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【267】「時給5千円の仕事がまともな訳ねェーだろっ!?」 時給換算の功罪

特に大学生以上の人であれば、いわゆるアルバイト、つまりパートタイムの仕事や作業をされたことのある方が多いと思います。

アルバイトは大抵の場合、拘束時間あたりいくらというかたちで、つまり時給で給与が支払われるわけです。例えば正社員になったり、別のかたちで報酬を支払われる職になったりすると時給の概念が消滅するわけで、時給の概念がない方が一般に高給取りだったり安定したりするので、私たちはいつしか時給の概念を忘れるのですが、時給の概念を持っておくことの良さというものもあるわけです。

こんなことを念頭において、時給換算を行うことについて、少し散漫な形で考えてみたいと思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。

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まず時給概念が非常に良いのは、これが極めてわかりやすく汎用的な解釈格子だと言えるからです。そもそも「時」と「金」のイメージが実に有用です。

時間は哲学上の極めて重要な問題を構成する要素で、あまり素朴なことを言うと私のお里が知れるというものですが、時間は万人に平等な長さ与えられていて、平等に流れていくものと考えても、差し当たり大きな間違いにはならないでしょうし、素朴に言えばこのような観念に疑義を示すほうこそやや神経質だと言えるでしょう(もちろん、ある事柄に対して神経質であるということは決定的な哲学的資質です)。

私たちは1日24時間平等に与えられていて、同じ速さで流れるその時間を享受していて、それをどう生かすかは私たちの手にある程度は委ねられている、ということです。

金銭も、交換に資するものとしては極めて利用価値が高いと言えます。わりと多くのものは金銭で買えます。だからこそ金銭を欲しがるわけです。

つまり時給は、共有されていてわかりやすいものを用いた尺度なので、汎用性が高いです。

こうした汎用性の高い時給の観念を持っておくと良いのは、私たちの「時間」というものは仕事に対して拘束されている時間のみではない、ということに次第に気付いて、職場への往復の移動時間や、その他の見えざる拘束時間に関しても気が回るようになる、ということです。しかも金という見えやすい、量的な指標を用いて、比較考量できるわけですし、金を使うあらゆる行為に対して敏感になる可能性が開かれます。

制度のうえで時給制の労働をしているかどうかは別として、時給だと思っておくと、時と金に対して敏感になることができるというわけです。

例えばアルバイトをするにしても、「時給」をきっちり考えようと思うと、純粋な拘束時間以上ものを考慮する余地が生じるでしょう。先程見た通勤時間も、またたとえば予備校などで働くときには、授業の準備といった作業に要する時間も、「時給の発生しない拘束時間」ですから、それも込みにした時給というものを考えるようになってくるわけです。

そんな風に自分の生活全体、あるいは職業と紐付けられたものを全て、時給の概念のもとに計算してみることで、自分に与えられている商品価値を知って、愕然としたり満足したり、あるいはもっと冷静に、包括的にものを見ることができるようになるわけです。


私が初めて行ったアルバイトは模試の試験監督でした。スーツを着て電車とバスを乗り継いで(近場とはいえ)田舎の中学校まで行って、5時間程度拘束されてたったの7000しかもらえないというアルバイトでした。

応募したときは私も世間知らずだったので、5時間程度の拘束で7000円なら時給1500円近いしまあいいかと思っていたのですが、往復だけで軽く一時間半以上かりましたし、そのときは交通費も込みで7000円だったので、実質的な時給は絶望的でした。

うだるような暑さの中、家に帰りながら頭の中で計算しました。スーツを着て暑い嫌な思いをしながら、結局9時間程度を費やして7000円だったので、純粋に時給に換算すると1000円を切っていたわけで、私はこの種のバイトはもう二度とやるまいと誓うことになります。どう考えても割にあわないからです。


