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【435】不感症者の感動/ルクレーティウスの入れ子?

学びを深めていけば当然、当該の分野に関する知識は増え、感覚は研ぎ澄まされてゆくことになります。そうしていると、学びはじめ・やりはじめのうちには極めて新鮮かつ鮮明に見えていた様々な事柄が、だんだんと色あせて見えてくることがあるでしょう。

あるいは、さも驚くべきことであるかのように語られているものごとが当然のことに見えてきて、いちいち感動していられなくなる、ということがありうるでしょう。

たとえば私は、西洋諸語や古典語を一般人よりは長くやってきたので、Twitter上の語学学習アカウントやら、お役立ちブログやらが、さも驚くべきことであるかのように言っていることは、特に語源や由来に関する限り、概ね旧聞に属することです。「そこまで大仰に書くことか?」と、ともすると冷笑的な顔になってしまい、いやいやよくない、と思いなおしてウィンドウをポチッと閉じる。人間ができていないので、全く、日々気をつけつづけなければなりません。笑

とまれ、学習や経験が深まれば、驚く対象は変わるわけですし、力が入る対象も変わってくるわけです。それは単なる変化というより、進化であると言えるでしょう。かつて驚くべきだったことは当然になり、かつては気づかなかった面白さに気づくようになります。かつては注意しないとできなかったことが、ほとんど自動的にできるようになります。

たとえばラテン語やギリシャ語の動詞を辞書で引くときには、ふつうは1人称単数形現在のかたちで引きます。不定詞(極めて大雑把に言えば、英語の原形に相当するもの)で引くのは、NiermeyerやBlaiseなど限られた辞書のみです(なおこの双方は、古典ラテン語というよりは中世ラテン語の辞書です)。これを知ったとき、「えっ?」と思いましたよ。でも、今となっては当然です。

あと、セム語系(ヘブライ語やアラビア語)だと、辞書を使うときには、動詞は3字からなる語幹で引くことになりますが、このかたちは寧ろ3人称単数形に該当します。いやあ、最初はびっくりしました。今はそういうものだと思っている、というか何も考えていませんが。

フランス語で論文を読むのも、昔は重い腰を上げてという体でしたが、今やもはや自動ですよ。


このようにして知識をストックし、「当然」のレベルを引き上げ、或る種の不感症を患うことは、一定の専門分野・領域に関する知を身につけることのひとつの側面と言えるでしょう。いちいち当然のことに感動していては仕事が進みませんから、無感動になるのは当然のなりゆきです。(ときに数値化することの難しい)高い生産性は、淡々粛々とこなすことでこそ実現されるのです。良い工場は静寂を保っており、まずい工場は賑々しいのです。

とはいえ、驚きがなくなるということ、不感症になるということは、ともするとマンネリ化につながります。もちろん、マンネリに陥っていても一定の成果をあげつづけるのが専門家でありプロフェッショナルだ、とも言えますが、それでも日々驚きに立ち会うことでこそ、実践知や、あるいは実践の数歩手前にある知が刷新され、より洗練されたものになっていくのではないか、と考えられます。知にも新陳代謝が必要だということです。

まさに新陳代謝です。なぜなら、最初に叩き込むときはともかく、体の内容物は一度に総取り替えするわけにはいかないわけで、摂取して分解・加工してこそ身になるわけですし、その過程では出ていくものもあるでしょう。食いだめには限度があるという成り行きです。新しいものを定期的に食べて、古いものは血肉にするか、いらないものは排泄する必要があるわけです。


その観点からすると、自分が素人であるような分野にある場合にはもちろん何ら問題はありません。その分野で学んでいるだけでひたすらに驚きを得ることができるわけですし、自分よりも優れた先達から学びを続けていれば良いわけです。

