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【286】ドラクエIIIのシーシュポス:マイルドな不条理から伝説へ

ドラゴンクエストIIIのスーパーファミコン版以降のヴァージョンには、キャラごとに割り当てられる「性格」というパラメータがあります。「性格」は能力の伸び方に大きな影響をあたえる重要なパラメータです。

後で「本」を読ませたり特定の品物を装備させたりすることで、その性格を変えることができるとはいえ、特に勇者であるところの主人公については、ゲーム本編に入る前の最初の性格診断で性格が決められます。その診断は、いくつかのYES/NOによる回答と、様々な答え方が許されている「最後の質問」への対応によります。

「最後の質問」にはいくつかパターンがありますが、そのうちのひとつにあっては、一本道の森にて老人の目の前に立たされ、 駄賃をと引き換えに先にある岩を運んでくるように頼まれる、という場面設定が施されています。

実のところ、ゲームのスクロール機能を生かす形で、岩は発生しつづけますし、何度岩を運んでも老人は満足しません。同じように岩を運ぶよう頼みつづけます。

思い出すべき人は、ここでギリシャ神話におけるシーシュポスを参照することになるでしょう。今日はそんな話から。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


旧聞に属することとは承知のうえで、かいつまんで説明すれば、ギリシャ神話にあって、シーシュポスはゼウスをはじめとする神々を一度ならず二度までも欺いたために、罰を受けることになります。

その罰とは、ギリシャ神話における地獄のような場所であるところのタルタロスにおいて、巨大な岩を山頂に運ぶ、というものです。ただ運ぶだけではありません。その岩は、あと少しで山頂に届くというところで、必ず自重で落ちてしまうのですね。

シーシュポスはこの岩運びの苦行を、永遠に繰り返すことになるのです。

この話になぞらえるかたちで、「シーシュポスの岩」という言葉は、終わりも意味もない徒労を意味するようになりました。

なるほど、ギリシャ神話には他にも似たような逸話が——永遠の苦しみという点で共通する逸話が——あります。それはたとえば「タンタロスの責め苦」です。タンタロスも同じく神々の怒りを買って、タルタロスに送られるのですが、彼は、飢えや渇きに苦しめられつつも水を飲もうとすれば水が引いてしまう・果物に手を伸ばして食べようと思えば果物があっという間に消え去ってしまう、という責め苦を味わいます。タンタロスは先立って、神々の飲み物であるネクタルや、神々の食べ物であるアンブロシアを食べて不死の肉体を得ていたので、責め苦はより強く感じられるものでした。

ただ、シーシュポスの場合に際立つのは、シーシュポスが(強いられて)成す外界への働きかけが、役立てようと思えば役立てられそうな行為が無に帰される、ということで、だからこそこの場面設定の不気味さは、後に思想家たちが好んで取り上げるものとなりました。


さてこのシーシュポスに関して極めて重要な位置を占めるのは、ご存知の方も多いかと思われますが、20世紀フランスの作家であるカミュが書いた『シーシュポスの神話』です。

『シーシュポスの神話』という書物は、自殺を問題とします。この書物は同名の随筆を最後に持ちますが、冒頭近くの、別のタイトルを冠された随筆の、やはりほとんど冒頭で「真に重大な哲学的問題はたったひとつ、自殺で」と言われる通りで、自殺を問題にします。

が、ここで言う自殺とは、金がなくて苦しいとか、恋人に振られて辛いとか、そういう歴然たる事実を原因として持つのではなくて、怒られそうなくらいに単純化するなら、私たちが存在しているという事態そのものの不条理の重荷からくる自殺です。

カミュの記述はまったく厳密で正確だというわけにはいきませんし、論理的にはツッコミどころの多いものではありますが、それでも或る種の魂に対しては説得力をもった著作として立ち上がるものでしょう。

人生そのものが意味を持たない、何の理由も持たず不条理に向き合わされている、ということが思考の出発点になっているわけで、その不条理さというものが、シーシュポスに課された意味のない無限の徒労になぞらえられるというわけです。


私などは『シーシュポスの神話』をたまに読み返すことがあって、そのたびに違った印象を受けるのですが、今回読んでいてもやはり違った印象を受けることになりました。

そうして思い出されたのがドラゴンクエストIIIの「最後の質問」のひとつだったというわけです。

改めて書くなら、スーパーファミコン版以降のドラゴンクエストIIIでは、ゲーム本編に入るより前に主人公の性格を決めますが、その際の診断にはいくつかのYES/NOの質問と、行われる「最後の質問」が実施されます。その一つが、老人から(無限に)岩を押して運ぶよう求められる、というもんおでした。