次にやったバイトは、たしか時給2800円くらいの高校の授業だったと思いますが、それも今思い返してみると、やらなきゃよかったなぁと思われる面があります。

もちろんやらなければ本が買えなかったので、やらないという選択肢はなかったのですが、実にこれも、諸々考えて「時給」を計算しなおすと、非常に効率が悪いわけですね。

個人的にストレスを感じるスーツを着て(私服可の案件もありましたが、例外的でした)、休日に2時間程度授業をするためだけに足を向けるわけですが、もちろん事前に準備が必要で、そこに時給は発生しません。交通費が支払われるとはいえ、通勤にかかった時間に対しては時給が支払われないわけです。私

実質の拘束に対する時給といえば、1500円を切らないくらいだったと言えるでしょう。

これぐらいなら、大学生のバイトとしては一般的に見れば良い方なのかもしれませんが、私はそんなに体力があるわけでもありませんし、時給はもっと欲しいなと正直思っていました(実にこういう気持ちを責めるのは無意味です)。


他にも、家庭教師をやりました。ごく一般的に学生ができるものとしては、表面的な時給で言えば家庭教師が一番良いわけで、時給は5000円を超えていました。医学部の学生などであれば1万円を超えるオーダーで時給が発生することもあるようです。

しかしこれも、まあまあ面白いとはいえ、楽で効率がよいかと言われればそうではない面がありました。

もちろん私服でいいと言われましたし、お菓子もコーヒーも出て、たまたま受け持った生徒は誰も彼も勉強熱心で、確実に受かりそうな場合にはオスカー・ワイルドなど読ませて趣味と実益を兼ねる授業にすることもあり、概して非常に良い時間でした。

が、それはそれとして、往復でやはり1時間程度かかることが多く、しかも授業時間は始めから決められていて伸ばせないのですね。2時間授業をしたところで、往復の時間まで入れれば時給は3000円程度に落ち込むわけで、時給5000円とか言われているけれども、額面としては実際に時給5000円ぶんの金額をもらってはいるけれども、行き帰りにかかる時間を含めれば実質の時給は3000円だったわけです。

しかも失われるのは時間ばかりではありません。体力も失われるわけです。自分の勉強にも読書にも支障が出るわけで、なんだかなあという鬱屈した気持ちを抱えずにはいられませんでした。


その後にやり始めて継続的にお世話になっていたアルバイトは、額面上の時給では劣っていたものの、完全にリモートで好きなときに作業ができて(つまり通勤の必要がなく)、しかも調べ物の時間なども全て労働時間として申告して良いということになっており、「死合」のように一文一文の解釈をあらそうことのできる、(手を抜けるわけではないとはいえ)極めて楽でした。

家で起きてノータイムで作業に入れるわけですし、書籍などの類も申請すれば経費で落とせる極めてホワイトな環境でした。

この職場にはかなりお世話になったものです。

額面の時給の数字は家庭教師をやっていた頃より落ちたとは言っても、通勤の時間がゼロになり、また調べものなどに対しても給与が出ることになったため、実質の時給は圧倒的に上だったと言って良いでしょう。


ふつうに正社員をやっている友人なんかが愚痴を漏らしていたのですが、時給換算してみると学生時代のバイトの方が割が良かったよ、という人は結構いるのですね。

日本の正社員は未だにそうだと思いますが、非常に拘束時間が長いようです。大企業などではそれに見合うだけの給与も支払われているようですが、ともかく時給に換算すると実はかなり安い、ということが多いようです。

そうした観点を踏まえてどうするか、ということはもちろん人によって異なってくるのでしょう。例えば自分で「時給」を決められる個人事業主になるとか、経営者になるのも方法ですし、あるいは福利厚生や社会的信用や安定といった利益を見越して企業に籍を置きつづけるのももちろん可能です。

こうして多様な選択肢が開かれているわけですが、ともかく時給に換算してみるということで、ひとつの透き通った視界を得られ、選択肢が得られるというのは事実でしょう。なにはともあれ時間も金銭もわりとクリアなものだからです。


