にあたった時の、先を見るから。だから、もうそこで、じーっ、じーっとしていれば、だんだん、だんだんと、そこが、解放されていく。で、その先にあるのは、やっぱりそこが、パッと手放せられる。

「だからヨニワンドを動かさないっていうことなんだよね。」

うん。

「そこで快楽を求めて動かすっていうことをしないわけだよね。」

しない。ですよ。それでヨニワンドの天然石が出てくるんですよ。

「ていうと?」

例えば、今わたしはホワイトジェードとローズクォーツをやっているんだけど、違うんだよね。ローズクォーツは、ほんとにこう、すぽん!ってやるんじゃなくって、ふわっと包み込むような温かい感覚でそこを解放していってくれるけど、ホワイトジェードは、自分の手となり足となってくれる、ほんとに若き繊細でクリアなパートナーが、そこをやってくれて、スッとそこに、クリアにしてくれる一直線のピュアなエネルギーみたいな。

「そうか。天然石が手助けしてくれているわけだね」

天然石はすごい。

「ヨニの道にある、感情や心のツボっていうのは、結局何なんだろう?」

うーん、そこはね、ただ単に、感情や心っていうだけじゃないんだよね。感情ってエネルギーでもあるじゃん?以前、自分が使った感情だとか精神的な部分を、ここを酷使してしまっていたなっていう事があって、すごい疲れたの。だけど、ああ、今ここを、すごく癒してくれてるんだっていうのがあったのね。だから単純に感情だけの解放じゃなくて、そういうこともしてくれてる。

「今言った中身はどれも一緒だと思うな。感情であり経験であり記憶であり、それに伴う思考であり、うん。要は、過去であるところの自分っていうことでしょう?」

ほんとだ。すごい。

「要するに、過去からずーっと、こう、来てる自分っていうことなんだよね。今に繋がっている自分。それが一つのぎゅっていう粒のようなものになって、自分の中にあるっていうことでしょう?」

うんうんうん。

「でもそれは粒だと見えないから、粒をこう、ぱーっと成長させて花開いて、その全容を、粒の中にある全てを見ないといけないわけだよね。だからそういうことだと思うよ。粒が殻になっていたって、中は見えないでしょう?粒の中を見ないといけないわけだよ。」

うんうん。

「で粒が、粒から芽を出して花を開くと、粒の中にある、記憶だとか経験、それにまつわる感情や思考だとかっていうのを、ぜーんぶ見るわけでしょう、一通りの過程を。その一通りの過程を見ることに意味がある。」

ああ、そうなんだ。そうね、意味があるのか分からないけど、ただ見てるだけ。

「それを見てると、その粒が、最後には花になって枯れて無くなっていく。だからこの全部のプロセスに意味があるし、全部のプロセスを見ないといけないわけでしょう。粒が成長して花開いて、ふぁ〜と枯れていく様子を最後まで見届けているっていうことでしょう?見届けて初めて、粒はその中身の全容を語り始めるわけだよ。そうして全てを語り終わると、粒は自然と消えていく。これが、麗子さんがヨニの道でやっていることでしょう。それを麗子さんはいつも、ヨニから呼ばれていると表現している。麗子さんはヨニから呼ばれて、そしてそれを見届けているわけなんだよね。」

そうだね、そうそうそうそう。まさにそうです。ただただ見届けている。

「で、瞑想でもこれやってる。」

そうなんだ。

「うん」

そうなんだって(笑)。お前今までの瞑想何やってたんだって言われちゃうよね。

「そうだよ。神を瞑想するんじゃないんだよ、瞑想って。自分の中の粒を瞑想してくわけだよ。」

お粒ちゃん?(笑)

「そう、お粒ちゃん。」

(笑)。ああそうなんだ。

「マントラなんて唱えないわけだよ。」

ああそうなんだ、なるほどね。

「だって粒っていうのは、事実あるわけでしょう。事実あるものしか瞑想しないもの。」

日常を変えるヨニ

だからそれを、瞑想だとさ、瞑想をわかっている人、体験している人だったら、それができるけど、そういう概念は頭の中にはいったけど、じゃあどう瞑想するの?何するの?どうやって見るの?って言われて、こうやってって言ったって分からないじゃん。それをリアルですぐに分からせてくれるのが、ヨニ。

