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【295】単発の理論や知識ではなく、全体性を見せてください

Twitterで私のアンテナに引っかかるのは友人伝いで見られる学習系のアカウントです(というより、殆ど見ないからそうしたアカウントしか目に入らないという成り行きです)。

驚くべきことでもないのかもしれませんが、やはり半角280字という制限の中では、役立つことになっている単語やその意味を示しておしまい、ということになりがちです。それはそれできわめて意義のあることですし、それ以上を求める必要もないのかもしれませんが、果たしてそれが如何なる「学習」の役に立っているのかと言われると、どうも私には——あくまでも私の狭い学習経験から見て、ということですが——、首を捻らざるをえない面があります。

280字では語源や意味の広がりに触れることもできません。いたずらに多読を推奨するつもりはないしても、単語や熟語は文脈の中でしか出てこないものなのですから、複数の(しかもそれなりの長さを持った)例文や、できればひとまとまりの記事を読んだほうおがよいわけで、そうなると、そもそもTwitterを見ているよりは文章を読んだほうがよいのではないか、などと思われてしまうわけです。

勿論以上は私の感想であって、私の学びへの感受性が低すぎるからこそ感じられることなのかもしれません。結局は個々人が個々人にあった学び方を採用すれば良いわけですし、ツールも個々人によって異なっていて当然です。

が、似たようなこと、つまり個別の要素にフォーカスした学習は昨今(に限らず)大流行りのようで、そうした形態の学びが少なくとも(私のような)一部の人間に対して抱えうる欠点は、割りと多くの分野について問題にすることができるのかもしれません。今日はこんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


例えば語学を勉強するとき、単語を習得するのは極めて重要です。

「一に文法、二に単語、三四がなくて五に単語」というような——私はその起源を知らない——言い回しもあるくらいには、特に現用されている言語の学習にあってある程度の水準に達した人間であれば、単語の学習はメインになってくるところがあると思われます。

もちろん、東大に入ってくるような集団であっても英文法をきちんと身につけていないという人が大半ではありますが、とはいえある程度のレベルに達しているのであれば、単語や熟語表現をひたすら習得して適切に使えるようになっていくということが、語学力向上の中では欠かせない要素になるのでしょう。それに、単語や熟語を少しずつ身につけることで、英文法が身についてくる、という面もないわけではありません。

とはいえ、単語を覚えるというときに大切なのは、単語の使い方であり、単語がどのような文脈に置かれるか、ということです。

バラバラになった単語をバラバラのまま日本語訳と結びつけて覚えているのではまったく使いようがありませんし、そもそもそんな弱いつながりでは、単語自体を記憶にとどめることも困難なわけです。単語に対して意味づけを行うこともなく、ふわふわと無意味な単語の風船を浮かべるばかりでは、全く時間を浪費することになる可能性もあるでしょう。


あるいは似たようなことは、哲学史上の知識についても言えます。

〇〇という哲学者がこんなことを言いました、ということは、それはそれで大切で価値を持つことかもしれませんが、そうした文言がどのような文脈で・どのような発想に基づいて振り出されているのか、どのように受容されたのか、具体的にはどのような言葉遣いをしているのか、という複合的な文脈を把握していなければ、そもそも当の文言の意味を深く理解することはできませんし、どこか空中にふわふわと漂った、大した意味づけを持たない言葉として記憶に留まるばかりでしょう。ひょっとすると記憶からも逃れてしまうかもしれませんし、悪くすると誤解を抱えつづけることになります。

そして哲学史上の知識というものは、或る種の人間にとっては、そこから出発して元のテキストを読んだり、あるいは他の事象を読み解いたりするのに使われるわけですが、果たして単発の言葉・単発の名言などのかたちでなんとなく切り取られたものを取り出してきて、何かの役に立つのでしょうか。ドヤ顔をするとか、自分の信念を強化するとか、そういった目的には役立つかもしれませんが、それぐらいではないでしょうか。


あるいはビジネス上のノウハウでも、文章の書き方でも何でもよいのですが、ノウハウやスキルやHow toの類は世間に溢れています。個別の分野で使える言い回しや、個別の場面で使えるコミュニケーションの技術などに関する本は満ち溢れています。

