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【411】あなたのマスクの下を見たい/思想テロリストたちの密かな戦い

私たちが当たり前にやっていることが弾劾の対象となる世界を描くフィクションは極めて多いもので、それは多くの場合、現実化しえないものとして享受されるからこそ面白がられるものですが、とはいえ私たちの生きている現実そのものが言語を介して成立し理解されるフィクション的な性格を色濃く持つ、という当たり前の事実を前提するのなら、私たちが当然だと思っている価値観や規範は容易にひっくり返るうるものですし、あるいはもっと言えば、今まさに死に瀕しているのかもしれません。 

全体としてそうだということでは必ずしもなく、私たちが持っている規範や価値観のうちの一部が、知らぬ間に何かに取って代わられている、という可能性は大いにあるのですし、それはまた新たな「当たり前」になってゆくものです。逆に言えば、私たちが分かち持っていると思っている常識には常に一個の、ないし複数の棘が刺さっているものです。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。


ことは弾劾に、思想的な意味での戦争に限りません。たとえば疫病が流行してマスクをせねばならなくなったわけですが、これとともに、実に興味深い心理的な変化があるようです。完全に伝聞のことで申し訳ないのですが、この間ちょっと高校生としゃべる機会があったわけで、疫病が発生してから生活がどのように変わっているのか、ということについてつらつらと喋っていました。

その中で印象深かったのは、「気になる」相手——まあ典型的には異性ですが——のマスクの下を見たい、というある種の欲望が、私が喋った相手のいる界隈では発生しているようなのですね。

マスクをしなければならない、という要請が生じて初めて現れ分かち持たれた、ある種の欲望の形態です。

このような表現が適切かどうか分かりませんが、マスクが公的な場では常につけていなくてはならないものになってしまった結果として、謂わばそれまで衣服が果たしていたような機能を部分的に担いはじめている、という極めて大きな変化があるわけです(少なくとも私が観測した範囲では、ということです)。


私たち自身の価値観は、過去の(あるいは別の地域の)人から見ればとんでもない要素を含んでいるのかもしれませんし、逆も然りです。

例えば、一般的なキリスト教の教えでは、自慰行為は完全に禁止されます。自慰行為は神よりも自己を愛し神よりも自己を上に置く、愛の秩序を転覆させる行為であるため、大罪とされます。つまり救済の可能性を断つ罪です(もちろん救済の道に復帰することは可能で、それは悔悛の秘跡によって達成されます)。が、現代社会で自慰行為を否定し糾弾するとなれば、それこそトンデモ扱いされかねません。

あるいは、生産性や共同体にとっての有用性のみを根拠に人間の価値を測ろうとする発想はつまり間引きの思想につながるもので、ねじれたかたちで現代にも幅を利かせており、ときに軽薄な「科学」の装いを借りて正当化されるのですが、流石にかつてやっていたような間引きとか人身売買とか姥捨てとかを正面から肯定するの人は、provocativeな言説を好むいくぶん露悪的な趣味の持ち主に限られる、と言ってよいでしょう。本音として持っているとしても表立って言ってはいけない、ということで緩やかな一致が見られている、と思われます。遺伝的に身体が弱いとか、なんらかの障害があるとか、体が動かないとかいう理由で、人を死に追いやることを正面から肯定する人は少ないということです。そうしてしまえば、おそらくはかなりの反発を(直情的なものも含めて)生むことでしょう。

が、そうした実践はよく行われていました。「間引き」とか「人身売買」とか「姥捨て」とかいう言葉を私たちが知っているということがそれ自体、その事実を反映します。あるいは2500年ほど前のギリシャのスパルタというポリス(都市国家)において、体の丈夫でない子供を殺してしまう(ないしは死ぬに任せる)、という慣習は一般に行われていました。

現代では概ね、単なる生命それ自体に価値を認める発想は概ね一般的で、生命とは何か、どの瞬間に生命が誕生しているということになるのか、ということに関する議論は驚くほど手薄であるにしても、生命であると了解しうるものを強いて抹殺することを好ましく思う人はあまり多くないでしょう。現代で考えてみれば、既に生まれてしまっている赤ん坊を殺すスパルタの間引きは考えられない残酷なことだ、と言われる方が多いのではないでしょうか。もちろん歴史的な対象として想定しうる、とわかってはいても、にわかには受け入れがたいことで、少なくとも現代において実践するとなれば、強烈な抵抗を示す方が多いのではないでしょうか。

あるいはギリシャ関係で言うなら、「万学の祖」として知られるアリストテレスなんかは、真正面から受け止めるのであれば、女性を男性よりも低いものと見ていましたし、子供に対する権利という観点から言って現代には受け入れがたいような記述を数多く残していますし、もちろん奴隷制の支持者です(例えば『政治学』第1巻において)。

だからといってアリストテレス(を研究すること)の価値はいささかも減じられないのですし、アリストテレスを責めたって仕方がないのですが、少なくとも(現代から見れば)女性差別的な観点や奴隷制がなんらの疑問なしに採用・実践されていた時代や地域があった、ということは紛れもない事実です。

(無論、奴隷制と言っても、現代の人びとが想像しがちな過酷・凄惨を極める労働環境は必ずしも意味されません。念の為。)