「うーん、そうだろうね。いやだからさ、瞑想って言ったって、別にこう座ってやるわけじゃなくって、日常生活の中でやるわけだよ。で、日常生活っていうのは、まさにヨニの道みたいなもので、人と関係していくと、あらゆる粒がそこにあるってわかるわけだよ。自分の中で。」

うんうん、そうだね。

「だから日常生活っていうのが、即ヨニの道みたいなものなんだよ。あらゆるところに、粒が、粒を見せられるような世界に生きてるから。僕たちって。」

そうだね、ほんとそうだね。

「ただ、それを粒として見れないかもしれないけどね。日常生活って、すごい流れがあるからさ。でも、それを瞑想では見ていこうって話。麗子さんがやってることも、たぶん、もっとその落ち着いた環境の中でね、ヨニの瞑想っていう環境の中で、その粒と向き合えているんだと思う。で、結果的に日常生活の中でも自然に、粒に気づいてるわけでしょう?日常生活の中で。」

うん。気づいてるね。気づくようになった。ただでも気づくようになったけど、それはかなり上っ面な自分だよ。上っ面な心の。だけどやっぱり、ヨニの瞑想をしていくと、気づいていないところまで、日常生活の中ででも見えてくる。日常生活の中で気づいていないのも、いっぱいあるからさ。

「あ〜、いいねぇ。」

そこを、教えてくれるのがヨニの瞑想。

「それね〜、すごい、いい。」

ほんっとにここなんだよ、ヨニの瞑想は。もう全然気づいてなかったことを、教えてくれる。

「日常の中でもそういうのを教えてくれるようになるわけ。」

なるわけ、なるわけ。

「やっぱりね、その気づきがないとだめなんだよね、深いレベルに行くには。僕が日常の中で生きてて、色んな粒を見るんだけど、やっぱり表層的なんだよ。僕が見てるもの。」

でもみんなそうだと思う。私だってそうだもん。日常的に見ているものがそうだもん。

「でもその中でも深いものが、ぽっ、ぽっと見始めてるわけでしょう?」

見えるようになってきた。やっと。

「それがね、見えるようにならない。なかなか。僕の実感では。まあ、見てるとは思うんだけど、ヨニの瞑想を実践してる人ほど、スムーズには行っていない気がする。」

うん、そうだと思う。

「ていうのは、やっぱり、難しい。色んな人間関係の中で生きてるし、思考が常に邪魔をしてるから、深いところへふっとは行かない。」

そうだね。私もヨニの瞑想をしてからやっと。まあ本当にこれは自然に教えてくれてる。ほんとに簡単な道だったけどさ。日常生活の中で、分かってなかったことを教えてくれるからすごいよね。だから、マイナスの事の方が気づきやすいじゃん。自分が気づいていなかったマイナスの部分。でも、やっぱり喜びがここに湧いてるんだっていう自分にも、すごく、深いところのね、あるっていうのにも気づき始めた。

ヨニの力

「それでさ、結局さ、ヨニの道でも快楽の方に行くのか、自己観察の方に行くのかって言った時に、瞑想的な観点からすれば、自己観察しないと意味がない。」

うん、うん。ヨニ瞑想でもそうだよ。

「快楽に行っても意味がない。」

意味がない。

「たぶん、その時は気持ち良くても、日常は変わらないと思うんだよね。」

うん。やっぱり気づかないとさ。

「そうなんだよね。」

あ、わたしほんとだ。ちゃんと瞑想してんじゃん。えらいじゃんね。えらいじゃんねじゃない(笑)

「不快な感じもあるんだよね、ヨニの道の中で。見たくないような。」

ああ、そうだね、でも見たくないというよりかは、見せてくるから、そこを感じ続けるしかない。でもその先があるっていうのを、もう確信できるから。

「それは不快だったりもするの?ただ不快っていう言葉づけをもうすでにしていない世界にいるとは思うけど。」

そうだね、気がついたら泣いてたとか。でも、ぐーっと、ああそこの感情ねと思い返して、気がついたら泣いているけど、でも、その先をたぶんすごい信頼してできているから、途中で逃げようとも思わないし。不快なのかもしれないけど、でもそこから離れることはできない。

