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【819】「バカと関わりたくない」という気持ちを認める

「君たちはステージが低い 君たちと話をしていると君たちのカルマが入って来て私が苦しくなる」とはある宗教団体を描く漫画の一節ですが、この種の意識はじっさい多くの人が持つものでしょう。

これに類することを最も素朴に言いがちなのが、「ネガティヴ」なことを蛇蝎のごとく嫌う人々です。いや、或る種の自己啓発に染まった人間が示す、ネガティヴなものに対する態度のネガティヴさは本当に強烈です。もちろん或る種の自己啓発は起源という面からも新興宗教なのですが、ネガティヴ嫌いというものは自分がネガティヴであることを意識していないぶん、つまり自らの信仰が自殺的であることを知らない分、認識の点では多くの新興宗教に劣後します。「自己啓発」という語をpejorativeに用いる人間がしばしば「自己啓発」チックなことしか言っていないというケースはよく見られ、またそうした人々こそがネガティヴなものに対してネガティヴな態度をとるのですが、彼らは強烈なブーメランを放っているというなりゆきです。

あと、似た例としては、「部下が他責的で困る、自責的になってほしいのだが」という、あながちありえないとも言えない発言ですね。もちろんこの発言が極めて他責的で、教育プロセスや採用プロセスに積極的に介入して変えていくことこそが「自責」になるのでしょう。

ネガティヴへのネガティヴな態度、他人の他責的傾向に関する他責的な見解、が良いか悪いか、ということは問題にしませんが、少なくとも何かと理由をつけて嫌なものを排除する気持ちは私たちの中に深く根ざしており、しかもその気持ちにすら気づかない、ということはしばしばです(逆に言えば、共存ということを真面目に言う人は、嫌なものを受け容れる覚悟を持つ必要があります)。


私も、「バカと関わりたくない」という気持ちは常々持っています(ただしこれは明確に意識しています)。

「バカ」というのはペーパーテストや学歴の話ではなく——いや、話が通じるか否か・語彙が近いか、心地よい速度でコミュニケーションができるか、という点に関わるので、全く関係がないと言えば嘘になりますが——、寧ろよく知らないことを知っているかのように装って憚らない連中とか、自分が読めていない可能性を想定できない読み手とか、初対面の相手に敬語を使えない連中とか、求めてもいないのにクソみたいな(と言ってはウンコに失礼なくらいに無価値な)アドバイスをしてくる輩とか、あるいはこうした「バカ」とそうでない人々を分かつラインを固定してしまって反省することができない連中とか、のことです。あるいは何をするにしてもドキっとしてためらう程度の廉恥心があれば、多くの場合にはバカではありません。

或る種の人間と話したくない・関わりたくない、という自分の気持ちは、おおっぴらに表現するかどうかはともかく、持つまいと思っても持ってしまうのですから(だからこそ精神の自由が公的に確保されねばならないのですが)、その点を否定することは時宜を得ません。取り敢えず自分はそういうものなんだと思っておくことになります。

それどころか、人間はどれほど豊かな経験を持ち世知に長けていたとしても、表現をするという傾向性から逃れることはできないのですから——これは「表現したい」という明示的な気持ちが言語化されているか否か、とは関わりのないことで、人間はそのようにできている、ということです——、単に蓋をするというのは好ましくありませんし、心にもないことばかり言って他人と関係を保とうとしたり、あまつさえ何か利ざやを得ようとしたりするのもやはりヤバいことです「嘘から真を出す」つまり表現を当座曲げうる(しそうしたほうが良い場合もある)などというのは、大した嘘をついたことがない(嘘をつく必要がないままに生きることができた)人か、精神と表現(の自由)について全く考えたことがない人が言うことです。踏み絵を踏むことが無条件に正しいと思っている、あるいは踏み絵を踏まずに死を選ぶ者をどこか自分とは根本的に違う空想上の話だと思っているタイプの、絶望的に想像力を欠いた人々です。

……とはいえおおっぴらにするわけにはいかないわけですから、そういうものには迂遠な表現が与えられるべきですし、それは皆さんが日頃なさっていることです。「敬して遠ざける」というのはまさにそういった態度です。綺麗に言っているだけで、要は「ノーセンキュー、お帰りはこちらです、二度と来るな」と言っているわけで、言葉や態度を綺麗に見せているだけです。いやそれが「敬して」の内容なのだ、と言われればそれはその通りですが、別にそこに敬する気持ちはなく、たかだか打算しかないのでしょう。