が、自分が既に一定の成果を上げていて、寧ろ先達として、例えば年次が下の人たちを指導しなくてはいけない場合とか、あるいは少なくともあなたが専門とする分野に入ってきて日の浅い人たちを触れねばならない場合にも、盛んに新しい知見に触れ続けることが必要になる、というのは必定でしょう。

では、不感症をさしあたり逃れて新しい知見に刺激を受ける方策はどこにあるのかと言えば、もちろん第一次的にはさらに高い方へと手をのばすことですが、自分よりも経験の浅い人こそがもたらす新鮮な驚きもある、ということが言えるでしょう。

そして自分より後に来る者たちが訝しみ驚く、そうした新鮮な反応を見せている様をまさに目の当たりにして、そのことで、自分自身の持っている感覚や「当然」のレヴェルがかくも引き上げられてきたのだ、自分もかつてはあのようになんでもないことに驚き感動していたが、いつしかそんなことには感動しない高みにまで到達していたのだ、ということを知って、驚き、喜び、感動することができるかもしれません。

ルクレーティウスが『事物の本性について』第2巻の冒頭で述べたことを思い浮かべましょう。風雨に大海が波を立てて、他の人が大いに苦労している(labor)のを安全な陸の高みから眺めること、野戦を安全な丘から眺めることは、快い(suavis)ことです。他人の苦しみや精神の動揺が快いということではなく、自分はそのような目にあっていない、ということを知ることができるから快いのです。

驚きは別段マイナスの意味ばかりを背負わされるわけではありませんが、もちろんある意味では精神の動揺ですし、先程見たように、驚いてばかりでは行動はそうそう進まないのです。寧ろ驚くべきことに驚かなくなってからが、淡々とできるようになってからが勝負です。そして、自分の後を歩む人びとが何の変哲もないことに驚いているのを見ることは、自分が同じ事柄に対して平静であることに、自分がきちんと成長しているという事実に、驚き喜ぶ機会になるわけです。

そしてこうした構造は、入れ子状になりうるものです。つまり、自分が日頃出会うような驚きというものも、もっと上の人びとから見れば「まだ君はそのレヴェルにいるのかい?」と思われるようなものかもしれない、という想像を行わせるものでもあると言えるでしょう。つまり、さらに上があるのではないか、と自問自答する機会になるということです。

自分がある人と比べて高みに立っていることは確かであるかもしれないにせよ、さらに上から眺める景色があるのですし、標高が高くなればなるほど、人影もまばらになり、空気も張り詰め、快い平穏があることでしょう。そうした高みから見れば、私たちも難破船のうちで高波に揉まれて苦しむ哀れな船夫のようなものかもしれません。

そう思ってみると、自分が日頃立ち会う驚きや、当然だとは思えないような非常事態もまた、ほんとうは些事に過ぎないのかもしれませんし、あるいは些事に過ぎぬと思えるほどに精神を練磨し経験を積んでいきたい、と思われてくるのではないでしょうか。


驚きや動揺はもちろん、先に進むためのきっかけになるわけですが、四六時中驚いていてはどうにもならないわけですし、私たちは同じことに驚きつづけるのではなく、寧ろ一度・二度驚いたものを当然のものと見做したり、そこから学んだりしながら先に進むのですし、それはとりもなおさず或る種「不感症」になることです。

とはいえこうした不感症者もまた、自分がある事柄にもはや驚かないという事実を知ることで、自分の成長そのものに驚き喜び赦しを与えることがありうるでしょう。

そしてさらに、こうした複数の主体間の懸隔を知るということは、体を入れ替えて物事を眺めるきっかけにもなるわけです。自分もまたひよっ子にすぎない、波に揉まれる船夫に、野戦に狂う兵卒にすぎない、今の自分を見下ろすさらなる高みがある、ということを予感させ、奮起せしめるということです。


以上は、冒頭近くに見たような冷笑的態度への戒めとして。つまり当座の高みから難破船や野戦の労苦を眺めて安堵する、そうした地点でとどまらずにいるために。