それらが役に立たないとは言いません。ビジネスメールの書き方などの本を字引きのように使ってそれを実際に活かすというのは、実に良い使い方かもしれません。

とはいえノウハウがノウハウとして即効性を発揮するのは、それが真に小手先のものである場合のことであって、寧ろ全体のうちに位置づけられて初めて効力を発揮する重要なノウハウやスキルというものは、全体をこそ提示されねば実のところ学習効果が極めて低いのではないでしょうか。 

もちろん量は質に転化しますから、ノウハウ系の本を100冊ぐらい読めば結構なことができるようになるかもしれません。が、それはそれで大変です。

であれば、寧ろ私たちが学ぼうと試みるべきは、あるいは本当に学びたがっているのは、大量のノウハウそのものというよりも、いかなるノウハウやスキルを組み合わせ、何にどのくらい時間を割き、どんな気持ちで特定のプロセスを実施しつづけたか、というようなことに関わる、作例や、体験談や、自伝のようなものではないでしょうか。

繰り返しますが、ノウハウは溢れているのです。分断された知識、あるいは現実から抽象されてきたセオリーというものはたくさん、腐るほど見つけられるのです。

しかし、それを応用した結果として生成される全体、あるいは知識や理論の背後にあったはずの全体性を持った一つの過程というものは、実のところなかなか提示されないようです。そしてこれは、表面的には言われていないように見えるのですが、実際、全体的な文脈がなければ、そうした知識や理論は説得力を持ちにくく、また幾分抽象的で捉えがたいようにも思われるのですね。

皆さんにも経験があるかもしれませんが、細かく区分された単発のスキルというものは、提示されても、ピタリと当てはまって使えるというわけではない可能性が高いわけです。勿論、応用・実践は個々の人間がやれば良い、という主張はわかりますが、果たしてそうした主張は、教える立場の人間が振り出すものとしてはあまりにも冷酷ですし、教わる側からすれば、「寧ろそこを教えてくれよ」ということになるのではないでしょうか。

ひとつでいいから具体的な例をくれ、という話になるということですし、網羅的・体系的であるよりも、可能な参照軸としての、ノウハウやスキルが固有の仕方で散りばめられた一気通貫したシナリオこそが、切り刻まれて包装されたノウハウやスキルよりも、多面に渡り有用ではないでしょうか、ということです。

……例えば数学は、大学受験レヴェルにおいてさえ、なかなか把握することの難しい定義や概念を多く出してくるものですが、それは演習問題といった或る種の全体性を通じて理解されるもので、ラッピングされた個別のものを理解してから応用に進む、という順序は必ずしも最速・最適ではないのです。まして(高校数学における極限やら微積分やらと同様に)学的な根拠をつけづらいものであればなおさら、全体をまるっと把握しなければ仕方がないと、いうものが多いのではないでしょうか。

……あるいは食材の使い方は、料理を作ってみる過程や、料理ができてゆく過程を見て、初めて納得・習得されるのではないでしょうか。


全体に着目することのメリットは、ひとえに、個別のものに着目していては得られないものを得られる、ということに存しています。これだけではトートロジーめいているので、くどくどと書いてみましょう。

例えば大学受験に向けた学習アドバイスをしているホームページなど見ると、「この参考書が良い」「この参考書はこんな人に向いています」などという個別の知識が書かれているのですが、はっきり言って、あまり役立つと感じられたことがありません。

もちろん、「こういうレベルにあって、こういう傾向を持っている人であれば、この参考書は合うだろうな」と思って、レビューする側は含みなく書いているのでしょうが、本当のところで重要になってくるのは、字が大きい・小さいとか、ルビがついている・ついていないとか、あるいは組版や背の開き具合がどうだとか、そういった無意識のうちに退けうるような評価基準のほうだった、ということもあります。

もちろん無駄だというわけではありませんし、情報はある意味では必然的に個別的なものですが、単発の知識をいくら出したところで、つまり全体性を剥ぎ取られた個別的でしかない知識・スキル・ノウハウというものは、ばらばらにされると見えなくなってしまう、しかし決定的に重要ななにかを欠いている、とは言えるでしょう。

寧ろ、逆説的ではありますが、私たちが意図せず求めているのは、すぐに役立ちそうなキレイなノウハウではなくて、それぞれの人間に固有の全体性を持った一つの泥臭い物語や、体験談や、存在様態そのものの記述ではないでしょうか。読み手とは異なった個別の経験を示すに過ぎない、いわゆる合格体験記のようなものが比較的好意を持って捉えられるのは、この欲望の裏返しであるように思われます。

