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【272】芋虫、猫、シリウス、酷暑:言語が描く星座を読む

太古の人類が星々の配置に動物や神々の姿を読み取ってきたように、原初的な「読む」作業というものは、意味のないところに意味を見出すことであり、世界に意味を与えることであり、書かれていないものを読むことでした。

そうした読みの痕跡を、タイトルに示した言葉の周辺において見てみたいと思います。


いくつかのはじめ方があるのですが、差し当たり多くの人が理解しやすい英語の例から入ってみましょう。

皆さんはcaterpillarという単語をご存知でしょう。

これはもちろん、重機のキャタピラを示す単語ですが、元々は(少なくとも英語という範囲に限定するのであれば)芋虫や毛虫の類を指す言葉です。

私がこの単語を最初に目にしたのがいつのことかは知りませんが、そして純粋に最初に見た時の印象かどうかは覚えていませんが、caterpillarよりも先に知っていたある英単語と何か関係があるのかなというほのかな予感があったように思われます。

その単語とはcat「猫」という単語です。純粋に音が近かった、というわけです。

こうして、意味があるかも分からないところに、私の直感が「2つの単語は強く結びつきあう」という意味を読み込んでいたというわけです。

よく考えてみれば、芋虫と猫との間に関係があるという考えは馬鹿らしいものであるようにも思われ(なにせ、catという語頭の音だけ見るのはあまりに単純ではないでしょうか!)、よくよく検討してみることもなく、最近まで過ごしていました。

ところが最近ふと気が向いて、caterpillarなる単語の語源について調べてみたところ、なんと本当にcatという単語に関連しているらしいのですね。

英英辞書として最も権威のあるOxford English Dictionaryでキャタピラーの項を引くと、「歴史的には何の関連もない」としつつも、caterpillarという語の「あり得る源」として、古仏語・中世フランス語(特に西部)で「芋虫」を意味するchate peloseという表現があげられているのです。

この語は、文字通り読めば、「毛に覆われた猫」を意味します。現代フランス語で「猫」はchatであり、pelouseはふさふさの「芝生」を意味しますから、フランス語学習者には見通しがつきやすいと言えるでしょう。

こうした芋虫と猫のつながりというものは、スイスドイツ語におけるTeufelskatz「悪魔の猫」が芋虫をさすこと、標準イタリア語で「(雌の)猫」を表すgattaがロンバルディア方言では芋虫を指すこととも通じるようです(cf. Oxford Advanced Learner’s Dictionaryのcaterpillarの項)。

だからこそOxford English Dictionaryにおいても、「歴史的には何の関連もない」としつつも、chate pelose「毛に覆われた猫」とcaterpillarをむすびつける説明が推奨すべきものとして提示されているのでしょう。

私たちにしてみれば、猫が可愛がることのできる生物ですが、芋虫を可愛がる大人は稀で、 こんな連想には違和感を覚えられるかもしれません。「悪魔の猫」などと言えば、即座によくあるフィクション上の魔女や魔法使いの像を思い浮かべて、さらに黒猫の姿を思い浮かべるかもしれません。

しかし、「悪魔の猫」が、芋虫や毛虫を指示する言語世界もあるということです。


ここでは古いフランス語が問題になっていましたが、現代フランス語における「芋虫」は果たして猫と関連を持つのでしょうか。こうした疑問が浮かぶのももっともであるように思われます。

この点を見てみると面白いのは、現代フランス語において芋虫を表すchenilleという単語が、ラテン語のcaniculaという単語に由来しており、このcaniculaが猫ではなく寧ろ「犬」に関連するということなのですね。

より詳しく見ると、caniculaというラテン語は、犬を表すcanisという語に、指小辞つまり何らかの意味で小さいことを表す-culaという接尾辞がつけられたものです。

このcaniculaという単語は、ラテン語においてすら犬以外のものを指しうるのです。例えば、或る種のサメはcaniculaと呼ばれますし、近い発想は現代フランス語においても保存されています。chien de merつまり「海の犬」といえば、トラザメの類を指すものです。

