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【186】フランス語を話せないのにわざわざフランスに来るガッツを(少しは)見習いたい?

郵便局に行ったところ、随分若いアジア系の学生が立ち往生していて、たまたま近くに並んでいた私に助けを求めてきました。

サングラスをかけていてマスクをしていても同じアジア系の人間と分かって親近感を覚えてくれたのか、英語で丁寧に質問してくれて、内容も思ったほど大したことではなかったので、久々に口にする英語でも問題なく応対できました。

互いの用事を終えて少し喋ってみると、彼女はフランスに来たばかりの留学生のようで、これから学位を取るために勉強するのだと言います。今日はそんな彼女を見て思ったことを。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※写真はサンタンジェロ城(ローマ)。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


英語だけで学位を取るということは、わりと不可能ではなくなってきているわけです。特に博士課程であれば、日本だとそうはいかないかもしれませんが、フランスやドイツでは英語の授業しか受けなくてよい場合もありますし、授業とは言っても学会に出てサインをもらったり、それこそ英語の授業だけ取ったりすれば、後は博士論文だけ書けば良い、というケースもよくあります。

なので、いくらフランスに来ようとも、英語だけで学業をやろうと思えば、やってできないことはないのですね。

彼女が専攻している分野は、特に英語でやるということが重視されている分野のようでしたし、学位論文の内容とともに、コースワーク(基礎的な方法論等を身につける必修の科目で、たとえば文学部等だとほぼない)が重たいので、どこで学んでもよさそうなのもです。しかも英語でできるとなれば、どの大学に行くかということはそれこそ選択肢が無際限にあり、アメリカでもイギリスでもオーストラリアでもニュージーランドでも、スペインでもドイツでもフランスでもよかったのでしょう。


ともあれすごいなと思われたのは、英語で学位が取れるとはいえ、フランスで暮らすには英語だけではどうにもならない面があるということははっきりわかっていたはずなのに(そして現に困っているのに)、それでも彼女がわざわざフランスに来たということです。

付け加えるなら、疫病でてんやわんやのこの時期に、留学を先送りにするとか、いっそやめにすることも考えられたはずなのに、わざわざ新学期にあわせて飛行機で来たわけです。

しかも、住所をちらりと見るに、大学寮ではありません。おそらくは自分と同じ国の出身者のツテで予め契約はしていたのでしょうが、それでも特有の困難があるはずで、実際、彼女が郵便局に来ていたのも、そうした困難に関する書類を郵送するためでした。

いやはや、凄いですよ。

英語だけではどうにもなりづらいところがある、ということくらいは分かっていたはずなのに、あえてフランスに来て勉強をしようという気持ちがあるということに、雑駁な言い方にはなりますが、静かな感動を覚えたのですね。

彼女が第一希望としてフランスの大学に行きたがっていたのか私は聞いていませんし、特に聞くつもりもありませんでしたが、ともかくフランスに来ると決めて実際に来た、というのはすごいことであるように思われるのですね。

私はと言えば、フランスを選んだのにはもちろんそれなりの理由がありますが、仮にフランス語ができていなかったら、そもそもフランスを選択肢として考慮しなかったことでしょう。

例えばドイツやオーストリアやスペインやチェコやロシアを、私は最初から留学先としては考えていなかったのですね。

なぜなら私はドイツ語もスペイン語も苦手ですし、チェコ語もロシア語も簡単な自己紹介ぐらいしかできないからです。いくら大学では英語で書いていいと言われても、きっとオランダくらいに誰もが英語を喋る環境でもなければ、最初から選択肢に含めていなかったことでしょう。

フランス語はある程度自由に使える、という自信があったからこそ——もちろん相対的な問題で、言語学習には終点はありませんが——フランス留学に踏み切ることができた、ということがあります。

そう思ってみると、彼女のガッツには見るべきものがあります。

郵便局員との会話ぐらいなら日常会話を多少勉強していればできそうな部分もかなりあるはずなのですが、それさえできないようでしたし、また私が付き添ってこの封筒の宛名を書いているのを見るに、ごく単純なフランス語もほとんど読めないレベルなのでてす。

そんな状態でフランスに来るというのは、もちろん私ならば、考えられないぐらいに無謀です。

しかし、無謀なままに突き進むことを恐れないことには、良く言えば勇気を感じられるのですね。


先ほども申し上げている通り、私はそうした点については極めて臆病なところがあって、考えてみれば旅行をするにしても、ヨーロッパにいる期間が割と長い人間としては珍しく、優れた美術館のあるスペインや、景観の美しいチェコに一度も行ってないのです。

これに対して、自分である程度現地語を操る自信のある国にはかなり足を運んでいます。

イタリアは合計で30〜40泊はしていますし(特にフィレンツェは累計20泊くらいしていますね)、ドイツ・オーストリアにも合計で20〜30泊はしていると思います。

フランス語圏も、特に学部時代に留学していたときにはかなりいろいろ街を回りました。

パリは当然ですが、寒々しいル・アーヴルの砂浜、フローベールの故郷であるルーアン、バタイユが描いた大聖堂のあるランス、薔薇を描いたル・シダネルで知られるジェルブロワ、有名なリキュールであるシャルトリューズの産地にほど近いグルノーブル、ポール・リクールの生まれたヴァランス、教皇庁のあったアヴィニョン、海のやたら美しいマルセイユ、美食の街リヨン、ほぼドイツなストラスブール、『ご注文はうさぎですか?』の聖地とされるコルマール、等。フランス国外ではジュネーヴを特に愛しています。(……と書いてみると、どうにもフランス東部に偏っていますし、ベルギーにもルクセンブルクにも行っていない……)