あるいはいっそう迂遠な表現——通常の意味での表現ではなく、謂わば生き方というレヴェルの表現——が用いられることもしばしばです。ゴミを目に入れたくないからゴミのような作業や人間関係を外注するだけの収入を得られる仕事に就く、というのはその例です。「いや、単に金がほしいだけだ」というのは、まあな〜んにもわかっていない主張です。広義の表現においては様々な欲望が現れるものです。

……ある男が別の男を刺殺した事件に関する刑事裁判において、無実か否か、量刑をどうするか、といった問題に関しては、殺意や刺す意図の有無が重要になりえますが、その点の判定については、自白(や、あるいは追及の事由に抗する本人の証言)はたかだか一個の材料にしかなりえず、様々な行為や状況から総合的に意図が判断されます。本人がいくら「殺すつもりはなかった」と言っても、「いやいや、ナイフがこの角度・深さで刺さっているのだし、君は彼に借金があって、ひどい仕打ちもされていたそうじゃないか。殺意が認められて当然だよ」ということになるわけです。

このような意味において、行為から、表現から、総合的に意図が判断されるのですし、自らについてもそう考えるべきでしょう、ということです。

たとえば教職についている人間は、自分が職業にかける気持ちの純粋さを信じてはなりません。特に小中学校の教員であれば「自分の中には、自分よりも地位や力において劣る者を支配して動かしたい、という気持ちがあるのかもしれない」と一度は疑うべきです。ここで「自分にはそんな気持ちはない、それは違う」と言い張るのはどこまでも愚かで、「結局のところ教職に就いたということは、まだ表に出ていないけれど、立場が弱い相手から慕われたい・そういう相手を支配したいという欲望が自分にもあるのかもしれない」と疑ってみるのでなくてはならないでしょう。とりわけ教職は受益者の遠い将来に本来は責任を負うものですが、それが法的に追及されることは極めて稀であるからこそ、極めて高く厳粛な倫理観を持つことが求められるのであり、それはとりもなおさず、職業それ自体が孕む構造的な危険に、あるいはその職を選ぶ自らの欲望の形式に、注意を向けるということが求められるということです。

他にも、だいたい服を汚さない職業につきたがる人は、ぶっちゃけ肉体労働をバカにして、肉体労働に携わる人を遠ざけていませんかね。いやそうではない、と言う人だって、「そうではない」と言っておかないとマズいと薄々わかっているからそうしているのではありませんか。あるいは突如、自分がやっていないけれども社会や自分の生活を支える基盤を作るタイプの肉体労働に対する「感謝」のようなものを表明しはじめる人、そうした感謝を持つことを強烈に勧奨しはじめる人は、どこか自分の中に後ろめたい気持ちがあるから(あるいは)そうしているのではないですかね。もちろん特定の誰かが肉体労働をバカにしている、と指弾するつもりはありませんが、少なくともそんなに感謝される素晴らしい仕事であるのにそれを自分でやっていないという人は、多くの場合にそうした仕事に就くことを考慮したことすらないはずです。

介護なんかもそうですよ。これはもちろん人によるのですが、私が非常に気持ち悪いなと思うのは、介護等になんの関係もない不祥事を起こした人間が、謹慎するのみならず、介護現場での労働を禊ないしセルフ刑罰のように利用していることです。これ、同じく肉体を使った重労働である工事現場や引越業者の労働に置き換えられるんですかね。あるいは、謹慎中は銀行員や戦略コンサルとして働きますというのは「セルフ刑罰」になるんですかね。ならないでしょう。かなり悪意のこもった見方ですが、介護現場での労働が自主的な刑罰のように用いられるのは、介護が「特有の考え方を持つことも、技能を持つことも必要ない、しかも世の中から軽視されている仕事」であるという考えと無縁ではないでしょう。ほんとうは、介護というかケアに関する、また人権という発想を鋭敏に持っていなくてはならない分野は極めて繊細ですし、仮に人権意識に置いて欠落を示すという形式の不祥事を起こしたのだとしても、彼らに必要なのは労働ではなく勉強であって、心得のない者を下手に現場に立たせてはならないでしょう。介護をセルフ刑罰として利用するというのは、介護やそれに携わる人々を内心バカにしているからこそ成立してしまっている慣行である、という可能性はあります。

