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【275】武器や持たない戦士は愚かですが、さて皆さんは?

戦場に赴かんとする戦士や兵士が防具や武器を持っていないとすれば、それは極めて愚かだと言えるでしょう。

翻って私たちはどうなんですかね、という話です。

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※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


徴兵されたり、あるいは傭兵として戦地に赴いたりするのであれば、使用する側が適切な武具や防具を支給するのは当たり前のことかもしれませんし、そうした期待を持つことは否定されないでしょう。

しかし、仮に支給されず、しかしどうしたって戦地へ赴かざるをえないのであれば、生存の確率を高め、また戦果を挙げられる確率を高めるために、是が非でも良い防具や良い武器を揃えるのではないでしょうか。

可処分所得というものはあって、誰しもが世界にありうる限り最良の武器や防具を手に入れられるとは限りません。しかし、自分の出来る範囲で、かつ生計が崩れない範囲で、できるだけ良い武器や防具を揃えるというのが当然の姿勢ではないでしょうか。仮に何も買えない農夫であっても、戦わねばならないなら鋤や鍬を使うことでしょう。

なるほどRPGの世界などであれば、「縛りプレイ」を楽しむために敢えて武器や防具を用いずに行動を進めることはありえます。私もかつて、ドラゴンクエストで武器や防具を装備せずにどこまで行けるか試した記憶があります。

しかし、現実世界でわざわざ「縛りプレイ」を行う理由はどこにもないわけで、実際に命や近親者の生活がかかっているときには、可能な限り装備を整えるはずであるように思われます。


こうした武器の比喩は、私がフリーハンドで導き出したものではありません。実にある先生からゼミの席で言われたことです。

その先生曰く、特に人文系の研究者が辞書を含む参考図書を買い控えるのはどうかしている、それは戦士が武器を買わないようなものだ、と。

なるほど人文学に数えられる諸分野は、概ねどれも言葉を扱うものですし、言葉の定義や使い方というものに慣れ親しむ必要があるわけです。

そしてその営みには決してゴールがなく、参照点としては先人が作ってくれた辞書や、あるいは実際に残っている文献を参考にしつづけるわけです。当然いち個人の力では、同世代あるいは少し前の世代の人間が総力を結集して作った辞書(等の参考図書)を使う以上に効率的な態度はないわけですね。なので、辞書という成果はありがたく使わせていただく、というのが当然の態度です。

辞書は辞書で編集方針の違いがあるので、多数取り揃えて場合によって使い分けるのが当然です。しぜん、或る種の研究者の手元にある辞書は増えます。

私もフランス語の辞書だけでおそらく20冊程度は持っていますし、英語だとそもそも出ている数が多いので、もっと多く持っています。専門的に使っていないスペイン語やオランダ語の辞書もそれなりの規模のものを持っていますし、ラテン語やギリシャ語についてもそれぞれ10冊程度は辞書・参考図書の類を装備しています(中には、100年以上かけて完成していない辞書もあります)。その他、特定の思想家や分野に関する事典の類も各国語で揃えています。

もちろん辞書・事典ですから、全てを読みつくすわけではありません。研究書と同じく、はじめからおわりまで全てを読むということは、辞書についてはあまり行いません。(辞書を最初から最後まで通読することは、語学力を涵養するうえで極めて重要なプロセスで、私もいくつかの英和辞典・仏和辞典については行いましたが、それは必ずしも行われることでありません。)

しかし武器を多数揃えておいて、それらを常に用いることができる状態にしておくということは、その先生の教えもあって納得しているところであり、この装備に関して私はこれまでのところ、ほとんど金銭を惜しんでいません。

かけなくてもよいお金はかけない、ということが前提であるにしても、かけるべきところには基本的に出費を惜しまないということです。数万円程度の出費で怯んだりはしないということですし——辞書はそれくらいするものです——、寧ろ怯まないようにいろいろな条件——基本的には経済的なものですが——を整えながら生きてきた、というのが正解でしょう。