スペインやチェコに一度も行かなかったのは、自分がほとんどスペイン語やチェコ語ができないということをよくよく分かっていたからです。

英語が通じるだろう、と言われればもちろんそうなのですが、現地語でないとなんだか上手くいかない感じがして——実際、フランスやイタリアは、現地語で話すほうが色々うまくいくのも確かです——、現地語をほとんどわからないところには行きたくなかったのですね。

逆に、ドイツ語圏やイタリア語圏に行きまくっていたのは、多少の会話ならある程度なんとかなるという自負があったからにほかならないのです。


郵便局で会った彼女がフランスにいるというのは、私で言えばいきなりモスクワで生活を始めるようなものでしょう。

そこまでの思い切りの良さを発揮することはなかなか難しいように思われ、それが良いか悪いかは別にしても、一定の驚きとともに受け入れられる事態であったのは事実です。


慎重なのとフットワークが軽いのとどちらが良いか、ということは一概には言えません。

個々人の性質や、変化への対応能力や、その他の個別の状況に関わってきます。ある状況というものは二度と同じかたちでは現れないのだから、良いか悪いかを語ることが無意味だということもできるでしょう。

それに、フットワークが軽いとか、慎重だとかいうのは、グラデーションの問題で、つまりイエスかノーか、オンかオフかで語ることのできないものですから、どちらが良いかということはその場合に応じて異なります。

しかし重要なのは、私のように慎重にやる人間もいれば、彼女のようにある種思い切りの良さを発揮してガンガン突き進んで行く人もいる、ということです。

おそらく、そのどちらの態度も知っておくことが大切なのですね。

……と言ってみるのは、別に石橋を叩いて壊しそうな私の態度を無駄に追認したいからではなくて、実際そうだということです。

自分はまあ出来ているから、困っていないからいいやと思って、自分なりの基準を墨守して生きていると、それ以外の仕方で外界に対応することがなかなか難しくなってゆく、ということは目に見えていますし、それはどちらの側にも言えることでしょう。

私は私で、別に「現地語をある程度知ってから現地に赴く」という
慎重な方針をとっていて困ったことはありませんが、それ以外のやり方をほとんど知りませんでした。今回は、例外的なくらいにフランス語をやっていないのにフランスに来た学生の姿を観て、ある種の生活態度のオプションを手に入れたわけです。

今回知り合った彼女は彼女で、同じくらいのフットワークの軽さをきっと彼女はあらゆる場面で発揮するはずですから、そうでない振る舞い方というものを身につけるのはなかなか難しいでしょう。寧ろ私のように(?)慎重な人間と深く関わる機会があれば、そうした態度を身につけるきっかけになるのかもしれませんが、少なくともひとりで生きていては、そういう機会もなかなかないことでしょう。彼女にとって私がそういった気付きを提供する素材になったとは思いませんし、別に彼女がそうした気付きを「得る」必要もありませんが、一人でいれば、或る種ガンガン進んでいく態度は崩れないままでしょう。


今あるかたちでやっていけているならそれでいい、という考えは、もちろんそれはそれでアリです。

しかし、同じやりかたがいつも成功するわけではありませんから、態度に関しては複数のオプションを持っておいてもよい、ということは言えるのではないでしょうか。


私が今回何を確認したのかといえば、人と会って話すのは自分を相対化するために極めて重要なプロセスなのだな、ということです。

もちろん、或る種の他者を知るというのであれば、本とかフィクションとかを通じて学んでも良いことかもしれません。しかし、やはり具体的な顔や背景というものが見えているとわかりやすいものですし、身に迫って感じられるという面もあるのでしょう。

実際、本や遠い体験談にきこえる、言語をよく身に着けてもいないのにパッパと留学して「実地」で身につけることを良しとするような態度を私はあまり良く思えませんでしたし、その見解は今でも変わりませんが、しかし、「実際に外国に行ってみてあとでどうにかする」という泥縄的解決を実践しつつある人物が実在するのを前にして、少し思うところはあったわけです。

■【まとめ】
・学位を英語だけで取れるとはいえ、その土地の言語をよくわからずに留学を始めるタイプの人を目撃した。しかも彼女は、疫病が流行っていて困難な時期に、わざわざ留学を始めている。

・かたや、ある程度その土地の言語を勉強してからでなければ留学に踏み切れない人もいる。

・こうした大胆さや慎重さを例とするような、様々な人間の性質の違いというものは、もちろん本やフィクションを通じて学ばれるものではあるけれども、やはり人と会うことで身に迫って感じられることがある。

・人を通じて、様々な態度のあり方を自分の中に蓄えておくことで、到来する事態への対応のあり方を柔軟に考えることができるのではないだろうか。


みなさんは、どうお考えですか。