現代仏仏辞典としてよく用いられるLe Grand Robertによれば、芋虫が「犬」と関連付けられるのは、芋虫の頭が犬の頭に似ているという事情によるようです。

果たして現代に、しかも日本語の中で生きている私たちがこのイメージを即座に受け入れることができるかどうかはわかりません。そう考えてみると面白いものです。

たとえば逆に考えてみればよいのです。caniculaという犬に関連する語で芋虫を表そうとしていた人々からしてみれば、芋虫を、イモの葉を食べるからという理由で「芋」と関連付ける我々の発想の方が斬新に思われるのかもしれません。「頭の形が似ているんだから、イヌムシでよいではないか」、と。

否、私の知識がそう間違っていなければ、イモの類、特にじゃがいもは大航海時代にアメリカ大陸からヨーロッパにもたらされたものですから、里芋などが古来普及していた日本とは異なり、寧ろ「芋」に類する語で虫を名指すことなどありえなかったのかもしれません。

……こうして、先ほど猫との関連を確認したばかりの芋虫は、フランス語からラテン語にさかのぼるなかで、「犬」とも関連を持つようになります。


さて、このcaniculaいう文字列を見ると、特にフランス語に親しんでいる人であれば、この語が真夏の酷暑に関連する、ということを思い出されるかもしれません。

実際にフランス語にはcaniculeという「真夏(の酷暑)」をあらわす名詞があります。英語にも、canicular「真夏の」という意味の形容詞がありますね。

実はこの種の単語も、ラテン語canis「犬」に由来するcaniculaに関係があるのですね。

先ず、Caniculaは、おおいぬ座のひときわ輝く一等星「シリウス」を指す単語です(「いぬ」ですよ、為念)。英語ではCaniculaがSiriusの別名として通用していますし、フランス語でもCaniculeといえばシリウスです。

シリウスがよく見えるのはもちろん冬ですし、おおいぬ座は冬の星座とされますが、実にシリウスは夏と強く関連付けられる星で、だからこそcanicula由来の語が、夏やその暑さと紐付けられます。

どういうことかといえば、夏の頃になると、シリウスは太陽と共に昇り、太陽と共に沈むのですね。特にエジプトなどでは、太陽が昇る直前に極めて明るいシリウスが昇り始める時期になると、ナイル川が氾濫するということが知られていました。この時期は7月から8月にかけての時期で、まさに(エジプトを含む地中海一帯において)最も暑くなる時期と言えるのです。

ここから、特にフランス語ではcaniculeという単語が、「真夏(暑さ)」を示すようになり、英語にあってもcanicula由来の単語が真夏に紐付けられるようになった、というなりゆきです。

ついでに言うなら、英語においてdog daysと言えば盛夏を指しますが(ラテン語ではdies canicularesですね)、それもこの理由からです。実にDog Starたるシリウス(Canicula)の「日々(days)」だということです。


さて、芋虫を表すcaterpillarと言う単語から、行きつ戻りつ足を進める中で、私たちの景色はずいぶん広がったように思われます。

最初は純粋にcat-という音を介して、これに猫との関連を見ようとする私がいました。この「猫」と「芋虫」の関連づけは実に、古いフランス語や、一部地域のドイツ語やイタリア語が実践しているものでした。

しかし現代フランス語においては全く別の展開が見られることも確認されました。「芋虫」を表すchenilleは、寧ろcaniculaから、ひいては「犬(canis)」から生じたものなのです。

このcaniculaという語は、天上の星々において読みとられた「犬」のうちの、もっとも明るい星をも名指しました。地上の、犬に似るもののみならず、天上における地上の犬の類似物にも関連づけられたということです。そしてこの星は、そもそもの「犬(canis)」から直接イメージすることの難しい、「真夏」と、そしてその暑さと関連づけられることになりました。