実にこのようなこと、つまり仕事の道具や装備に対する投資を惜しまないという態度は、戦士とか研究者とかいう具体例に即するまでもなく、当然のことであるように思われます。

私はYouTubeなどはあまり観ない––フランクフルト放送交響楽団のチャンネルは例外的によく観ます––のですが、最近の趨勢であるからには知っておかねばと思って、日本でもおそらくはかなり人気の高いYouTuberであるHIKAKINの動画を見たのですが、彼が自身の仕事術として提示している一つの原則は、「トップが使っているものを使う」というものでした。

ここからコロラリーとして、ないし前提として現れるのは、やはり「(可処分時間の範囲で)金を惜しまずに良いものを買う」ということであるように思われます。当然といえば当然で、トップであれば使う道具も選ぶので、必然的に値段は上がっていくわけですから、「トップが使っているものを使う」という基準の前提には、「金を惜しまない」という基準があるという成り行きです。

なるほど、良いものを買うことでテンションも上がるのですし、彼の場合はパソコンやカメラがメインの仕事道具になるわけですが、機材を変えるだけで成果物の質や作業効率が思いもかけないかたちで良くなると言っているわけですね。


これは実によく分かることで、私も書籍や辞書以外に大きく投資しているのは、パソコン・机周辺の読書と執筆の環境です。「トップ」を定義しにくい領域であっても、少なくとも可能な限り良いものを使おう、という姿勢は持っています。

論文や電子化した書籍を読むのにどのツールが適切かを試すために、iPadやら電子ペーパーやら色々試し、またアプリケーションも異常なくらいの数を試してきました。(抽象的なことばかり言っているように見えて、がむしゃらに具体的なことをやっているんですよ。)

パソコンについても、今考えられる範囲ではかなり望ましいものを使っていると考えられます。ディスプレイについても、大型のものを数台入れて作業の効率化を図っていますし、それに耐えうるように机も堅牢なものを選択しています。

椅子に至っては、普通大学院生では買わない(買えない?)ものだと思いますが、フランスで買うと20万円を超えるアーロンチェアを使っています。10年単位で使えるものですが、帰国するときには売るか捨てるかするのでしょう。

もちろんアーロンチェアよりもエンボディチェアの方がいいよ、などと言う方もあるかもしれませんし、それは個人によるもので

重要なのは、自分の仕事に必要なものに対して金を惜しむことはありえない、ということですね。なるほど、やりたくないけれどもやらざるをえない仕事ならばまた話は変わってくるのかも知れません。しかしそれにしたって、大きな時間を割くことになる仕事であればなおさら、サクっと終わらせて自分のやりたいことをやる必要があるわけですし、そのためには機材や環境や装備を整える必要があるでしょう。


もちろん皆さんにはそれぞれに専門や個別の事情があって、それぞれに整えるべき環境というものは異なってきます。持つべき装備も大いに異なってくることでしょう。

ですから、HIKAKINを真似してめちゃくちゃに高いパソコンを買う必要はありません。戦士のように(文字通りの、殺傷能力を持った)武器を揃える必要は普通はないでしょう。私のようにラテン語の辞書をバカスカ買う必要も、ほとんどないと言ってよいでしょう。


とはいえ、私たちには共通する条件があります。

それは、言語の中で・言語を操ったような気になりつつ・しかし実は言語に翻弄されながら生きている、ということです。

私たちは言語的存在ですが、言語を自在に扱っているということではなく、言語に制約されつつ・言語に翻弄されながら生きているという意味において、言語的存在なのです。

こうした条件を踏まえるとき、私たちが言葉を扱うための道具や技術というものを身につけずにいる、あるいは金を払えば・時間を少し投資して学べば身につくはずなのに全くそうしようとしないのは、誤解を恐れずに言えば、極めて愚かなことではないでしょうか。

