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【769】裸エプロンのエロティシズム序説(続かない)

裸エプロンそれ自体は裸のうえにエプロンを身につけるだけですが、或る文脈において一定の効果を持つクリシェとして機能しつつ、しかしクリシェでありつつも依然突飛な印象を与えるために用いられます。エプロンが日常的に一定の役割を担っており、しかも裸のうえに直接エプロンを着用することは日常的にはないということ、裸エプロンが実施されるときにはエプロンの日常的な用途に対する期待がほとんど持たれていないこと、が理由として挙げられるでしょう。

エプロンは、簡単な手拭きとして用いることもあるかもしれませんが、料理の際の汁などの飛び跳ねを防ぐために用いるものです。この当初の目的に即して、私は腕まで覆えて防寒にもなる白衣を愛用していますし、白衣が奇妙にみえるなら割烹着のほうがよほど合理的だと思われ、一般的な台所用エプロンでは腕がカヴァーされないのでなんとも中途半端な印象を与えるのは事実ですが、とまれ台所で使うエプロンのもともとの目的は、油跳ねによる火傷のおそれを小さくするとか、洋服が汚れないようにするとかいうことでしょう。

こういった観点からすれば、裸エプロンは一個の倒錯、ないしはエプロンの死です。

無論身につけるものであるからには、肌に何が触れるか、という側面のみならず、視覚にどういった印象を与えるか、ということが問題になるのは当たり前のことではあります。あらゆる洋服は適切な体温調節や風雨からの保護という実用的な機能を持つ可能性がありますが、ごく普通に、見かけという変数をいじくるためのものでもあります。エプロンももちろんそうで、「実用」とはまるで関係のないフリルつきのものももちろんありますし、そもそも色や柄のヴァリエーションは色々です。 或る種の「実用性」から外れた目的を背負わせることには全く問題ありません。

が、裸エプロンが——寝室よりは台所やダイニングを背景として設定されるクリシェが——特異なのは、単に「裸だから」というばかりでなく、実用的な背景に即して着用されているエプロンの実用性を、わざわざ積極的に粉砕しているからです。実用性とは関係のない外見を作り上げているばかりではなく、服を着ずにエプロンを着用することで寧ろエプロンそのものが持っていた実用性に抵抗しているということです。エプロンは料理をするときに限って防御力を一時的に向上せしめるものですが、わざわざ下に服を着ない、ないし服を脱いでからエプロンを着用するということで、わざわざ肝心の防御力を落としているわけです。

バタイユが『エロティシズム』で言及するチラリズムは、いわば隠蔽と禁止のモメントを重ね合わせによるもので、禁止なくして侵犯がありえず、侵犯なくして禁止もありえないという弁証法的とも言える関係の具体例でした。(概ねこうしたところの、とりわけ侵犯において、「死のうちにまで至る生の称揚(approbation de la vie jusque dans la mort)」としてのエロティシズムが見いだされます。「エロい」などという俗語とは少し様子が異なることに気付かれることでしょう。)

モロでないチラの或る種の魅力は、人間の中に埋め込まれている、ということです。何であれ自由にものが動きまわる、その場にある果実や肉を食らえばよい動物的な世界に、人間は時間的労働的な秩序・手段と目的の連関を持ち込む。獣をすぐに解体して食べてしまうのではなく、家畜にして乳を取ったり、仔を産ませたりしてみる。取れた木の実や山菜を貯蔵する方法を編みだす。噛み切ったほうが速いと思いつつも石でナイフを作って使う。……そうして立ち上げられた堅固な仕組みはしかし、もとあった動物的な状態を忘れさせない。常にそこに帰ろうとする運動が陰に陽に吹き上がっている。さらにしかし、一度は堅固な手段と目的の連関の中に入っているからには、そうして帰ろうとする先の世界はもともとの動物的世界とはおおいに異なる。……実にチラリズムにはこうした背景がある、というなりゆきです。

モロがそもそもの動物的状態だとすると、そもそも服を着るという象徴的な行為によって、即時的な快の享受が禁じられて先延ばしにされる。しかしそうした禁止を侵して、そのヴェールの向こうを見出そうとする。それが垣間見える——永遠に見えつづけるわけではない——ことが重要である。……そういう理屈です。

裸エプロンにおいて駆動しているのはしかし、チラリズムのみではありません。或る種のエロティシズムではあるにせよ、ここにおいて、エプロンは隠蔽する布地として(=侵すべき禁止として)のみ機能しているわけではなく、それ自体無用の存在として立ち上がっている、以ってエロティックだ、というなりゆきです。正常な手段-目的の連鎖関係におけるエプロンの存在価値の一端が、素肌のうえに直接エプロンを纏うことで積極的に破壊されている(侵犯)、ということであり、これは猫のミルク皿の上に座ることと同等の効果を持つ、ということです。

裸エプロンは裸とエプロンの特徴をともに実現しているわけではなく(それゆえ「いいとこどり」などではなく)、寧ろ、特にエプロンについては、或る種の目的外利用ないし手段と目的の連関からの引き剥がしが達成されているのであり、エプロンはいわばエプロンらしくないものとして立ちあがっている。

にもかかわらずとってつけたように台所やダイニングルームが舞台になる。これは単純な精神にとっては不気味にもなりうるでしょうし、場合によっては滑稽にも感じられる事態です。あるいはむずむずとした感覚。……

雑駁な言い方をすれば、裸エプロンのエロティシズムは次の2点に宿る、という解釈が可能だということです。

(1)エプロンは禁止する・肌を隠蔽する布として機能し、しかしはためき、侵犯を誘う。裸エプロンはエプロンの背後にある身体をおおいに想起させる。

(2)エプロンは素肌の上に纏うことで道具としての本来の機能をおおいに剥奪されるため——無論裸エプロンにおいてエプロンは申し訳程度に肌を隠すが、それは本来は服の機能で、エプロンの機能ではない——、裸エプロンは特に本来の機能を果たす場であるキッチンやダイニングにおいて特異な効果を生む。


既に断った通り、「裸とエプロンが合わさって相乗効果」という観点を示したいのではありません。引出しうるなにがしかの教訓があるとしても、「色々なところからいいとこどりをしましょう!」などということにはならないでしょう。そんなお題目はクソくらえ、とは言いませんが、それは(難しいにせよ)当然のことです。わざわざ言い直すようなものでもありません。当然のことは当然のこととして確保せねばなりませんが、別にこの点を見たいわけではない。

寧ろ裸エプロンが興味深いのは、エプロンがエロティシズムを成立させる以外何の役にも立っていない、というところです。エプロンはほんらいすぐれて道具ですが、エプロンとして機能しないという一点においてのみエプロンが求められている、ということです。踏みはずされるための梯子、捨てられるためだけに買われた食材、等と通じるというものです。


エロティシズムとはそういうものです、と言ってもよさそうなものですが、とまれ、謂わば消え去ることで顕現する何かがある、役立たないということで発揮しうるプレゼンスがある、内容が排除されてこそ形式が形式として強烈に輝くものがある、ということは実に示唆に富むことです(形式それ自体の自律が模索されるということです)。裸エプロンという具体事例がユニヴァーサルな効力を持つかどうかはともかく——そもそもエプロンに対する観点こそが様々です——、何であれときに私たちが惹かれるものにはだいたいエロティックな要素が胚胎されるのであって、そんな要素を探してみるのも悪くはないでしょう。上に見た(2)のようなものは珍しいにしても、(1)のような単純なものは実に多く見受けられるようです。