見出し画像

【257】chanceの語源:サイコロ、ぼた餅、主体性

大学受験の水準で言えば、chanceという語を見たら、単なる「好機」「幸運」ととらえるのではなく、中立的な意味での「偶然」や中立的な意味での「可能性」といった意味も持つよね、ということまで抑えておけば十分かもしれませんし、恐らく。

とはいえ、常々私が思っているのは、勉強であれいわゆる実学であれ芸事であれ何であれ、意味の広がりをできる限り広く把握して自分なりの理屈をつけておくことが物事を覚え・身につけ・発展させていくために極めて重要だということで、この信条に即して、chanceという語についても、特に語源の観点からもう少し突っ込んでみたいと思います。

単なる「お勉強」としての側面はもちろん、実用的な意味も持たせようという目論見がありますので、ご心配(?)なく。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


chanceという語がラテン語のcadere「落ちる」という動詞に由来するということは、英和辞書であっても割と大きなものを引けば載っている、あまり代わり映えのしない情報かと思います。

とはいえ英和辞書だけだと「(偶然に)落ちる」という単語からどのようにして意味が生成されていったのか、ということは分かりにくいかもしれず、その点を明らかにしてくるのは、英語よりもラテン語からずいぶん多くのものを受け継ぎ多くのものを保存してきたフランス語の辞書であるな、と思われます。

(大きな辞書を見るだけならOxford English Dictionaryでもよいのですが、あくまでも私の行論の都合から、ラテン語-フランス語メインで、しかも、ときに恣意的に順序を左右させながら、見ていきます。)

通り一遍の説明をするのであれば、cadere「落ちる」というラテン語の単語には極めて大きな広がりがあり、一つの意味として、物事が生起する、ないしは物事がある人の身に降りかかる、というものがあります。まさに上から、予期せぬかたちで降りかかるわけですね。

この用例はキケローなどにもみられ、つまり古典ラテン語ではごく一般的な用法です。

フランス語における展開を見るにはFranzösischces Etymologisches WörterbuchやLe Grand Robertを見るのが常道ですが(あるいは東大の松村教授のDictionnaire du français médiévalも極めて有用です)、それを見ると、cadereのこうした広がりをほぼそのまま受け継ぐかたちで、フランス語においてcheänceという語が用いられるようになります。

13世紀頃にこの語は、良いことであれ悪いことであれ「物事の進展・成り行き」という意味で用いられるようになります。

これが転じて、18世紀頃にごく一般的になっていたのは、複数形の用法で何か物事が「偶然に起きる可能性」を意味する用法です。この可能性を意味する表現は現在のフランス語であっても、あるいは英語であっても、きわめて頻繁に見られるものです。

「まさかそんなことはありえないよ」という時には仏語ならAucune chance!と言います。英語でも断り文句としてNo chanceという略式表現があります。それに、会話であろうとなかろうと、文中で普通に用いられる語ですね。

そして現代に至ると、chanceの語は何かが起きる「可能性」というだけではなくて、既に起こってしまった良い結果・自分にとって都合のよい偶然・思いもよらぬ幸運のことを意味するようになります。つまり、どこか頭上から「落ち」てくるようなもののうちで、特に都合のよいものとして、chanceという語が捉えられるようになるのですね。同じように、「物事の成り行き」に関しても、都合のよいなりゆきとしての「好機」のような意味を担わされるようになっていきます。

つまり、降りかかってくる・落ちてくるものには、それ以上の発展性がさしあたってありえない「幸運」と、その後にわたって可能性を発現させていくことのできる「好機」とがある、ということでした。

最初は、単なる「偶然」ないしは、人間が自分の手では操作できないような物事のなりゆき、つまり上から「落ち」て到来した物事のなりゆきをわりと中立的に意味していたのが、やはり同様に人間の手ではどうすることもできない「可能性」のようなものを意味するようになり、そしてその可能性のうちの良い部分・良い面が意味として強調されるに至り、落ちて降りかかってきた「幸福な出来事」、あるいは幸福を呼び込めるような可能性としての「機会」というものを意味するようになったのですね。


こうしてchanceの語源を見てみると、通底しているのは「人間が操作することのできないものが降り掛かってくる」ということであるように見えます。

好運であれ好機であれ、chanceはどこかから落ちてくるものであって、自分の上から落ちてくるからには、「自分でチャンスをつかもう」というのは——英語やフランス語の語源からすれば、ということですが——そもそも或る種矛盾を孕んだ表現になっている、ということさえ言えるかもしれません。