何に投資すればいいんだよと言われれば、先ずは辞書ぐらい少なくとも持っておこうよという話ですし、できれば洗練された文章を批判的に(≠悪口を言うために)読む習慣をつけようよという話でもあります。


「言語」などと言うと漠然と聞こえるかもしれませんので、もう少し具体的な例を出してみると良いかもしれません。

例1。私たちは基本的には貨幣経済の中に生きていて、そこを逃れることは、少なくとも今後数年の単位ではないでしょう。しかも、金銭というのは私たちの多くにとって極めて大事です。

であれば、お金というものにどう関わってゆくかということを考えるために、お金に関する知識や考え方は身につけておくべきでしょうし、自分で身につけることができないのであれば、頼りになる知人を作っておくことが必要になるのでしょう。こうした点にお金や時間を惜しむのは、全くの愚策ではないでしょうか。

RPGでいえば、自ら戦士として適切に鎧を買って纏わねばならないということでもあれば、あるいは自分が魔法使いなのだとすれば、前衛で戦ってくれる戦士を雇うことが必要になるということでもあります。

例2。私たちをどうやっても縛ってくる、社会の諸制度に関する知識や考え方というものを身につけることも、必須になるのではないでしょうか。

一体勤め人で、自分に関与する税や社会保障の明細を緻密に把握し、自らの源泉徴収票の全ての数字の意味を適切に説明できる人はどのくらいいるのでしょうか。その背後にある制度的な背景というものに関して、どのくらいのことを皆さんはご存知でしょうか。

知らないからダメだと言うつもりはありませんが、少なくとも自らを拘束する制度に関して、一定の知識や考えを持っておくということは、その制度の中で出来るだけ自分の望みにかなうかたちで生きていくために、必要な前提ではないでしょうか。

もちろん限界はあって、一人一人が制度に関する知識や、その運用のあり方を綿密に把握し尽くすことはできないでしょう。

だからこそ専門家がいるのであって、私たちはその専門家を頼ることができるわけです。

しかし、いったい皆さんには、いざという時に頼ることのできる税理士は弁護士がいるのでしょうか。いないとすれば、お金や時間を少し使って、自分の「パーティ」にそうした人材を取り入れるべきではないでしょうか。

もちろん、RPGのパーティのように、恒常的に行動を共にしてもらえ、というのではありません。

ただ、いざという時に頼ることのできるようにしておく、そうした意味で広義の装備を整えるということは必須ではないか、と申し上げているのです。


最初の方で述べた、戦士における武器や、研究者における辞書のたとえは、もちろん普遍性を持ちにくいものかもしれません。

しかしこれが自分のやりたい仕事に関する道具の話とか、あるいは人間が避けがたく拘束されている言語や金銭や制度といったものに関する話になるのであれば、知識や装備を持たないということがいかに愚かしいことであることが分かるのではないでしょうか。

私ももちろん、何があっても大丈夫と言えるほどに多様な分野の士業の知り合いがいるかといえば、それは微妙です。目下のところ税金に関する諸制度からもかなり距離を置いて生活することができてしまっています。そのため、はっきりとした当事者意識を持っていない、というのは事実です。

しかし、それはともかく——あるいは私位を反面教師(?)にして——、少なくとも言語や金銭や制度や、皆さんが邁進したいと思っている道に関して、知識や装備を揃えておかないのは極めて愚かではないかしら、あるいは逆に言うのであれば、そうした範囲において知識や装備や仲間を持っておくことは戦略的に必要なことではないか、ということを申し上げるのが、今回の眼目でした。

■【まとめ】
・必要な知識・道具・人間関係を揃えるのに金(や時間)を惜しむのは全く愚かしい。戦士が武器や防具に、人文系の研究者が辞書や書籍に、YouTuberが撮影機材やパソコンに関して出費を惜しまないように、自分の邁進する仕事に関しては広義の環境を整備するための出費を惜しんではならない。

・中でも言語や金銭や制度といった、誰しもが関係を持ちうる領域については、広義の装備を整えることの重要性が際立つ。