以上はもちろん私が好き勝手に、半ば趣味として行った作業の痕跡であり、ごく一部の文化圏の人間が行ってきた意味づけの歴史を垣間見る程度のものです。

しかし、この作業をいくつもいくつも集積し、また都合に応じて実施することができるようになる、ということが、外国語に限らず広い意味で言葉を学び、既存の学問体系に触れ、文字を読み、さらにその背後を問いつづける営みの重要な意味であるように思われるのですね。

これは単に知的好奇心を満たしてくれるばかりではなく、実践的な意味も持つことでしょう。実に変えがたい事実として概ね共有されることはたしかにあるとは言っても、人類のなしてきた重要な進歩は、その多くが意味づけを変更する作業です。

もちろん、私たちのひとりひとりが人類史に残る発見や意味づけを行わねばならない、というわけではありませんし、そんな気概を持つ必要は特にないと言ってよいでしょう。全く斬新な意味を生み出す必要もありません。

とはいえ、先人のなしてきた意味づけをおおいに参照しながら、自分なりの意味を与える・与えられるにようにしておく作業は、ミクロな範囲で、ときに実践的な領域において、おおいに「役に立つ」ことであるように思われます。

言い換えるなら、広義の言語は、というよりも言語によって立てられた概念枠や学の体系は、対象とする事実や事態に関する分析・解釈の手立てとしての性質を強く持つのですが、そうした手立てを学び身につけてゆくことでこそ対処できる対象があり、あるいはそうしてこそ「現実」の姿が明確になる、とは考えられないでしょうか。

フランス語を学ばねばフランス語話者の世界は永遠にわかりませんし、ラテン語を学ばなければウェルギリウスの視覚はとても遠いものになるでしょう。特有の言語体系を持つ法学を学ばねば、法的現実はその姿をあらわしてくれません。利益を挙げつつ社会貢献を行うという視点を持って、謂わば肉体言語というかたちで自ら体を動かさなければ、人はビジネスの現実を知ることがないでしょう。


生きることは、書かれていないものを読むようなものです。そして、書かれていないものを読むためには、既に書かれているものを読むことが手っ取り早いのです。星々の中に自分なりの星座を読み取れるようになるには、先人が既に作っている星座を参照してみることが早いということです。

実に私たちが身につける常識は、無意味な世界に意味を与えてくれるもので、先人の「読み」の体系と言えます。それを受けて、個別的には厳密な規定を免れた個々の生活を、新たに意味づけてゆくことになるのでしょう。


天上に芋虫の星座を読み取ること、シリウスの輝きに芋虫を読み取ること、芋虫の顔に猫や犬を読み取ること。……そうすべきであるとは言わぬまでも、星空を見上げ、既に読みとられた星座を読み取る可能性を開き、また自ら新たに星座を読み取る力をつけることこそが、広い意味で言語を学ぶことの意義ではないでしょうか。

シリウスは夏の暑さと、犬と、それゆえ芋虫と、さらには猫と結び合って、言語の星座を描きました。ひとつひとつは既に先人が与えてくれた意味づけですが、今回はこれらの諸要素の結びつきを一つひところにまとめて捉えてみたわけです。こうした捉え方は必然的なものではありませんが、こうして強調するということは、言語の歴史の中に私はひとつの意味づけを行い、つまり星座を読み取ったのです。

このような意味づけを行いつづけることこそが生活であるととらえるなら、目の前の現実に意味を与えるために、つまり自分だけの星空に星座を描くために用いうる言葉や概念枠を学びつづけるという観点が、是非とも必要になってくるのではないでしょうか。

■【まとめ】
・言語によって意味づけを行う作業は、それ自体としては意味を持たない星々の並びに星座を読みこむようなものである。

・星座の読み込み方は一通りではなく、複数の読み方を学びつづけ、習得しつづけることで、多様な意味づけを行うことができるようになる。広義の言語や学の体系を学ぶことの意義のひとつはこの点に見いだされる。これは実践的な意義でもあるだろう。