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【321】適切に同情するために(古代・中世哲学から)

「同情するなら金をくれ」という言葉が特有の効果を持つのは、この言葉が如何にも「金」に困った者の破れかぶれなそれだからかもしれません。彼は恐らく金も拒むでしょう。いや、拒まないにしても、「ありがとう、ありがとう」と言いながら金を受け取りはしないでしょう。貧しくなると精神的態度まで硬化しうるよね、という困難を思い描かせる言葉です。

こうした言葉は翻って、「同情」する態度そのものに対する反省を促し、殊によると否を突きつけうるセリフかもしれません。実際、「同情」は日常会話ではあまりいい感じの文脈では使われません。「同情するよ……」と面と向かって言えば、実は軽蔑している、ということすらあるわけで、「同情」にはあまりいいイメージを持たない方のほうが多いかもしれません。しかも「同情」は何の役にも立たないように見える。関わってくるくせに何ももたらしてはくれない。交換価値を持つ「金」とは大違いである。……

とはいえ、ニーチェというごくわずかな例外を除けば、哲学史において、同情は一般に良いこととされてきました。あるいはその肯定的な側面が強調されてきました。

そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


アリストテレス以来、同情されて自分の自尊心が傷つけられることとか、同情の背後にある肥大した自意識や驕慢とかいったモメントはほとんど重視されません。

同情(sympatheia/compassio)、つまり感情(pathos/passsio)を同じく(syn-/con-)する、あるいは同じ感情を分かち持つということで悲しみが減ぜられたり、幸福が倍増したり、あるいは同情してくれる(≒ある意味で愛してくれる)相手の存在を知ることで自らの悲しみが癒されたりする、というような議論ばかりが展開されてきました。

こうした内容は勿論肯定的と言ってよい諸要素に関連付けて語られるわけで、典型的には「友愛(philia/amicitia)」に関連付けられます。友からの同情が問題となる、ということです。重要な典拠はアリストテレス『ニコマコス倫理学』第8・9巻の友愛(友情)論であり、これに対して大いに注釈を展開した13世紀の思想家の間——特にトマス・アクィナス——は、『ヨブ記』においてヨブの苦難に同情を示す友の例を追加します。

アリストテレスにあっては、逆境にあってこそ友の存在がありがたいと言われるのですし、ヨブ記においてヨブは確実な逆境にあるでしょう。苦しい状況において友が同情してくれるのがありがたい、という事情が理論化されるというなりゆきです。

こうした傾向のひとつの果実が、しばしば出典不明な形で提示される「友情は喜びを2倍にし、悲しみを半分にする」「人と分かつと喜びは倍になり苦しみは半分になる」といった名言でしょう。

【167】名言コレクターが落ちる罠(cf.『アイカツスターズ』第73話)で示した通り、ほぼそのままでこうした文言を提示するのはシラーでもキケローでもなく、ドイツロマン派の詩人であるクリストフ・ティートゲのUrania, 4, 223-224ですが、とまれ同情は友情と結びつき、かつその肯定的な効果が(19世紀にも)認識されてきた、という点は確認されます。

こうした肯定的側面は、私たちの実感にも十分に訴求するタイプの議論かもしれません。「同情」という明確な言葉を出すかどうかはともかく、苦しい時に寄り添ってくれる友はありがたいものですし、   『ドラえもん のび太の結婚前夜』における源家の父によるのび太評ではありませんが、苦しみや喜びを共有できることは、素朴な意味で美徳とされているわけです。


ただし一個の問題が生じます。それは、相手が自分に同情していることをどのようにして知るのか、私たちが相手に同情していることをどのようにして知らしめるのか、ということです。

言い換えれば、同情が持つ一連の良い効果の側から考えるのであれば、同情の技法として必要なのは、同情しているということが相手に対して明確かつ適切なかたちで伝わらなくてはならない、ということです。

極めて素朴に言えば、自分が今どんな感情を持っているか、ということは、相手に対しては一定の表現を経由しなければ伝わることがありえず、究極的には表現に依存するほかない、ということです。