「不快とも思ってないよね、きっとね。ただその時に思考っていうものが働いてしまったら、不快っていうかもしれないけどね。」

そうだね。そういうことか。あなたすごいわね(笑)。もう初めてだよ、こんなちゃんと話できたの。

「ようやく分かってきた。ヨニってそういう構造になってるんだ(笑)」

すごいでしょ?

「それはね、すごいわ。」

だからね、もうすごいすごいって皆に言いまくってても、その説明ができないからさ。すごいのよ。でも何がすごいかって聞かれても自分で言えないから。

「ただその瞑想の世界に入っていく入口に、快楽に近いものがあるから、囚われやすいとは思うけどね。」

囚われちゃってるんだよね、多くの場合。で、これを、快楽じゃない方を、昔の人は知ってたから、たぶんもう封印しちゃったんだと思うよ。

「封印する必要がないじゃん」

必要はないけど、怖いんじゃない。歴史上、男性がさ、有名な男性たち、世界に名乗るような男性たちが、ここ(ヨニ)を全否定したじゃん。

「何の怖さだろう?」

どうなんだろう、女性の力じゃない?

「それやってたら、本当に女性の力になっていくよね。麗子さんがこれまで話してくれた方をやったら。快楽じゃなくてね。快楽やったってそんな大した力にならないけど。」

そう。で、ここにたぶん、私がまだ感じていない、もっとパワーなものが、開かれていくかもしれないって、私は感じるから、やめれないんだけど。でもそれをたぶん昔の人は、全部封印したんだよ。男が封印したの。子宮なんてっていう言い方をしたりとか、あそこは汚らわしいとか。

「何となくわかる気がする。完全に女性が上を行っちゃうからね。男よりも。」

そうそう、そうだと思う。で、それとは逆にさ、ほんとピュアな男性たちは、ここ(ヨニ)を崇拝してくれたりとか、もうほんとに崇めてくれて素晴らしいものだって言って大事にしてくれたりする人も、真逆にいたわけでしょう?インドなんかわさ。

「それでさ、一つ思うんだけど、ヨニの瞑想を通じて、そのヨニのベルがやっているような、現実に起きている物事を見て、無欲、無私に動くこと。それからヨニの道でやってる、自分の感情と心を、その都度、純粋に観察していくこと、それからその奥に広がっている、子宮の扉が開いた時の愛の世界。これ日常生活でも全く同じ意識でやっていかないと、意味がないと思うんだけど。」

うんうん。うん、あのね、意味がないけど、ヨニの瞑想をしていると、無意識の中でそう変わっていってる。

「無意識にそうやってるんだ」

そう。何度も言うけど、ほんっとにね、無意識。わたしね、ほら、そういうの観察できない人じゃん。日常の生活で。でも、気がつくと、ハッて思って、変わってる自分がいる。

「ヨニの瞑想をやってると、気がつくと日常でもやってる。日常の瞑想としてやってる。無意識で。」

うん。無意識でやってるね。

「そうか。無意識でやる方が本物だろうね。欲がないからね。そうか、意識してじゃなくて、そういうことなんだ。それは素晴らしいわ。」

そう。ほんとに無意識。

「無意識っていう言葉は少し外れてるかもしれないけど、要は、意識してやっていないっていうことだよね、自然とやってるっていうことでしょう?」

うん、そう。

「瞑想だって、瞑想しようなんてしたってできないわけだから、自然とやってる。要はそういう風に、自然とやってるっていうこと。いや、いいね、素晴らしいわ。」

素晴らしいでしょ。

「ようやくその素晴らしさが分かってきた(笑)」

ほんと?健伍くん、もうまるまる、まるっと分かってくれてるんだと思ってた(笑)。

「いや、そこまで分かってなかった。」

そうか。

「どうもありがとう。」

いやこちらこそ、ありがとう。


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