ゲームの中において、これは徒労ではありません。

持っていけば、(以降のゲーム本編で使うことができないとはいえ)お金をもらえますし、岩をもって行く回数に応じて意図的に「性格」を変化させることができ、これはゲーム本編に大いに影響を及ぼすものです。この「性格」によってレベルアップ時の能力の振れ幅が変わってくるのですから。曖昧な記憶を掘り返しながら言うのであれば、40回以上岩を運んだ場合には、性格が「タフガイ」になって、HPの上昇値が高くなる、といった仕様があったはずです(要出典)。

この点、ドラクエはシーシュポスの神話とは大いに異なりますし、言ってしまえば、岩を運ぶという点でしか似ていないのかもしれません。


とはいえ、カミュ自身が『シーシュポスの神話』において、当時の労働者(プロレタリア)とシーシュポスの間に類推関係を成立させているのであってみれば、シーシュポスと、ドラクエIIIと、私たちとの間に、似たような関係を構想することも、不可能ではないでしょう。

もちろん私たちは、自らの日常に意味を与えて面白くしていくことはできますし、自分が世界にいることが不条理だ、などと思う人は少数派でしょう。カミュ本人が「こんにちの労働者は、彼の人生のすべての日々を同じ作業に従事して過ごすのであり、この運命は(シーシュポスのそれに劣らず)悲劇的だが、これが悲劇的なのは彼が意識的になる稀な瞬間においてのみである」と言う通りです(A.Camus, Le mythe de Sisyphe. 短い随筆なので以下ページ等は省略)。

(この点に関して、愚かにして軽率な、反射的な反応——「人生に意味はあるんだよ!」等——がひとつも生じないことを望むばかりです。そうした反応はぐっとこらえて、カミュのテクストを読んだうえで、論駁すべきところと、説得不可能な互いの価値観の差に由来するところを切り分けてから言葉を発するのが、筋というものです。)

が、毎日代わり映えのしない日常を生きていて、しかもそれが緩慢な死へと向かっているということを強く感じずにはいられない、苦しい立場に置かれている人も多いことと思われます。

というよりも、寧ろ現在にあっては、純粋な不条理が感じられる程に生活が行き詰まっているわけではないにせよ、ごく現実的な・物質的な苦しみがぼんやりと目の前に恐怖の対象として見えているからこそ、現在やっていることに意味が見いだせず、あるいは現在の代わり映えのしない日常に焦りや漠然とした不安を抱えられている方も多いかと思われます。

謂わば、透徹した意識は特にないかもしれない、うっすらとしたマイルドな不条理を抱えられる方も多いことでしょう。

このような場合に、不条理な作業に満ちた不条理な人生にそのまま耐えつづける、という発想を持つのは大いに結構ですし、それはひとつの正しさだと思います。それこそ、カミュが構想したシーシュポスの幸福ないし悦びはその点に存します。

カミュの文脈を離れても、真摯に考えた結果として現状維持をつづけるのであれば、その決断、ないしは思想に対して侮辱を加えたり嘲笑ったりする資格は、私たちの誰にもないでしょう。あるいは真摯に考えを働かせないという消極的追認であっても、それはそれで、笑ったり非難したりするものではありません。

というのも、マイルドなものであれ、突き詰められたものであれ、不条理は受け入れられた途端に、不条理の中に立たされた人間の手に運命を握らせるのであって、謂わば完全な自己の支配が可能になるのはそのときのことなのですから。

カミュ曰く、「彼(=シーシュポス)の運命は彼の手にある。彼の岩は彼のものである。同様に、不条理を知る人間は、自らに課せられた責め苦を想うとき、あらゆる偶像(≒彼に上から命令する存在)を沈黙させる。(…)もし個人の運命というものがあるとしても、上から課された宿命などはなく、少なくともたったひとつ、死に至るという、どうでもよいと彼が判断するところの運命があるばかりだ。そのほかについては、彼は自分こそが自分の日々の支配者であると知っている。」


とはいえ、マイルドな不条理に投げ込まれた人びとが取りうる、また別の考えかたは、岩を運び、それが転げ落ちるたびに、周囲の状況や私たちの精神の方もまた確実に変化する、ということです。

マイルドな不条理は、従容と受け入れることもできる一方で、そこには条理をあたえることもできるという成り行きです。ことによると、現実世界のタルタロスは、実は逃げられるところかもしれません。

もちろん、カミュが思い描いたタルタロスにあっては、そのような変化は想定されないでしょう。しかし、地獄のように普通の日々にあっても、私たちの毎日は微細な変化に富んでいるのですし、毎日の同じ作業の中にも、意味をつけることはできるのです。

