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【426】うだうだ言う生徒は、教師の試金石?

教師は自分が知り習得しているものを相手に教えるのですし、こうした非対称性があるからこそ教育に意味があるのですが、特に初学者との関係においてはこの条件が極めて決定的になります。

教師は残念ながら知らなかった頃に戻れないのですし、知らない・できない人の気持ちなんか永遠に理解することはできません。生徒の側は何から手を付けてよいかもわからなければ、教師の目に見える世界もわからない。少しでも自分の世界の見方を分け与え教えるのが教師の仕事だ、と言っても大きな間違いにはならないでしょう。小手先の技術は教わらねばならないほど難しいことではなく、だいたい独習が難しいからこそ教わるのですから。

実践的には、ある分野で一定の能力を発揮できて、そこに居場所を見つけるからこそ教師になるわけで、ということは、教師は、能力を発揮するに至る生のプロセスのほうを、経路のほうを知らない場合が殆どです。あるいは思い出せないことがほとんどです。つまり当の教師が、自ら教えるべきことを、生徒が知りたいことを、実は知らないということです。

あるいはもちろん、勉強なり何なりが苦手だったけれども、頑張って克服して、その成果を還元したいのだ、という教師もいるでしょう。

しかし生徒の側の心理はこの厚意を裏切りかねません。「どうせあなたには才能があったんでしょう」と。

もちろん才能という概念は殆ど意味のないものですが——才能とは、その片鱗であれ明確な成果であれ、外部に見えているものから逆算・措定されたものでしかないため——、「あなたはあなた仰る方法でできたかもしれないけれども、私にはそれで出来る気がしません」「そんな方法で、あなたに追いつくのに一体何万年かかるのですか」と言われて、教師はどう対応するのでしょうか。つまり自分の教授内容に、どのように説得力と現実性を持たせるのでしょうか。

あるいは、そうした偏屈な生徒に(あるいは自分が偏屈だということすら意識することのできない生徒に)どう向き合うかということにおいてこそ、教師の或る種の資質が試されるのではないでしょうか。

もちろん社会人教育であれば、あるいは義務教育を超えたところで行われる教育であれば、教師がそんなところで面倒を観る必要などない、というのは事実です。「大丈夫、次はこうするんだよ。あなたの今の出来だと、次のステップまであと2週間くらいこれをやれば進めるかな」なんて、そんな「親切」な態度は恐らく生徒の側も拒みますし、教師におんぶ抱っこになることにはまた別の弊害があります。生徒が独り立ちできるようにならないなら、教師に価値はないわけです。が、誰もが自学自習でいけるなら教師は必要ないわけで、特に最初は教師が必要なのです。……


「うだうだ言ってねえでやれよ」というのはどこまでも正しい態度です。はっきり言えば高校の教員においてすら、また大学受験予備校においてすら、生徒にやる気を出して貰うよう頑張る必然性はありません。形式的には高校は義務教育ではないわけですし、予備校に至ってはふつう学位や大学受験資格を与えるものではありません。

が、「うだうだ言って」しまう人間をどう扱うか、ということが、教師のひとつの資質ではないか、とも最近は思われます。

実に、「うだうだ」と声に出さないけれども、こうして早い段階で勉強を諦めてきた小学生や中学生は、あるいは高校生は、実のところ少なくないのではないでしょうか。普通の生徒、あるいはできる生徒の影で、言葉なく押し黙ってしまった生徒のことです。聞き取られぬ「うだうだ」があったのではないか、ということです。……

私は幸い(?)勉強には勘がきいて、特に広義の言語で完結することならば、(高校程度の理科・数学も含めて)自学自習でそれなりにできましたし、当事は自習できない人のことを密かに「なんなんだろうな、この人たち、やればできるはずのにできていないということは、怠けているんだろう」くらいに思っていましたが、実際、始める前から折れている、最初の数歩に確信を持てず進むことすらできない、そうした人もいたのではないでしょうか。

そうした人たちを掬い上げることは、なるほど教師の仕事ではないかもしれないし、教師はできてしまう人だけをさらに伸ばしてもいいのでしょうし、カンのよい、あるいは辛抱強い素直な生徒だけを相手にしていてもよいのかもしれません。特に義務教育でなければ。しかし、それでいいのかしらん、という気持ちが、棘のように刺さって抜けません。

こんなことに今更気づくなんて、だいぶ遅れているのかもしれないにせよ、初めて学ぶことが増えてみると、実に違った景色が見えるものです。