学習法とか、どのタイミングで何を勉強するとかいうことは、性格や環境やその時々の社会的状況によって変わるわけですが、そうした差異があるということを踏まえて自分の個別的な状況に何かを活かそうと思うのであれば、寧ろ逆説的に、自分とは異なるかもしれないある人の固有の文脈を丸ごと飲み込んでみる方が、学びが大きいのではないかということですし、私たちは薄々そうした事実に気づいているのではないでしょうか。あるいは、最終的に個別のスキルやノウハウというかたちで切り出して学び取るにせよ、元の文脈を知っているということで、その要素の広がりや活かしっ方に対して、実に高いアンテナを立てていられるのではないでしょうか。


箇条書きのスキルのセットからは、スキルの連続性、ないしはそれらのスキルを貫く固有の論理の体系へと意識を向けることは困難ですが、実のところ、良き成果を上げる人をその人たらしめるのは、そうした隠された論理のほうです。

箇条書きにされてしまうと、あるいはぶつ切りにされて小綺麗にラッピングされてしまうと、そうした不可視の論理が寸断されて、姿を消してしまう。あるいはぶつ切りにしてみると、実はその人をその人たらしめるために重要なのだけれども、重要でないように見えてしまう細やかなスキルというものが消えてしまう。そういった重要なもの、つまり、諸要素をつないで一貫性を持たせている固有の因果論理や、あるいは傍から見ていると目立たないような極めて細やかなスキルがあり、それこそが重要ではないかしらん、ということです。

そして、そうした全体性こそ、実は学習者が密かに求めてやまないものではないでしょうか。


これは自分を語るときにも、他人を捉えるときにもそうではないかと思われます。

自分を語るとき、自分の身につけている知識や資格やノウハウのセットをバラバラバラバラと提示するのも一つのあり方だとは思いますが、寧ろ自分が認識しているそういった要素を連結し溶かし合わせるような一個の論理的ないし物語的な枠組みを提示するということが、実は読者の心に訴える効果を持つかもしれません。

あるいは、他人がぶつ切りになったスキルセットを渡してくれているのだとすれば、その人がそうしたスキルやノウハウというものをどのように配置して使っているかということをとらえようと努力してみる、つまり他人の活動に対してリバースエンジニアリングを働かせてみるというアイデアが必要になってくるのではないでしょうか。

なぜなら、繰り返しますが、或る種の全体性は、個別の要素を集めてきても構成されないもので、寧ろ様々な諸要素を集めたうえで、それをどのように配置し、つなぎ合わせ、融合させるかということにこそ、極めて重要な価値が眠っているからです。

言い換えるのであれば、私たちが欲しいものは個々の要素・個々の知識・個々のスキル・個々の理論といったものではなくて、寧ろそうした個々の要素の重要性を踏まえたうえでそれらの要素をつなぎ合わせる融合・連結・配置の在り方で、この点こそが学びにくく、しかし重要ではないかということです。

私たちがシリウスという星を見出すのは、それが単体で明るく美しい星だから、というばかりではありません。ある星座のうちに位置づけられ、また気候や災害といった事象と結びつきあって様々な意味を背負っているからこそのシリウスです。

分断された知識やノウハウやスキルといったものは、それ自体役立つ可能性を持つものではあっても、文脈のなかに位置づけられて初めて強い輝きを放つものであるからには、初めから全体を学ぶ・全体性を強く念頭に置く方が良いのではないか、ということですし、私たちがスキルやノウハウというものを提示せざるをえない状況に置かれたときにも、そうした観点、つまり全体性を持たせるという観点が、一つの示唆を与えるのかもしれません。

■【まとめ】
・個別の知識やスキルやノウハウはそれはそれで重要であるにしても、それは全体性のもとで捉えられる必要がある。

・分割することで見えなくなる細やかな技術や、全体を貫く因果論理が重要だ、ということである。知識やスキルに関する記述が反乱しているからには、寧ろこちらにこそ焦点を合わせる必要がある。

・教えざるをえないときにも、学ぶときにも、こうした点を心得ておくことが重要ではないだろうか。