私たちは岩を運ぶたびに変化する、と思うことはできるのですし、シーシュポスのごとく山頂まで押し上げた岩が転がっていく先は、ひょっとすると、私たちがそれまで岩を押して歩んできたのと同じ道ではないかもしれないのです。あるいは、転がっていった岩を再び押し上げるにしても、最短経路をわざと外れながら押してゆくこともできるのです。

それに、いくらタルタロスの山肌が荒涼で、濃い霧に閉ざされているとしても、転がり落ちた岩を押し上げるには複数の経路があるはずです。道によって、斜面の傾きには微細な差があるかもしれません。山肌を見れば、わずかに生えている植物が目を楽しませてくれることすらあるかもしれません。あるいは、カミュは不条理をしばしば砂漠に例えますが、マイルドな砂漠には可愛らしいサボテンがあるかもしれないのですし、あるいはあると思って歩むことは出来るのです。そして、岩を何度も押し上げているうちに、うまい力の入れ方を身につけることができれば、そこにおいては自らの成長=変化を実感できるわけです。

かように、日々の繰り返しないしは不条理に見える反復の中にも、私たちは常に変化を見いだす能力を持っているのではないでしょうか。

つまり、不条理に押し付けられたかに見える、あるいは本当に不条理に押し付けられているシーシュポスの責め苦の中にも、あるいはシーシュポスの責め苦になぞらえられるような日々の労働=苦しみ(travail/labor)においても、私たちは些細な変化を認め、不条理でない何かをこじつけることができるのではないか、ということです。

ドラクエIIIの「最後の質問」であれば、岩を押すたびに「またかよ、めんどくせえな」と思うようになるわけで、これも変化です。あるいは岩を押すのをやめて逃げる(=「最後の質問」への回答を終える)ことも考えられます。つまり、タルタロスを逃れることさえできるのです。翻って現実世界でも、職場における反復作業が嫌なら、辞めることはできるわけです。


もちろんこれは、不条理に対する根本的な解決にはなりません。カミュの言う不条理は浸透的なもので、生きている限り逃れ得ないものです。ガチな不条理に立たされている人から見れば、以上に見てきたような考えは、いっさい非本来的な、不徹底な誤魔化しかもしれません。カミュならば私の見方は認めないでしょう。

しかし、あくまでも不条理に染まり切らない、けれども不条理に押し流されそうで、やはり不条理の極北へと歩みたくはない、そんなあなたがいるのであれば、その不条理な反復の中に、条理を、意味を見いだすことはできるのですし、その可能性は常に残されているのかもしれません。


私が毎年の初めに読む作品は、年を経るごとに変わってきました。大学に入ってからの数年間は谷崎潤一郎の『鍵』を読んでおり、ここのところはゆらゆらとしていましたが、元日にはプラトンの『法律』とデューイの著作をパラパラ少しめくってから、『シーシュポスの神話』をさらっと読みました。

どちらも、幾度も触れたテクストで、それこそ、繰り返しです。

『シーシュポスの神話」という作品を、少なくとも傍から見れば、それこそシーシュポスの如く何度も手繰っていますが、その度に全く違った景色が見えるのですし、そこには、人生全体が仮に不条理なものであるとしても、不条理の観念が中途半端な・マイルドなものである限りは、そこに意味を見出せるのでないか、という逆説的な希望が感じられる、ということもあるのです。


さて、ドラゴンクエストIIIの副題は「そして伝説へ…」でした。謂わば本編に入る前の性格診断における「最後の質問」は、伝説へと連なる物語の、さらに前にあるものです。つまり、シーシュポス的な岩運びは、伝説への序奏の、さらにその前にあるものです。

であれば——さらにこじつけを重ねるなら——あなたが置かれている、あるいは近い将来置かれることになるかもしれないマイルドな不条理——変化のない、無益にして絶望的な反復——は、伝説へとつながる序奏の、さらに手前にある前哨戦なのかもしれません。

少なくとも、強固な不条理へと突き進むだけの或る種の精神的資質がない人にとっては、目の前の不条理は伝説へとつながるものなのかもしれません。あるいは、そうした意味を与えることができるのでしょう。そうした生き方も開かれているのでしょう。

■【まとめ】
・不条理な、あるいは意図せず押し付けられたような人生や日々の生活の反復の中でも、わずかな変化というものは日々生じているものなので、そこに条理・意味を見出して生きることはできる。

・それはもちろん、不条理に対する根本的な解決にはならない。しかし少なくとも、抱えられているのがマイルドな不条理にすぎないのであれば、そうした日々の微細な変化に気づき、そこに意味を見出すという作業は、絶望せずに生き、途方もないものを打ち立てるためのひとつの縁になるのではないだろうか。