例えば身振りであったり、表情であったり、声色であったり、言葉の内容であったりするわけです。表現は、意図的なものに限られません。心拍数や手の汗、赤らんだ顔もまた、曖昧なかたちで感情と結びつけうるものです。

こうして、相手に対して自分が同情しているということを示すためには適切な表現が必要になる、ということです。

内面と表現を截然と区別することができる、という不可能な仮定を据えるとすれば、表現は一個の印ですし、ソシュール以降の言語学の言葉遣いをするのであれば、この内面にある感情と、言語を含む表現が「記号」をなしている、と言っても良いでしょう。

印の類は、客観的に明晰であればよいというものでもありません。もちろん客観性・明晰性のみを追求せねばならない場面もありますが、こと同情という場面においては、そうではないでしょう。

相手がどのような内容を読み取りうるか、どのような記号をどこまでどのように解釈しうるか、ということを、相手の諸々の状況や経歴から適切に判断して、適切に表現しなければ、同情の良い効果もなかなかもたらされないということです。

相手の知的能力や、相手の精神的余裕に配慮しながら同情を示す必要があるのですし、たとえば何らか利益を引き出そうとする態度が見えていれば、同情される側も頑なになり、彼の重荷は減りません。

とりわけ同情される立場にある相手は、精神的に弱い立場に置かれていることがほとんどで、なんらか打撃を被っているわけですから、周囲からの干渉に対して敏感になっている可能性が高いわけです。貧すれば鈍すとは言いますが、猜疑心は多くの場合鋭くなるものです。

ですから、一筋でも射幸心や驕慢を匂わせてしまえば、相手は警戒して、ますます硬直した態度をとることになるかもしれません。相手の感じ方が全てですから、自分の「本心」などというものはもはやどうでもいいのですし、そうなってしまえば同情は失敗です。

猜疑心が鋭くなるとは言っても、窮地に陥った人間の認知能力は大いに鈍っていることが多いのですから、なるべく平易な、しかし相手を馬鹿にすることもないような、極めて高度な表現の手続きが必要になるでしょう。


古代・中世の同情に関する議論の強みは、こうした細部における注意を見事に捨象して(あるいはそもそも考えることができなかったがゆえに)、同情を素直に受け止める人間、つまり相手の同情してくれる人間の底意などをほとんど問題にしない、同情するそぶりを見せる人間はほぼ確実に友である、という、言語と内面との記号関係の記号関係への寛大なる信頼に根ざしたものであるように思われます。

わずかな例外は、トマス・アクィナス『ヨブ記逐語註解』第16章11-19行(Leonina版)あたりでしょう。同情しているとは言っても、相手を苛立たせかねない言葉が(極めて広い意味で)偽りめいたかたちで発せられる場合、(慰めるという目的に対して)役に立たない場合、過剰である場合には、「慰め手」つまり同情する者は、相手に対して重荷でありうる、と言われます。

ただしトマスの議論とて、例外である以前に、そもそも同情が悪であるとは言っていない、ということが重要です。そのうえで初めて、同情において発せられる言葉にも良いものと悪いものがある、という注意深い区別がなされているというわけです。

そもそもトマスにおける友愛(amicitia)の概念規定は、広い意味での愛(amor)に対して、「互いに愛し、愛していることを互いに知っている」ということを加えて成立するのであって、この点に関する確信はもはや疑義の対象とはならないのです(『命題集』第3巻第27区分第2問第1項主文)。

かえってこうした信頼を、率直な友情を問題とせずにはおれないのが、俗っぽくニーチェを解釈する人々であると言っても良いでしょう。(悪いことではありません。)


記事全体が哲学史的なexcursusになっているわけですが、それはともかくとして、着目に値するのは、寄り添いたい相手、寄り添わずにはおれない相手がいるとすれば、寄り添い方は表面的には言語的ではないかもしれないものの、一個の表現であるからには、いざというときに適切な表現をとれるよう、訓練を積む必要があるということです。

とりわけ同情が喚起される場面とは、少なくとも同情される人にとっては差し迫った場面であって、その友であるあなたもまた、気が急いているかもしれません。気づかぬうちに体が反応してしまう、ということもあるでしょう。