このように時給換算は非常にクリアな見晴らしをもたらすものですが、もちろんいいことばかりではありません。

時給でとらえることの悪い点は、まさにこのわかりやすすぎるという点、つまりいろいろなものを切って捨てうる点にあります。

切り捨てられる「いろいろなもの」の代表格は、今しがた言及しましたが、例えば社会的信用とか持続性とかです。

目先の時給がいい仕事をやっていても、それが将来に結びつかないこともありうるわけですし——いや、何だって結びつけようと思えば結びつけられますが、筋の良し悪しというものはあります——、時間と金ということだけ考えてやってみると、非常に危険な仕事もあり得るわけです。

極端な例を出すなら、特殊詐欺(その一類型が「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」とか言われるようですが)の「受け子」なんていうものは、「時給」というか「時間あたりの(不当な)収入」という観点から言えば、かなり高いものになります。しかし、そのリスクは高く、捕まれば一発で実刑を喰らうことがあるようです。あるいは違法薬物の売買も、単なる実入りで言えば多いかもしれませんが、リスクは甚大です。
 
『闇金ウシジマくん』第17巻77話に言われる通り、何も能力がなくてもできる「時給5千円の仕事がまともな訳ねェーだろっ!?」、という気持ちで疑いを働かせるべきで、目先の金額につられてはいけないわけです。

実際に時給5000円を超える金額で家庭教師をしていた身とあっては、「まともな訳ねェェー」と言われると、「はい、まともな仕事でありません、学生風情が自己満足で喋って、生徒さんの努力をほんのちょっと支えるかもしれないという程度の、やくざな仕事でございます」と言わざるを得ず、なかなか心苦しい面があるのですが、

ともかく額面のものであれ、実質のものであれ、時給で表示してみると、その時給でもって幻惑されてしまって、仕事が持ちうる負の要素に気づかなくなるということがあります。

あるいは、時給がショボいけれども長期的に価値をもたらしてくれたり、あるいは他の深い魅力を持つ営みというものもあるわけですし、そうした良さが見失われてしまうというリスクもあるかもしれません。

極端に言えば、学生がバイトをする、というのは一般にこのパターンです。授業を受けてきっちり(資本主義社会がどう言うかはともかく、伝統的に価値のある)勉強と研究に励んだところでさしあたって口座の金は増えないので、嬉々として時給1000円居酒屋バイトに望むわけですね。

もちろん働かねば生計を立てられないなら仕方無い面もありますし、アルバイトとでしか得られない「社会経験」もありますが、生活に余裕があって学業を問題なく進められても、大学生はなんらの戦略なしによくアルバイトをするものです。


また、私が在宅の時給制というわけのわからないシステムで働いていたときのことですが、かけた時間の分だけカネが手に入るとなると、成果でなく時間ベースで働きたくなってしまう面があるのですね。

これは明らかに、堕落の始まりです。

特に無限に仕事があって、無限に労働時間を増やせる職場や職場環境の場合には、時給で考える限りは(あるいは時給で考えることが許されている限りは)、無限に時間を割いてだらだらと仕事をやるということがありうるわけです。

気合をいれようと、適当にやろうと、同じ1時間で、給与は変わらないのです。であれば、真面目にやるほうが馬鹿げている、と考えるのも無理からぬことでしょう。

もちろん、あまりだらだらと仕事をやっていて成果が出ないようでは、上からの査察が入って、例えばクビになるとか、そこまでいかずとも叱責されるとか、降格されるとか、そういったリスクがあるわけです。

が、そうでなくても、最低限のことをぎりぎりでこなしていこうとする発想は極めて危険です。目の前のことに気を入れることができずに、果たして明るい人生が開かれるのだろうか、という話です。