根本的に価値観の違う相手に対して反論を行うことは困難ですし、多くの場合に無意味でしょう。

議論や批判は前提が共有されていてこそ有意義に行われるものですから、問題が前提に関わる限り、批判や議論にはあまり意味がない場合が多いのです。無論、逆に言えば、前提を違えるものをやたら「活用」しようとすること、過去の思想家・哲学者を性急にも現代に生かそうとする営み、もまた、軽薄であるのみならず、ほとんど無意味ですらあるでしょう。

前提が共有されていて異なる結論が出ているのであれば、なるほど意見を戦わせる意味も大きいのですが、前提が変わる場合にはさらにその背後の前提を(恐らくは別の確度から)問いに付す必要があり、互いの前提がもはや理詰めで語りうる限界の彼方にあって鋭く対立しあうのなら、非武装地帯を設けて関わらないようにするか、片方が片方を滅ぼすまで戦い続けるか、あるいは一方が他方に擬態するほかないのです。


私が信じている哲学的というような主張はごくわずかですが、そのひとつはほとんど公に言えるタイプのものではありません。私は差別主義者でもなんでもなく、言ってしまえば極めてリベラルな価値観を持っていると自認していますが(もちろんこの自認自体は常に反省の対象になります)、それはともかく、公言すると明らかな不利益が出る思想的傾向ないしは哲学的主張を持っています。

正しく読まれ理解される限りにおいては、つまり相手が感情的にならずにきちんと話を聞くという最低限の誠実さと知的能力を持ち合わせている人間であれば、説得されることはなくとも容易に理解しうるもので、前提のほう(も本当は)受け入れやすく多くの人間は潜在的には賛成するだろうと固く信じているところの主張ですが、かかる哲学的主張をが振り出されたときに人々が示す感情的で愚かしい誤解ないしは苛烈な攻撃的態度を日頃目にしていると、わざわざ吹聴する必要はないな、と感じられるわけです。こうして潜在的テロリストたる私は擬態して生活しているというなりゆきです。


まあ、そうした(愚かな)誤解や感情的な攻撃が出てくるのは、あまりにも前提が違うから、というか主張によって自らがほとんど無意識に寄って立っているところの前提を否定されたような気持ちになるからなのでしょう。

その前提が何なのか、ということをここで明示することはしませんが、おそらくそのあたりに生きている人間の99%以上は、そんな前提が否定されうるなどと考えたことすらないのですし、そんな前提が前提として存在していることにすら気づかないのです。私はその前提こそが極めて危険な、唾棄すべきものであると固く信じている(そしてその理由も、一定程度は共有可能なかたちで説明しうる)、というわけです。

何も皆さんに無差別に喧嘩をふっかけようというわけではなく、単に私が潜在的な思想テロリストである、ということを申し上げているわけです。

そして、潜在的な意味でのテロリストは実のところそこかしこに溢れている可能性はありませんか、ということも申し上げているわけです。

あなたと同じ家に、あるいは同じ職場に、本当に前提を違えている、異なる前提を生きている、しかし同じ前提を生きているかのように振る舞っている人がいるかもしれませんよ、ということです。

もちろんテロリストは自らがテロリストであると公言することはほとんどありませんよ。テロリストは自らが異分子であることを深く心得ていますが、他方で、横溢する「誤り」から測り取られた自らの「正しさ」には確信もあります(無論真摯なテロリストであれば、その確信さえもきちんと懐疑の篩にかけるのですが)。

典型的には最後の一振りにおいて、あるいは身を隠しながら繰り出す攻撃によって、小さいかもしれない爪痕を残そうとするわけです。あるいは世界の改良と進展を望まない場合であっても、何らか(既存の思想的前提すなわち)権力の空白を権限せしめるのです。あるいは明晰な攻撃を行わないとしても、一定の思想は分かち持たれるだけで脅威たりえます。つまりある思想をある集団が分かち持っているというだけで、それは社会の指に刺さったひとつの棘で、膿を生ぜしめることさえあるでしょう。……


私のようなテロリストはこうした事情をよく理解しています。私だけの話ではなくて、皆さんの周りにもそうしたテロリストはいるかもしれませんし、実は皆さん自身が潜在的にはテロリストなのかもしれないのです。

もちろん、自分こそは平均的で、穏健で、何も大それた信念など抱いていない、と思う人間の信念こそが、ときに最も過激で最も苛烈で最も攻撃的な前提に由来している、ということは、一定程度の知性をお持ちの方なら当然おわかりの通りです。

そして、私たちが普通だと思っていることがら、あるいは普通だと思うことすらしないほど当然に受け入れてしまっている信念というものは、そう遠くない将来に転覆されるものかもしれません。

そうした転覆は、明日かあさってか1年後か10年後か、そう遠くない未来に生じるのかもしれません。そうなれば、皆さんは、よほど機を見るに敏でなければ、否応無しに自らが反乱分子であること、テロリストであることを強いられます。あたかも情報化に対応できなかった年配の方々のように、です。……
 
思想テロリストはそうした転覆を夢見て、ときに転覆させようとはたらきかけを行いつつ、ときに自らの考えに対して鋭い疑いを差し向けつつ、今日も静かに密かに生きています。