こうした職種に対して感謝する(ポーズを示す)場合も、そうすることで齎されるよい効果を狙っているわけで、職業やそれに携わる人々への肯定的な評価があるわけではありません。あるいは感謝の言葉を言うにしても、それは物見遊山的に動物園に行ってみるようなもので、自分でその評価を引き受ける気持ちなど全くない。寧ろ「私は絶対にやりたくないし、みんなやりたくないと思うけれど、それでも必要なことをやってくれてありがとう、私は絶対にやらないけど」という奢りを前提したものですらありうるでしょう。「私はそんなふうに人をバカにしたりはしない、本当に感謝しているんだ」などと言い張ってしまえるとすれば、極めて鈍感で無反省だということです。少なくとも、自分で気づいている自分の気持ちというものが、何かを圧倒的に糊塗した結果ではないか、ということを疑う必要があります。感謝や称賛が常に嘘で不純だとは言いませんが、実は見下した結果でしかない(と判断せざるをえない)感謝や称賛は極めて多いものです。


積極的な動機だけではなくて、消極的な動機に従って動くこともおおいにあるわけで、不潔なものとか不道徳とかを目に入れないために私たちは色々やっています。いや、私も不道徳なことに自ら手を染めている感覚を味わいたくないから就活しなかったわけです。今は人づてに紹介されて、道徳的にも知的にもかなりいい感じに働かせてもらっています。が、道徳的にも知的にも私が満足している部分は小さな小さな部署のみであって、法人のあらゆる部門や、関わる業界それ自体が完全に道徳的かと言えばそうではありません。もちろんそうした諸部分は法人のために、そして法人の各部署の存続に必要な部分であって、法人がそうした悪——あるいは、私から見れば不道徳であるところのもの——を肩代わりしてくれている、というなりゆきです。

(いやもちろん生きること自体が不道徳とも言いうるのですし、その結論に私は全く反対しませんから、要するに不道徳をあの手この手で隠蔽しあるいは押し付けあうのがこの社会です、と言うこともできます。これに反対する人は、はっきり申し上げて、そもそも鈍感だから不道徳の蔓延に気づいていないだけです。)

道徳的にフケツな人はだいたい、自分がフケツだと思っていて、しかしそう認めるのはキツいから、フケツでないふりをして様々な言い訳をつけるのです。フケツと看做されることは絶対的フケツではない、というか、ある尺度に照らして初めてフケツでありうるのですが、その尺度を深く受け入れてしまっていて拒みきることができないから、その尺度を踏み潰すことができず、無理やりに例外事項を設けて自己弁護を図るのです。たとえば不倫する人々のことです(別に不倫は絶対悪ではないのですが、基本的には悪だと了解しているからこそ、やたら言い訳をするということです)。愛なるものを引き合いに出すとしても、それを至上の価値として用いて不倫の正しさを主張するのではなく、語の正確な意味において姑息な弁明の手段として用いるというなりゆきです。

別にそうした、当座火の粉を振りはらって目を背ける、「後は野となれ山となれ」式の態度が悪いとは言いません。他人に汚いものを処理してもらおうとする態度が悪いとは言いません。悪いものが悪くないかのように振る舞うことのほうがよほど悪でゴミです。

しかし、フケツなものをフケツだと思って遠ざけたい気持ち、バカと関わりたくないと強く思う気持ち、「ネガティヴ」なものに対するどこまでもネガティヴな気持ちがある、ということをなにも考えずに糊塗してしまっているとすればそれは問題で、積極的に表現を行うかどうかはともかく、認めたくないかもしれない欲望があると認識する(ないしは少なくとも認識しようと試みる)のが第一歩であって、そうしてこそ初めて、サウンドな実践が可能になることでしょう。

逆に言えば、自らの欲望を反省しないクソのような態度でいる人には避けようのない限界があるのですし——これは必ずしも「儲かる」とか「儲からない」とかいうクソみたいなレヴェルの話ではありません——、私としてはそうした人々には痛烈なしっぺ返しがあればよいと心から願わずにはおれません。