これはこれで正しい理解ではありますし、自分で頑張ることを否定する必要はないにせよ、チャンスというものは降ってくるのを待つほかないんだ、と話を終わらせることは、可能でしょう。


とはいえ、chanceという語の生成には、気になる点があるのです。

このchanceという語が使われる場面を考えてみると、どうやら全く私たちから積極的にチャンスに関わりに行く方策がないわけではない、それどころか私たちのはたらきが必須でさえある、ということが明らかになるようなのです。

現代フランス語の辞典の中でも割と大部の(全6巻組)、ある程度権威を持つものとして知られているLe Grand Robertでchanceを引くと、生成の順序においてもっとも古い語義としてFaçon dont tombent les dés「サイコロの落ち方」というものを掲載しているのです。

運命を司るサイコロという 事物の落ち方、つまり目の出方こそが、cadere「落ちる」に由来するchanceの、フランス語における最初のあらわれなのですね。

そこに載せられているある熟語は、現用されていませんが、興味深いものです。

それは、donner la chance——英語に訳せばgive the chance——というものです。これは、何らかの競技やゲームや賭け事などで「サイコロを最初に投げる」ということを意味しており、比喩的な言い方として「何らかのことがらの主導権を取る」という意味であると説明されています。

これ、実に面白くありませんか。

私たちがこれまでに見てきたchanceの語源に当たるものが示唆するのは、chanceというものはそもそも私たちに向けて上から降ってくるもので、私たちが統御しうるものでははない、というようなイメージを喚起するものでした。

しかし、フランス語として用いられはじめたchanceの最初の意味は、実に人がサイコロを投げる・人がサイコロを落とす、という場面に即して語られているのです。

もちろんLe Grand Robertの語釈では、「サイコロの落ち方」というかたちで、サイコロが「落ちる」主語にされてはいるのですが、今しがた見たdonner la chanceという表現においては、紛れもなく、サイコロを振る主体としての、つまり運命を起動させる存在としての人間が問題になっているのですし、剰え比喩的に、サイコロを(初めに)振ることが、運を天に任せることとは程遠く見える「主導権(initiative)」と結びつけて語られているのです。

もちろん、サイコロの出る目を操作することは、私たちの手ではできないことです。振ってしまったが最後、目は運命の、あるいは神の手に委ねられています。「主導権」というのも、ゲームにおいて親となるようなもので、ゲームの成り行きを全て統御できるということが意味されるわけではありません。

しかし、少なくともサイコロを振ることだけは、どうあっても人間がやらなくてはならないことですし、それは人間に許されたことです。その限りで、人間は「チャンスを与える(donner la chance)」ことができる、何らか自らの運命に対して干渉できるのです。

あるいはラテン語に遡るなら、カエサルがルビコン川を渡るときに発したalea jacta est「賽は投げられた」——外国語をやっているなら、こうした格言の類は是非ともラテン語で覚えておくとよいでしょう——という言葉もまた、天命を待つ表現でありつつ、人事を尽くすことの宣言でもあるのではないでしょうか。 

こうした語源をとりまく事情からは、少なくともchanceが、サイコロの目が生じるために、つまり運命がゼロから起動するためには、先ず人間が主体的に働きかけをなさねばならない、ということを勝手に読み取ることもできるでしょう。


繰り返しになりますが、実に面白くはないでしょうか。

chanceという語はもちろん何らかの操作不可能性、私たちの意図を離れたところからやってくる、という性質を語源的には持っているわけですし、いくらサイコロを投げるのは私たちだと言っても、結局のところ目の出方は私たちに縛られないのですが、chanceという語がフランス語において導入され成立した最初期には、専らサイコロの動きと関連づけられるかたちで、サイコロを振る人間の存在が背後に示唆されていたのですね。

つまりchanceについては、神や神々が与えてくれるような全く隔絶されたところから降ってくるものとしてではなく、何らかの決定的なかたちで私たちが介入できる、とは言えないでしょうか。