もちろん、自分がさしあたり給与をもらっている仕事をなあなあで済ませて、ゆくゆくは力を入れていきたいことに割く力を残しておく、ということは十分に可能ですし、それはあり得る戦略です。

しかし、確固たる戦略がないのにだらだらと最小限のことしかやらない、成果を上げようとしない、非効率を安穏と受け入れ、目の前のことに集中しない態度は、言い方はきついかもしれませんが、明らかな堕落の始まりです。

こうした堕落へとつながる危険を、時給換算という発想は持っているのではないかと思われます。

時給換算してしまうと、長く働いた方がカネが入るわけで、力は抜いてだらだらやるほうがよいわけです。

もちろんよほどの克己心があれば、時給を上げるという発想に行くこともできます。とはいえ、時給はすぐに上がり下がりするわけではなく、時給である限りはどうせ自分以外の誰かが決めて上から渡してくれる、という他人任せな発想もあるわけで、当事者意識も生まれにくく、成果や効率をあげようという観念もなかなか出てこないわけですね。


そこまで極端にならなくても、時給で物事を考える方向に行きすぎてしまうと、大きなリスクが生まれます。

そのリスクとは、時間と金はそもそも交換不可能であること、強いて比較するなら時間のほうが圧倒的に価値があること、時給労働はそれゆえ「いやいや」やることである、という一連の事実を忘れてしまう、ということです。

交換という営為は、そもそも全く異質なものの間でしか行われません。たとえば私たちは10円と10円を「交換」するとは言いませんし、タロイモとタロイモを「交換」することもふつうはありません。全く同じものを「交換」することはできないのです。交換が意味を持った営為であるということは、全く異質のものの授受だからであって、同じものの授受は何の意味も方向も持ちません。全く異質なはずのものにち何らかの等価性を認めるところにこそ、交換の営みの出発点と本質があります。

お金と時間は異質のもので、だからこそ時間をお金に変える「交換」が成立し、その限りで時給と時給労働の観念が産まれているのです。

ではお金と時間はどう違うのかといえば、もちろん色々な違いがありますが、一番重要なのは、時間は買い戻せないけれどもお金は一度失っても稼ぐことができる、という違いが決定的だと言えるでしょう。買い戻せないものを捧げて取り戻せるものを得る、それが時給労働でです。

時給いくらで働いている、と言うことは、「私はかけがえのない1時間をこれだけの金額で売り渡しています」と言うことに近いわけです。自分の時間というもっとも貴重な資源を売り渡すことに対するためらいを持つきっかけを、時給換算の精神によって見失う可能性があるのですね。

言葉の上だけのことだ、と思っていても、私たちは言語で生きているわけで、人間は言語そのものなのですから、どう言葉を使うかは極めて重要でしょう。


もちろん私たちの仕事というものは、全て「時給労働」の側面を持ちます。

たとえ経営者であろうと、多かれ少なかれ時間を金に換えるという側面を持ちます。自分の手を動かさないにしても、意思決定を行うとかシステムを作るとかいうのも、ある意味では時間を使って行われるわけですから、時給の観念はどこまでも適用可能です。それほどまでに「時給」という見方の汎用性は高いものです。

さらに、時給の観念は「時」「金」という数値化しやすくわかりやすい指標を持ちいたものですから、物事を明晰に見せる作用はあります。

が、時給で全てを捉えようとすると、つまり自分がなにはともあれ動いた時間と得られる金額との間を短絡することを許してしまうと、時間をやすやすと売り渡すことにつながりかねない、ということです。

■【まとめ】
・時給とは、時と金という数値として明確にしやすいものを用いた評価の枠であって、物事を明晰に見せる作用を持つ。

・反面、わかりやすすぎてそれ以外の要素を見失わせかねない。時給が高いためにリスクを忘れる可能性もあれば、時給が低すぎて重大な価値を見逃す可能性もある。さらには、時間という貴重な資源の価値を忘れうる。

・バランスが大切です。

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