だからこそ、逆境にある友に寄り添いたい、その人の苦しみを和らげたいと願うなら、適切な記号的反応ができるように訓練を積んでおく必要がある、と言えるのではないでしょうか。

この場では、自分の体や、表情や、声色などのすべてが問題になる、つまり自分の存在容態のあらゆる部分をかけた記号表現が問題になるからには、寄り添いたい相手に自分の求めるかたちで寄り添うためには、直接的には言語によらない手段を採用して採用するのだとしても、少なくとも記号表現に関する知識と、体に染み付いた実践経験が必要になるでしょう。

さらに、言語表現を最終的にdominantなかたちで発揮しないとしても、言語による事前の準備・学習・訓練が極めて高い効果を持つだろう、とも言えるでしょう。言語は優れて記号で、しかも明晰にしうる・保存しうるという途方も無い利点を持っているからです。かくして非言語的な記号を用い身につけるためには言語という記号を用いるのが効果的ですし、言語という記号を直接的に用いるのであればなおさら、言語による訓練が必要だという成り行きです。

素朴な意味で情感たっぷりなだけでは、用いうる記号の手札はあまりにも少なく、あまりにも貧弱で、あまりにも再現性が低い。いきあたりばったりでさえある。感情によって、感情に関する対策を立てることはできないのです。同情などという極めて情動的で、理知的な要素の見えにくいような範囲においてすら、その準備や訓練のために、あるいはことによると実践の場面において、極めて高度なかたちで言語を利用することが必要になるというわけです。

差し迫った情動的な場面においてすら——実に苦境にある人間は、切迫した目前の(広義の)悪に圧倒されているのです——、記号の作用というものは期待される情動のうえでの効果に矛盾しないどころか、その重要な前提をなすのです。

であれば、(有事にあっても)適切な記号表現を実施できるくらいには訓練を積んでおく必要があるのですし、その訓練は多く言語を経由してなされるわけです。 


かくして如何にも平凡な、「日頃から言語を使おうね」「細やかに言語化する労を惜しんではいけないよね」という帰結が得られるでしょう。

必ずしも言語を主戦場としない人においても推奨されることです。既述の通り、言語は保存と明晰化に適し、またリジッドな伝達能力を発揮しうる点で、学習や訓練における極めて強力なツールだからです。

もちろん同情という場面を見越せばこそ、こうした結論を振り出すわけですが、(言語表現に限らず)繊細な表現は実のところ、細やかに変化しつづける環境の中で日常的に要求されているわけですから、なおさらなあなあなままにするのではなく、言語によって楔を打ち込みながら学習を進めることが実践的な価値を持つことでしょう。

記号体系の中で、おそらくは最も奥深い、しかし単純かつ明晰な部分を持つがゆえに学びを進めやすい面がある言語というものは、一生かけて学び磨きつづける価値のあるものであるように思われる、という成り行きです。

……こうしたことを、ソフォクレスの『アンティゴネー』を読み直して——実にあれも、死者との連帯、かけがえのない個人と個人の連帯が表現を介して共有され、返す刀で集団の圧力に抗して個人を守り抜くことを私たちに訴える物語です——、あるいは9年ぶりに友人と喋ったりして、考えたということです。

■【まとめ】
・同情は、こと負の状況に対する同情である限り、相手の悲しみを減じ、苦痛を和らげる作用を持つ。少なくともそうした観点を擁護する哲学史的伝統がある。

・同情は、「同情されている」「感情をともにしてくれている」という認識が成立して初めて効果を発揮するが、その認識は広義の表現を介して成立するからには、そして苦境にある者は猜疑心を育てがちであるからには、苦境にある友に寄り添いたいと願うならば、繊細な表現が必要になる。

・同情が必要となる場面はなんらか差し迫った悪がある場合であるから、同情を差し向ける側もまた気が急いたり、繊細な表現に気を配る余裕がなかったりする。

・であるからには、泡を食った状態であっても適切な表現を行えるよう、訓練を積んでおく必要があるのだし、かかる訓練は主に、優れて記号的な体系であるところの言語を介して成される。

・無論これは、同情という場面についてのみ言えることではなく、つねに有効である。