少なくとも、何もせずに好機——これもまたchanceでした——が来るのを、あるいは幸運が訪れるのをぼんやりと待っているという態度は、初めにサイコロを投げ主導権をとる(donner la chance)態度とは結びつけられないでしょうし、寧ろそもそも何らかのchanceが発生するためには、サイコロを手に握って振り出さなくてはならない、とは言えないでしょうか。これはきっと、私たちの常識に照らしてみても。


予期せぬ好運を意味する「棚からぼた餅」という表現だって、背後には人為を想定させるものです。

もちろん「棚からぼた餅」を得た人から見れば、ぼた餅はどこか天上の存在から与えられたような気持ちになるかもしれません。しかし、棚にぼたもちを置いたのは絶対に誰かしら人間なのです。

人間が最初に環境に働きかけることなしには、幸運や好機、思わぬ偶然——良いものであれ悪いものであれ——が到来しないということを、私たちはこのchanceという言葉の語源において、勝手に読み取ることができるのではないか、ということです。


chance、つまり「好運」「好機」という語の語源にいっときたちかえって、それが上から落ちてくるものだ、という観念を抱く際にはもちろん、私たちはそれが自分の手ではどうにも制御できないものだ、という印象を抱きうるもので、実際その印象はただしいでしょう。

とはいえ、——ここはポジショントークにしますが——私のように仏仏辞典を引いて、フランス語の最初期の用法を確認する能力があると、どうやらchanceという語の人任せでない側面、つまりサイコロを投げる人間がいなければそもそも何の好運もありえない・何か物事が動くことはありえない、という側面まで読み取る——ないしはこじつける——ことができるのでした。

実にフランス語を学ぶという働きかけに応じて、こうした語源を意識した読解を行なって皆さんにお渡しするという「チャンス」を得られたわけですが、これはぼんやり口を開けて待っていてもあり得なかったものでしょう。


語源的広がりを一切無視して、身も蓋もなく抽象的に言うのであれば、何か好機が訪れないかな、と思っていても訪れるわけはないから、とりあえず自分で外界に働きかけなければどうしようもないのではありませんか、ということでした。

■【まとめ】
・英語や仏語のchanceという単語の背後には、ラテン語のcadere「落ちる」という意味の動詞が控えており、ここから、偶然・人間の手を離れたところで上から何か物が落ちてくるものとしてのchanceの像が立ち上がりうる。つまり好機や好運といったものは人間の手によって操作できないものである、という観念が生じうるし、そこからは人生に対し匙を投げたような態度が構想されうるだろう。

・しかし反面、フランス語の最初期のchanceという語の用法を見てみるとそこにはサイコロが投げられて落ちること(とその結果として出る目)についてchanceという語が使われている形跡があり、しかも「最初にサイコロを振る」こと及び「主導権を握る」ことを意味するdonne la chanceというような表現からも分かる通り、人間は(環境を介して)chanceを到来せしめるようはたらきかけることができるし、寧ろ外界にはたらきかけねばチャンスなどありえない、ということが示唆されるようでもある。

・「チャンス」が落ちてくるものであるとしても、落ちるためには人間が落とすか、落ちる位置に置いてやるかする、そうした契機が必要だ、と考えることもできるのではないだろうか。

■【補遺】
・マラルメの詩「賽の一振りは決して偶然を排さないだろう(Un coup de dés jamais n’abolira le hasard)」は極めて有名ですが、この詩については最後のフレーズこそが私の印象に残っています。それは「あらゆる思惟は賽を一振りする(Toute Pensée émet un Coup de Dés)」というものです。考えることにかけては、あるいはその内容を書くことにかけては、私たちが統御できるところと統御できないところがある、という粗雑な観念を記憶に留めるための手がかりにはなるかもしれません。

・晩年のニーチェの記述を、ニーチェの妹が極めて恣意的に編集した所謂『力への意志』は、ニーチェの専門家が著作として一体性を論じるような対象では決してありえませんし、ニーチェの思想の反映としても第一に扱われるべきものではありませんが、ある時期には盛んに各国語に訳され、多くの思想家がよりどころとしました。バタイユの『ニーチェについて』はこの磁場のうちにある著作です。『ニーチェについて』の副題はまさに『力への意志(volonté de puissance)』をもじって付けられた「好運の意志(volonté de chance)」というものであり、バタイユは私とはおおいに異なるかたちでchanceの語源に触れています。サイコロへの、賭けへの言及(全集第6巻17ページ)などは大きな差でしょうし、動詞échoirへの言及(50ページ)は決定的です。